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第11話 千円札の重さ

 明け方前の冷たい風が、高架下を吹き抜けていく。


 意識は、ポケットの中で折りたたまれた二千円を握ったまま、目の前に座る老人へ警戒の視線を向けていた。


 灰原玄と名乗った老人は、くたびれた服を着ているのに、不思議とみすぼらしくは見えなかった。背筋は伸び、声も穏やかで、こちらを脅す気配はない。ただ、その目だけは妙に静かだった。


「なぜ、金を持っていると分かったんですか」


 意識が尋ねると、灰原はゆっくりと瞬きをした。


「握り方で分かるよ。落とすまいとして、ポケットの中の指に力が入りすぎてる」


 その声は、先ほどまで厨房で怒鳴っていた源田とはまるで違っていた。静かで、柔らかい。けれど、言葉の奥には妙な重みがあった。


「空き缶を拾えば金になると調べました」


 意識は、少し距離を取ったまま自分の考えを口にした。


「『金になる』ね。でも、そこにも先に拾っている人がいる」


「空き缶にも所有者がいるのですか!?」


「所有者じゃない。順番だよ。夜には夜の順番がある」


 灰原は、そばに置かれた袋を軽く叩いた。


「あの路地は誰が回る。あの店の裏は誰が先に見る。そういう決まりが、言葉にしなくてもできている。知らずに入れば、揉めるだけだ」


 意識は黙った。


 正しい、と言われて初めて気づいた。検索窓に出てくるのは、方法だけだ。その場所で誰が生きていて、どんな順番で回っているのかまでは、画面の中には出てこない。


「……検索だけでは、分からないこともあるのか」


 思わず漏れた言葉に、灰原は小さく笑った。


「そうだね。夜の街は、画面より少し面倒なんだ」


 その言い方は穏やかだった。けれど、そこには実際にその面倒さの中で生きてきた人間だけが持つ、静かな実感があった。


「金が欲しいなら、金を探すんじゃない。人の困りごとを見なさい」


「困りごと?どう言うことですか?」


「きっとそのお金も、誰かの困りごとを助けて、その結果もらえたものじゃないのかい」


 源ちゃんラーメンの厨房が頭に浮かんだ。


 油まみれの丼。怒鳴る源田。笑っている三浦。


 あの店には、足りないものがあった。自分はそこを少しだけ埋めた。


 だから、二千円が生まれた。


「なるほど……その通りかもしれません」


 金を得た理由を、初めて別の形で理解できた気がした。皿を洗ったからではない。困っている場所に、自分の手が届いたからだ。


 ポケットの中の二千円が、ただの紙ではなく、自分が夜の街に触れた証のように思えた。


「稼ぐことより、何を守るために稼ぐのかを忘れない方がいい」


 灰原は、ポケットの中の紙幣を握る意識の手元へ、静かに視線を向けた。


「金はね、稼ぐより先に、扱い方を覚えた方がいいんだ。そうしないと、金は人を助ける前に、人を壊す」


 その言葉に、意識は何も答えられなかった。


 ただ、ポケットの中で二枚の千円札を軽く握り直す。その紙切れが、少しだけ重くなった気がした。


 ふと、コンクリートの橋脚がうっすら白く浮かび上がっていることに気づいた。


 夜明けが近い。


 昼の成瀬歩が目覚める時間が迫っている。


 早く帰らなければ。


 この体は、朝になれば自分のものではなくなる。ここで遅れれば、成瀬歩の日常に、自分の足跡を残してしまう。


「……失礼します」


 話の途中であったが、意識は短く頭を下げ、足早に高架下を離れた。


「気をつけてな」


 背中越しに、灰原の穏やかな声が届く。振り返る余裕はなかった。



 足音を殺して自室へ戻り、ドアを閉めた瞬間、意識は小さく息を吐いた。


 カーテンの隙間から、薄い朝の光が差し込み始めている。もう時間がない。


 ポケットから、くしゃくしゃになった二枚の千円札を取り出す。


 この金をどうするべきか。


 財布に入れれば、歩が中身を見た時に不審に思う。机の上や引き出しに置くのも危険だ。服のポケットに入れたままなら、着替えや洗濯で見つかるかもしれない。


 自分で働いて得た金だ。


 だが、この体を使って得た以上、完全に自分だけのものとも言い切れない。


 その奇妙な感覚を抱えたまま、意識は部屋を見回した。


 本棚の隅に、背表紙の色あせた古い将棋の定跡書が並んでいる。歩が日常的に開いている形跡はない。ここなら、すぐには見つからないはずだ。


 意識は一冊を抜き出し、プラスチックカバーの内側に二枚の千円札を丁寧に伸ばして挟み込んだ。


 本を元の位置へ戻す。


 外からは、そこに何かが隠されているようには見えなかった。


 金を隠し終えたところで、意識は自分の体に残った痕跡に気づいた。


 手のひらを返すと、指の腹が少し赤くなっている。熱い湯と洗剤で何十枚もの皿を洗い続けたせいか、皮膚が乾いていた。


 脱いだ黒いパーカーからは、豚骨スープと焦げた油の匂いがする。胃の奥には、源田が食べさせてくれたラーメンの重さも残っていた。


 検索履歴は消せた。


 けれど、手の荒れも、服の匂いも、胃の重さも、消えてはくれない。


 意識は洗面所へ向かい、指先を水で洗った。部屋へ戻ると、パーカーを裏返して丸め、クローゼットの奥に押し込む。


 できる対策は、それくらいだった。


 完全には隠しきれない。そう分かっていながら、もう時間がなかった。


 意識はベッドに横になり、重くなっていくまぶたを閉じた。窓の外で、朝を告げる鳥の声が聞こえ始めていた。



 歩は、鈍い疲労感とともに目を開けた。


「……重っ」


 体を起こそうとして、思わず声が漏れる。


 腕から肩にかけて、妙なだるさがあった。昨日、そんなに体を使った覚えはない。将棋部で駒を動かしたくらいで、こんな疲れ方をするだろうか。


 それに、胃のあたりがやけにもたれている。


 昨日の夕食は、家で普通の生姜焼きを食べただけのはずだ。夜食を食べた記憶もないのに、脂っこいものを詰め込んだ後のような重さがある。


 首を傾げながらベッドを抜け出し、リビングへ向かった。


 廊下ですれ違いざま、洗面所から出てきた陽菜がぴたりと足を止める。


「お兄ちゃん」


「何?」


 陽菜は目を細めると、歩の周りを小さく回りながら、くんくんと鼻を動かした。


「……陽菜?」


「動かないで。今、重要な捜査中だから」


「朝から何の捜査だよ」


 陽菜は歩の袖口に顔を近づけ、今度は少し真面目な顔になる。


「なんか、ラーメン屋さんの匂いする」


「……え?」


「しかも、この匂いは、ただ食べた匂いじゃない。厨房側の匂いだね」


 陽菜はくいっと、かけてもいない眼鏡を上げるような仕草をした。


「名探偵みたいに言うな」


「ふふん。女子中学生の嗅覚をなめないで。シャンプー変えただけで気づくんだから」


 歩は面食らって、自分のパジャマの襟元を嗅いだ。


 言われてみれば、かすかに豚骨のような、油っぽい匂いがする気もする。


「お兄ちゃん、夜中にこっそり抜け出してラーメン食べてきたでしょ。しかも換気扇の下とかで」


「食べるわけないだろ。第一、そんな金ないし」


「じゃあなんでそんな匂いするのよ」


「知らないよ。事故の後の変な汗とか……帰り道にラーメン屋の前を通ったとかだろ」


「昨日、そんな道通ったっけ?」


「たぶん」


「たぶんって」


 陽菜はまだ疑わしそうな顔をしていたが、すぐに小さく息を吐いた。


「まあいいけど。変な無理してないよね?」


「してないって」


「お兄ちゃんの大丈夫は、ちょっと信用ならないんだよなあ」


「ひどいな」


 軽く返したつもりだった。


 けれど、陽菜に言われた匂いのことが、胸の奥に小さく残った。


 ラーメンなんて食べていない。


 厨房に立った覚えも、もちろんない。


 ないはずなのに、体だけが別の答えを持っているようで、少し気味が悪かった。


 歩はその感覚を振り払うように、洗面所へ向かった。


 鏡の前に立ち、冷たい水で顔を洗う。


 タオルで顔を拭いた時、ふと自分の指先に目が落ちた。


 少しだけ赤くなっている。


 何かを洗い続けた後のように、指の腹がわずかに乾いていた。


 冬でもないのに、手荒れなんてするだろうか。昨日の将棋部では、小森と盤を挟んでいただけだ。水仕事などしていない。


「……昨日、俺、何してたんだっけ」


 鏡の中の自分を見つめながら、小さく呟く。


 もちろん、答えは返ってこない。


 記憶の中の昨日は、夕食を食べて、自分の部屋で少し将棋の棋譜を見て、そのまま眠っただけの平凡な一日だった。


 少し疲れているだけだ。


 事故から復帰したばかりで、体がまだ本調子ではないのだろう。


 そう思おうとしたが、乾いた指先の感覚だけは、しばらく残っていた。


 歩は深く考えるのをやめ、パジャマのズボンで軽く指先を擦ってから、洗面所を出た。


 歩がいつもの朝の準備を進めている間も。


 部屋の机の奥では、古い将棋の本に挟まれた二枚の千円札が、誰にも知られず静かに眠っていた。


 その重さを知っているのは、まだ夜の意識だけだった。

ここから、一気に話は加速する!!(予定)


夜の主人公の生活、昼の主人公の生活、2人の世界が大きく分岐する。けれど、決して交差しない・・・多分。


「働くって何だろう?」 「生きるって何だろう?」 「世界平和って何だろう?」 そう、この物語は道徳の教科書にもできる、学術小説である・・・(。´・ω・)?

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