第10話 源ちゃんラーメン
タイトルが「源ちゃんラーメン」って・・・ふざけてるよね。何突然、何が始まるの? みたいにね。もう、作者もよく分かりません。
深夜の静けさの中、かすかな金属音だけが廊下に響いた。
意識は自室のドアノブをゆっくりと回し、隙間を細く開けた。家族を起こさないよう、足の裏全体で床の軋みを抑えながら廊下へ出る。
階段を下り、玄関へ向かう。向こうの部屋から、誰かの規則正しい寝息が微かに聞こえてきた。昼の成瀬歩の妹だろうか。その静かな呼吸音を背に受けながら、意識は黒いパーカーのフードを深く被り、冷たい玄関ドアを押し開けた。
外の空気は、肺の奥が少し縮むほど冷たかった。
住宅街は深い眠りに落ちており、街灯の光だけがアスファルトを照らしている。だが、駅の方へ歩くにつれて、景色は少しずつ変わっていった。
遠くから響く車のエンジン音。煌々と周囲を照らすコンビニの白い光。酔っ払いのくぐもった笑い声。深夜の道路工事を知らせる赤い誘導灯。
昼間の成瀬歩が見ている街とは、同じ場所のはずだった。
それなのに、夜の街はまるで別の顔をしていた。
意識は周囲を観察しながら歩いた。検索で見た空き缶拾いのことも頭の片隅にあったが、実際に街へ出てみると、落ちているものだけで金を作るのは簡単ではないと分かる。
街には人がいる。
深夜でも開いている店があり、働いている人間がいて、何かに困っている人間がいる。
金は、ただ落ちているわけではない。人の動きや、誰かの困りごとから生まれるものなのかもしれない。
そんなことを考えながら駅裏の薄暗い路地へ入った時、鼻を突く強い匂いが流れてきた。
豚骨と醤油。
それに、焦げたニンニクの匂い。
見上げると、油で黒ずんだ赤いのれんが風に揺れていた。
『源ちゃんラーメン』
深夜にもかかわらず、店内からは食器のぶつかる音と、太く怒鳴るような声が漏れてくる。
「くそっ、三浦ァ! まだ洗い場終わってねぇのか!」
「無理ですって! 一人で会計と片付けと洗い場を同時にやる腕は、まだ進化の途中です!」
「てやんでぇ、あの野郎……電話一本で辞めますだぁ? 顔出して言えってんだよ、顔をよ!」
店の中を覗き込むと、カウンター席にはまだ数人の酔客が居座っていた。厨房では五十代くらいの角刈りの男が、湯気の向こうで怒鳴りながら麺を茹でている。
その横では、大学生らしき若い店員が、軽い口調で返事をしながら慌ただしく動いていた。
どうやら、急な欠勤でもあったのか、店は完全に人手が足りていないらしい。流し台には、油で汚れた丼や皿が山のように積まれている。
通り過ぎようとした足が、そこで止まった。
金が必要だ。
そして目の前には、人手を必要としている場所がある。
意識は短く息を吸い、赤いのれんをくぐった。
「手伝えば、いくら出ますか」
その平坦な声に、厨房の動きが一瞬だけ止まった。
角刈りの店主――源田鉄平は、湯気の中からギョロリとした目を向けた。
「……てやんでぇ。ガキが開口一番それか。おめぇ、誰だ」
「通りすがりの者です。金が必要です」
「見りゃ分かる。そういう顔してやがるから聞いてんだよ。年は? 学生か?」
その問いに、意識は一拍だけ黙った。
ここで学生と答えれば、学校名や学年を聞かれるかもしれない。高校生だと分かれば、この時間に働こうとしている理由まで説明しなければならない。
余計な情報は、余計な痕跡になる。
「……中卒です。仕事を探していますが、なかなか見つかりません」
源田の眉が、わずかに動いた。
信じた、という顔ではなかった。
むしろ、胡散臭い話を聞いた時の目だ。
それでも源田は、すぐには追い返さなかった。
「おめぇ、その顔で中卒って言うには、目だけ妙に大人びてんな」
「そう見えるなら、そうなのだと思います」
「返しが可愛くねぇんだよ」
横にいた若い店員が、たまらず吹き出した。
「店長、また濃いの来ましたね」
「うるせぇ三浦! 笑ってねぇで手ぇ動かせ!」
源田は意識の細い体を、頭から足先までじろじろと見た。警戒している。だが、それ以上に、洗い場に積まれた丼の山と、客席の残骸が限界に近いことも分かっているようだった。
「いいか、坊主。これはバイトじゃねぇ。今日だけの手伝いだ。皿洗いと片付けだけ。客席には出ねぇ。店に迷惑はかけるな。警察沙汰も勘弁だ」
「分かりました」
「終わったら、小遣いくらいは出してやる。だが、使えなかったらすぐ追い出す」
「十分です」
源田は鼻を鳴らし、顎で厨房の奥を示した。
「裏から入れ。三浦、洗い場を教えてやれ」
「了解です。えーと、中卒くん?」
「名前は必要ですか」
「必要っていうか、呼びづらいんだけど」
意識が答えに迷っていると、源田が奥から怒鳴った。
「名前なんざ後でいい! 今は丼を割らねぇことだけ覚えとけ!」
三浦は肩をすくめ、ゴム手袋を差し出した。
「だってさ。じゃあ、とりあえず新人くん。ようこそ源ちゃんラーメンへ」
言われるままに裏口から厨房へ入ると、熱気と油の匂いが一気に押し寄せてきた。
三浦悠斗と名乗った大学生バイトは、苦笑いしながら洗い場を指さす。
「皿はこっち。丼はこっち。油がきついやつは先に湯につける。あと店長に理屈で返すと長引くから、最初は『はい』だけでいい」
「了解しました。店長への返答は最小限にします」
「いや、軍隊じゃないんだから」
三浦は軽くツッコミを入れつつ、手早く洗い場の動線を教えてくれた。源田の怒鳴り声にすっかり慣れているのか、彼の動きには無駄が少ない。
意識は流し台の前に立ち、山積みの丼に向き合った。
最初の数枚は手が滑りそうになったが、すぐにスポンジの動かし方と、水流の当て方を調整する。油の強い丼は先に湯につけ、皿と箸は別にまとめる。洗い終えたものは、三浦が取りやすい位置へ積む。
無駄な動きを一つずつ削ると、作業の速度は目に見えて上がっていった。
その様子を横目で見ていた源田が、茹で上がった麺を湯切りしながら怒鳴る。
「おめぇ、皿を見てんじゃねぇ! 皿ってのはな、洗えば終わりじゃねぇ。次に使うやつのこと考えて置くんだよ!」
意識はスポンジを持ったまま、真顔で源田の方を向いた。
「了解しました。皿の未来を考えます」
「そうはいってねぇ!」
源田の太い声が厨房に響き、三浦が肩を揺らして笑いをこらえている。
「新人くん、今のは“置き方を考えろ”って意味ね」
「最初からそう言えばいいのでは」
「それを言うと、店長のアイデンティティが崩れる」
「三浦ァ! 聞こえてんぞ!」
「ほらね、耳はいいんだよ」
怒鳴られてはいるが、恐怖は感じなかった。源田の言葉は荒い。だが、仕事を回すためのルールははっきりしている。そこに悪意はなかった。
「兄ちゃん、若いのに苦労してんなぁ」
カウンターの隅でビールを飲んでいた酔客が、無表情で皿を洗い続ける意識を見て声をかけてきた。
意識は手を止めず、平坦な声で返す。
「苦労の定義によります」
「定義から入るやつ初めて見たわ!」
客が嬉しそうに手を叩いて笑う。
三浦がすかさず、「すみません、うちの新人、ちょっと理系なんで」と適当なフォローを入れ、空になったジョッキを下げた。
「理系なのか?」
「分かりません」
「そこは否定しないんだ」
三浦が笑いながら空いた席を片付ける。
その間にも、源田は厨房の中を動き回り、最後のラーメンを出し、会計を済ませ、客を追い出すように見送っていった。
「また来いよ。今度は閉店時間前にな」
「店主、それ客に言う台詞ですか」
「てやんでぇ、言うんだよ。帰らねぇ客にはな」
最後の客が笑いながら店を出ると、ようやく店内に静けさが戻った。
暖簾がしまわれ、カウンターが拭かれ、床の水気が消えていく。
シンクの中に積まれていた食器も、すべて所定の位置に収まっていた。
意識はゴム手袋を外し、小さく息を吐いた。体には確かな疲労が溜まっている。昼間の学校の疲れとは違う。自分の意思で筋肉を動かし続けた結果の疲労だった。
「おい、坊主」
カウンターを拭き終えた源田が、無造作に折りたたまれた紙幣を差し出してきた。
千円札が二枚。
意識はそれを受け取った。
薄いはずの紙幣が、手の中で妙に重く感じられる。
これが、自分の判断と行動で初めて得た対価だった。
何者でもない自分が、世界に少しだけ干渉して得た結果だ。
「これ食ってけ。わけぇんだから、まだ入るだろ」
感慨に浸る間もなく、源田がカウンターの上に、湯気を立てるラーメンの丼をドンと置いた。
濃い醤油のスープに、厚切りのチャーシューが乗っている。
意識は丼と源田を交互に見比べた。
「報酬に含まれますか」
「含まねぇよ。まかないだ。働いたやつに食わせる飯だ」
「なぜですか」
「てやんでぇ、理由がねぇと飯も食えねぇのか」
源田はそう言いながら、腕を組んだ。
「腹減らしたまま帰すほど、うちは薄情じゃねぇ。食え。伸びる」
三浦が隣の席に腰を下ろし、自分の分のラーメンをすすり始める。
「新人くん、店長の“食え”は命令だから。逆らうと説教が伸びるよ。麺より伸びる」
「了解しました」
「そこで納得するんだ」
意識は割り箸を割り、スープを一口飲んだ。
熱く、塩辛く、強い旨味が舌の上に広がる。疲れた体に、油と炭水化物がじわりと染みていった。
空腹だったのだと、その時になって気づいた。
金を得るために働いた。
だが、差し出されたのは金だけではなかった。
働いた者に食わせる飯。
源田の言い方は乱暴だったが、その丼には、確かな温度があった。
意識は黙って、まかないのラーメンを胃に収めていった。
*
店を出ると、空の端がわずかに白み始めていた。
冷たい明け方の空気を吸い込み、意識は帰路につく。ポケットの中には、手に入れたばかりの二千円が入っている。胃にはまかないの温かさが残り、体には働いた後の疲労があった。
金を得た。
それだけではない。
源田という荒っぽい店主がいて、三浦という軽い大学生がいて、酔った客が笑っていた。
夜の街には、昼の歩が知らない人間たちがいる。
意識はそのことを、初めて体で知った。
駅裏の高架下へ差し掛かった時だった。
コンクリートの橋脚の陰に、段ボールを几帳面に敷き詰めたスペースがある。そこに、一人の老人が座っていた。
六十代くらいだろうか。服はくたびれているが、不思議と清潔感があり、背筋が真っ直ぐに伸びている。
意識が通り過ぎようとした瞬間、静かな声が背中に届いた。
「初めて稼いだ金かい?」
足が止まった。
意識は警戒しながら老人を振り返る。
「なぜ分かる」
「握り方で分かるよ。落とすまいとして、ポケットの中の指に力が入りすぎてる」
老人は、源田とは対照的な、穏やかで柔らかな笑みを浮かべていた。人を脅すような気配はない。
だが、その静かな声には、夜の街の喧騒を通り抜けてきたような妙な説得力があった。
「金はね、稼ぐより先に、扱い方を覚えた方がいい」
老人は、高架下を通り抜ける冷たい風の中で、ぽつりとそう言った。
「そうしないと、金は人を助ける前に、人を壊す」
意識は答えなかった。
この老人が何者なのか、なぜそんなことを言うのかは分からない。
ただ、その言葉だけが、妙に耳に残った。
パーカーのポケットの中で、二枚の千円札が、さっきよりも少しだけ重くなった気がした。
意識は軽く会釈だけを残し、再び歩き出した。
夜が明け、朝の成瀬歩が目覚める前に、あの静かな部屋へ戻らなければならない。




