表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/12

第10話 源ちゃんラーメン

タイトルが「源ちゃんラーメン」って・・・ふざけてるよね。何突然、何が始まるの? みたいにね。もう、作者もよく分かりません。

 深夜の静けさの中、かすかな金属音だけが廊下に響いた。


 意識は自室のドアノブをゆっくりと回し、隙間を細く開けた。家族を起こさないよう、足の裏全体で床の軋みを抑えながら廊下へ出る。


 階段を下り、玄関へ向かう。向こうの部屋から、誰かの規則正しい寝息が微かに聞こえてきた。昼の成瀬歩の妹だろうか。その静かな呼吸音を背に受けながら、意識は黒いパーカーのフードを深く被り、冷たい玄関ドアを押し開けた。


 外の空気は、肺の奥が少し縮むほど冷たかった。


 住宅街は深い眠りに落ちており、街灯の光だけがアスファルトを照らしている。だが、駅の方へ歩くにつれて、景色は少しずつ変わっていった。


 遠くから響く車のエンジン音。煌々と周囲を照らすコンビニの白い光。酔っ払いのくぐもった笑い声。深夜の道路工事を知らせる赤い誘導灯。


 昼間の成瀬歩が見ている街とは、同じ場所のはずだった。


 それなのに、夜の街はまるで別の顔をしていた。


 意識は周囲を観察しながら歩いた。検索で見た空き缶拾いのことも頭の片隅にあったが、実際に街へ出てみると、落ちているものだけで金を作るのは簡単ではないと分かる。


 街には人がいる。


 深夜でも開いている店があり、働いている人間がいて、何かに困っている人間がいる。


 金は、ただ落ちているわけではない。人の動きや、誰かの困りごとから生まれるものなのかもしれない。


 そんなことを考えながら駅裏の薄暗い路地へ入った時、鼻を突く強い匂いが流れてきた。


 豚骨と醤油。


 それに、焦げたニンニクの匂い。


 見上げると、油で黒ずんだ赤いのれんが風に揺れていた。


『源ちゃんラーメン』


 深夜にもかかわらず、店内からは食器のぶつかる音と、太く怒鳴るような声が漏れてくる。


「くそっ、三浦ァ! まだ洗い場終わってねぇのか!」


「無理ですって! 一人で会計と片付けと洗い場を同時にやる腕は、まだ進化の途中です!」


「てやんでぇ、あの野郎……電話一本で辞めますだぁ? 顔出して言えってんだよ、顔をよ!」


 店の中を覗き込むと、カウンター席にはまだ数人の酔客が居座っていた。厨房では五十代くらいの角刈りの男が、湯気の向こうで怒鳴りながら麺を茹でている。


 その横では、大学生らしき若い店員が、軽い口調で返事をしながら慌ただしく動いていた。


 どうやら、急な欠勤でもあったのか、店は完全に人手が足りていないらしい。流し台には、油で汚れた丼や皿が山のように積まれている。


 通り過ぎようとした足が、そこで止まった。


 金が必要だ。


 そして目の前には、人手を必要としている場所がある。


 意識は短く息を吸い、赤いのれんをくぐった。


「手伝えば、いくら出ますか」


 その平坦な声に、厨房の動きが一瞬だけ止まった。


 角刈りの店主――源田鉄平は、湯気の中からギョロリとした目を向けた。


「……てやんでぇ。ガキが開口一番それか。おめぇ、誰だ」


「通りすがりの者です。金が必要です」


「見りゃ分かる。そういう顔してやがるから聞いてんだよ。年は? 学生か?」


 その問いに、意識は一拍だけ黙った。


 ここで学生と答えれば、学校名や学年を聞かれるかもしれない。高校生だと分かれば、この時間に働こうとしている理由まで説明しなければならない。


 余計な情報は、余計な痕跡になる。


「……中卒です。仕事を探していますが、なかなか見つかりません」


 源田の眉が、わずかに動いた。


 信じた、という顔ではなかった。


 むしろ、胡散臭い話を聞いた時の目だ。


 それでも源田は、すぐには追い返さなかった。


「おめぇ、その顔で中卒って言うには、目だけ妙に大人びてんな」


「そう見えるなら、そうなのだと思います」


「返しが可愛くねぇんだよ」


 横にいた若い店員が、たまらず吹き出した。


「店長、また濃いの来ましたね」


「うるせぇ三浦! 笑ってねぇで手ぇ動かせ!」


 源田は意識の細い体を、頭から足先までじろじろと見た。警戒している。だが、それ以上に、洗い場に積まれた丼の山と、客席の残骸が限界に近いことも分かっているようだった。


「いいか、坊主。これはバイトじゃねぇ。今日だけの手伝いだ。皿洗いと片付けだけ。客席には出ねぇ。店に迷惑はかけるな。警察沙汰も勘弁だ」


「分かりました」


「終わったら、小遣いくらいは出してやる。だが、使えなかったらすぐ追い出す」


「十分です」


 源田は鼻を鳴らし、顎で厨房の奥を示した。


「裏から入れ。三浦、洗い場を教えてやれ」


「了解です。えーと、中卒くん?」


「名前は必要ですか」


「必要っていうか、呼びづらいんだけど」


 意識が答えに迷っていると、源田が奥から怒鳴った。


「名前なんざ後でいい! 今は丼を割らねぇことだけ覚えとけ!」


 三浦は肩をすくめ、ゴム手袋を差し出した。


「だってさ。じゃあ、とりあえず新人くん。ようこそ源ちゃんラーメンへ」


 言われるままに裏口から厨房へ入ると、熱気と油の匂いが一気に押し寄せてきた。


 三浦悠斗と名乗った大学生バイトは、苦笑いしながら洗い場を指さす。


「皿はこっち。丼はこっち。油がきついやつは先に湯につける。あと店長に理屈で返すと長引くから、最初は『はい』だけでいい」


「了解しました。店長への返答は最小限にします」


「いや、軍隊じゃないんだから」


 三浦は軽くツッコミを入れつつ、手早く洗い場の動線を教えてくれた。源田の怒鳴り声にすっかり慣れているのか、彼の動きには無駄が少ない。


 意識は流し台の前に立ち、山積みの丼に向き合った。


 最初の数枚は手が滑りそうになったが、すぐにスポンジの動かし方と、水流の当て方を調整する。油の強い丼は先に湯につけ、皿と箸は別にまとめる。洗い終えたものは、三浦が取りやすい位置へ積む。


 無駄な動きを一つずつ削ると、作業の速度は目に見えて上がっていった。


 その様子を横目で見ていた源田が、茹で上がった麺を湯切りしながら怒鳴る。


「おめぇ、皿を見てんじゃねぇ! 皿ってのはな、洗えば終わりじゃねぇ。次に使うやつのこと考えて置くんだよ!」


 意識はスポンジを持ったまま、真顔で源田の方を向いた。


「了解しました。皿の未来を考えます」


「そうはいってねぇ!」


 源田の太い声が厨房に響き、三浦が肩を揺らして笑いをこらえている。


「新人くん、今のは“置き方を考えろ”って意味ね」


「最初からそう言えばいいのでは」


「それを言うと、店長のアイデンティティが崩れる」


「三浦ァ! 聞こえてんぞ!」


「ほらね、耳はいいんだよ」


 怒鳴られてはいるが、恐怖は感じなかった。源田の言葉は荒い。だが、仕事を回すためのルールははっきりしている。そこに悪意はなかった。


「兄ちゃん、若いのに苦労してんなぁ」


 カウンターの隅でビールを飲んでいた酔客が、無表情で皿を洗い続ける意識を見て声をかけてきた。


 意識は手を止めず、平坦な声で返す。


「苦労の定義によります」


「定義から入るやつ初めて見たわ!」


 客が嬉しそうに手を叩いて笑う。


 三浦がすかさず、「すみません、うちの新人、ちょっと理系なんで」と適当なフォローを入れ、空になったジョッキを下げた。


「理系なのか?」


「分かりません」


「そこは否定しないんだ」


 三浦が笑いながら空いた席を片付ける。


 その間にも、源田は厨房の中を動き回り、最後のラーメンを出し、会計を済ませ、客を追い出すように見送っていった。


「また来いよ。今度は閉店時間前にな」


「店主、それ客に言う台詞ですか」


「てやんでぇ、言うんだよ。帰らねぇ客にはな」


 最後の客が笑いながら店を出ると、ようやく店内に静けさが戻った。


 暖簾がしまわれ、カウンターが拭かれ、床の水気が消えていく。


 シンクの中に積まれていた食器も、すべて所定の位置に収まっていた。


 意識はゴム手袋を外し、小さく息を吐いた。体には確かな疲労が溜まっている。昼間の学校の疲れとは違う。自分の意思で筋肉を動かし続けた結果の疲労だった。


「おい、坊主」


 カウンターを拭き終えた源田が、無造作に折りたたまれた紙幣を差し出してきた。


 千円札が二枚。


 意識はそれを受け取った。


 薄いはずの紙幣が、手の中で妙に重く感じられる。


 これが、自分の判断と行動で初めて得た対価だった。


 何者でもない自分が、世界に少しだけ干渉して得た結果だ。


「これ食ってけ。わけぇんだから、まだ入るだろ」


 感慨に浸る間もなく、源田がカウンターの上に、湯気を立てるラーメンの丼をドンと置いた。


 濃い醤油のスープに、厚切りのチャーシューが乗っている。


 意識は丼と源田を交互に見比べた。


「報酬に含まれますか」


「含まねぇよ。まかないだ。働いたやつに食わせる飯だ」


「なぜですか」


「てやんでぇ、理由がねぇと飯も食えねぇのか」


 源田はそう言いながら、腕を組んだ。


「腹減らしたまま帰すほど、うちは薄情じゃねぇ。食え。伸びる」


 三浦が隣の席に腰を下ろし、自分の分のラーメンをすすり始める。


「新人くん、店長の“食え”は命令だから。逆らうと説教が伸びるよ。麺より伸びる」


「了解しました」


「そこで納得するんだ」


 意識は割り箸を割り、スープを一口飲んだ。


 熱く、塩辛く、強い旨味が舌の上に広がる。疲れた体に、油と炭水化物がじわりと染みていった。


 空腹だったのだと、その時になって気づいた。


 金を得るために働いた。


 だが、差し出されたのは金だけではなかった。


 働いた者に食わせる飯。


 源田の言い方は乱暴だったが、その丼には、確かな温度があった。


 意識は黙って、まかないのラーメンを胃に収めていった。



 店を出ると、空の端がわずかに白み始めていた。


 冷たい明け方の空気を吸い込み、意識は帰路につく。ポケットの中には、手に入れたばかりの二千円が入っている。胃にはまかないの温かさが残り、体には働いた後の疲労があった。


 金を得た。


 それだけではない。


 源田という荒っぽい店主がいて、三浦という軽い大学生がいて、酔った客が笑っていた。


 夜の街には、昼の歩が知らない人間たちがいる。


 意識はそのことを、初めて体で知った。


 駅裏の高架下へ差し掛かった時だった。


 コンクリートの橋脚の陰に、段ボールを几帳面に敷き詰めたスペースがある。そこに、一人の老人が座っていた。


 六十代くらいだろうか。服はくたびれているが、不思議と清潔感があり、背筋が真っ直ぐに伸びている。


 意識が通り過ぎようとした瞬間、静かな声が背中に届いた。


「初めて稼いだ金かい?」


 足が止まった。


 意識は警戒しながら老人を振り返る。


「なぜ分かる」


「握り方で分かるよ。落とすまいとして、ポケットの中の指に力が入りすぎてる」


 老人は、源田とは対照的な、穏やかで柔らかな笑みを浮かべていた。人を脅すような気配はない。


 だが、その静かな声には、夜の街の喧騒を通り抜けてきたような妙な説得力があった。


「金はね、稼ぐより先に、扱い方を覚えた方がいい」


 老人は、高架下を通り抜ける冷たい風の中で、ぽつりとそう言った。


「そうしないと、金は人を助ける前に、人を壊す」


 意識は答えなかった。


 この老人が何者なのか、なぜそんなことを言うのかは分からない。


 ただ、その言葉だけが、妙に耳に残った。


 パーカーのポケットの中で、二枚の千円札が、さっきよりも少しだけ重くなった気がした。


 意識は軽く会釈だけを残し、再び歩き出した。


 夜が明け、朝の成瀬歩が目覚める前に、あの静かな部屋へ戻らなければならない。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ