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第12話 夜の二度目

 深い闇の中で意識が浮上した時、体には確かな疲労感が残っていた。


 昼の成瀬歩が、この体を使って一日を過ごした疲れ。そこに加えて、指先のわずかな乾きや、手のひらのこわばりには、昨夜の自分が残した痕跡が混じっていた。


 暗い自室の天井を見つめながら、意識は静かに思考を巡らせる。


 ――机の奥、古い将棋の定跡書のカバーの内側に隠した二千円


 ――源ちゃんラーメン


 ――源田鉄平


 ――三浦悠斗


 そして、明け方の高架下で出会った老人の言葉。


『金が欲しいなら、金を探すんじゃない。人の困りごとを見なさい』


 灰原玄は、そう言った。


 検索窓で見つけた空き缶拾いのような方法には、すでに夜の街のルールと先客がいる。ただ落ちているものを探すのではなく、誰かが困っている場所を見つける必要がある。


 昨夜、源ちゃんラーメンで小銭を得られたのは、あの店が人手不足で困っていたからだ。


 ならば、次に向かう場所は決まっている。


 もう一度、あの店へ行く価値がある。


 意識はベッドから音もなく降り、前回の反省を踏まえて慎重に準備を始めた。


 廊下の気配をうかがい、家族の寝息を確認する。黒いパーカーを羽織り、スマートフォンの位置を確かめる。


 店に行けば、また油の匂いが服や髪につくかもしれない。帰宅後に手を洗い、服を奥へ押し込む。それ以上の対策は、今の自分には思いつかない。


 足の裏全体で体重を分散させ、床の軋みを殺しながら玄関へ向かう。


 冷たいドアノブを回し、意識は夜の街へと再び一歩を踏み出した。



 駅裏の路地には、今日も焦げたニンニクと豚骨の匂いが漂っていた。


 赤いのれんをくぐると、店内は前回ほどの大混乱ではなかったものの、カウンターにはいくつもの空の丼が残り、厨房では太い怒鳴り声が響いていた。


 深夜のピークを過ぎた直後。


 客足は落ち着いているが、片付けが追いついていないのだろう。


「いらっしゃいま……あ、皿の未来くんだ」


 布巾を持った三浦が、のれんをくぐった意識を見て目を丸くした。


「その呼称は定着したのですか」


 意識が尋ねると、三浦はにやりと笑った。


「店長が気に入ってる」


「気に入ってねぇ!」


 湯気の中から、角刈りの店主・源田がギョロリと目を剥く。


「おう、中卒坊主。生きてたか」


「死んだ覚えはありません」


「そういう返しが可愛くねぇって言ってんだよ」


 源田は鼻を鳴らし、積まれた洗い物の山を顎でしゃくった。


「今日も手伝いだ。バイトじゃねぇ。そこは間違えんな」


「分かっています」


「分かってる顔じゃねぇんだよ、おめぇは。……さっさと裏から入れ」


 その言葉に、意識は短く頷き、裏口から厨房へ入った。


 熱気と油の匂いが、前回よりも早く体にまとわりつく。


 ゴム手袋をはめ、流し台の前に立つ。


 ここからが、前回の自分との違いだった。


 意識は目の前の食器の山を一瞥し、すぐに作業の順番を組み立てた。


 油の強い丼は、洗い始める前に熱湯を張ったシンクの隅へ浸けておく。箸とレンゲは別々のカゴにまとめ、後で一気に洗う。洗い終えた皿は、三浦が次の注文で取りやすい位置へ、向きを揃えて置く。


 一度経験しただけで、店の流れは前よりずっと見えやすくなっていた。


 源田の怒鳴り声も、すべてをそのまま受け取る必要はない。


 注文の変更。


 次に必要な皿。


 三浦の動く方向。


 必要な情報だけを拾えば、何をすべきかは自然と見えてくる。


 意識は、自分の手が迷わず動くことに少しだけ驚いていた。


 悪くない。


 熱い湯はゴム手袋越しでも指にしみるし、油の匂いも鼻を突く。皿洗いそのものが楽しいわけではない。


 それでも、少し下がれば三浦が通りやすくなり、皿の向きを揃えれば源田の手が止まらない。


 自分の動き一つで、店の流れが変わる。


 それは、思っていたより悪くなかった。


 金を得るために来たはずなのに、働くことには、それとは別の手応えがあるらしい。


「新人くん、吸収早いね。俺の初日より全然使えるよ」


 三浦が、綺麗に並べられた皿の山を見て感心したように言った。


「比較対象が三浦さんなら、判断が難しいです」


「急に刺すじゃん」


 三浦が苦笑しながら、カウンターへ戻っていく。


 源田も、麺の湯切りをしながら横目で流し台を見た。


「おめぇ、前より手ぇ動いてんな」


「前回の作業工程を記憶し、最適化しました」


「てやんでぇ、皿洗いを研究発表みてぇに言うな。調子に乗んなよ、皿を割らなかっただけだ」


 口ではそう言いながらも、源田の目つきは前回より少しだけ柔らかかった。



 今回は、前よりもずっと早く片付けが終わった。


 源田がカウンター越しに、千円札一枚と五百円玉一枚を差し出してくる。


 意識はそれを受け取り、ポケットにしまった。


 前回は、初めて得た金としての重みがあった。


 今回は少し違う。


 自分の動きが認められた結果として渡された金だ。わずかな金額でも、その意味は前よりはっきりしていた。


「また困ってる時は来い。うちはいつでも人手不足だからな」


 布巾でカウンターを拭きながら、源田がぶっきらぼうに言った。


 三浦がすかさず横から顔を出す。


「それ、言っちゃまずいんじゃないですか? でも、来てくれたら助かるよ」


「毎日来いとは言ってねぇ。来られる時だけだ」


 源田は三浦を軽く睨んでから、意識の方を向いた。


「おめぇにも事情があんだろ。深くは聞かねぇ。だが、困った時は来い」


 その言葉に、意識は目を瞬かせた。


 夜の自分には、家も学校もない。


 成瀬歩の部屋を借り、成瀬歩の体を使い、誰にも知られないように動いているだけだ。


 その自分に向かって、来られる時だけ来い、と言う人間がいる。


 それは、金とは少し違う重さを持っていた。


「ほれ」


 源田が、アルミホイルに包まれた無骨な塊を放り投げてきた。


 受け取ると、まだ熱を持つ大きなおにぎりだった。


「今日は食ってく時間ねぇんだろ。なら持ってけ」


「報酬に含まれますか」


「またそれか。細けぇやつだな。違ぇよ」


 源田は呆れたように息を吐き、腕を組んだ。


「腹減ってるやつは判断を間違える。いいから持ってけ」


「……ありがとうございます」


 意識は短く頭を下げ、アルミホイルの温かさを、ポケットの小銭とは別に大事に持った。



 店を出ると、夜の空気はまだ冷たく、空も暗かった。


 前回よりかなり早い。


 これなら、朝の歩に匂いや手の荒れを疑われる危険も少しは減らせるはずだ。


 だが、早く店を出た理由はそれだけではない。


 意識は駅裏の路地を抜け、高架下へ向かった。


 前回は偶然の出会いだった。


 今回は、自分からあの老人を探す。


 歩きながら、源田にもらったおにぎりを一口かじった。具には細かく刻まれたチャーシューが混ざっており、濃い味が体の奥に広がっていく。


 腹が満たされると、頭の中の考えも少しだけ輪郭を取り戻す。


 灰原の言葉。


 源田の店。


 人の困りごと。


 もっと大きく動くには、もっと多くの金がいる。


 その考えだけは、ずっと消えなかった。


 高架下に近づくと、暗がりの中で、カシャカシャと金属が擦れる音が聞こえた。


 灰原玄は、大きな透明のビニール袋を引きずりながら、自販機の横のゴミ箱を静かに覗き込んでいた。


「灰原さん」


 声をかけると、老人はゆっくり振り返り、穏やかな顔に笑みを浮かべた。


「今日は君から来たんだね」


「少し、聞きたいことがあります」


「歩きながらでいいかな。そろそろ回る時間なんだ」


「回る?」


「夜の順番だよ」


 灰原はそう言って、再び歩き出した。


 意識は無言で隣に並び、老人が引きずっていたビニール袋の端を持ち上げる。


 灰原は「すまないね」と目を細め、夜の路地を進んでいった。


 灰原の動きには無駄がなかった。


 ある路地のゴミ箱は覗く。だが、隣のブロックの空き缶には手を出さない。


「この区画は、火曜の夜は私が回っていいことになっている」


 灰原は落ちていたアルミ缶を拾い上げ、袋へ入れた。


「向こうの通りは別の人だ。空き缶一つでも、勝手に拾えば揉める。夜の街には、見えない境界線があるんだよ」


 その言葉を聞きながら、意識は袋の端を持ち上げた。


 検索窓には出てこないルールが、ここにもある。


 袋の重みを感じながら、意識は本題を切り出した。この人なら相談できるかもしれない、という希望を込めて。


「灰原さん」


「なんだい」


「人の困りごとを見るという考え方は、少し分かりました」


「それはよかった。君の顔を見れば、さっきの店でいい働きをしたのが分かるよ」


「では、もっと大きく稼ぐ方法はありますか」


 意識の問いに、灰原の足が止まった。


 老人は、手元の空き缶と、意識のまっすぐな視線を交互に見つめる。


 穏やかな顔に、初めて困ったような色が浮かんだ。


「あるにはあるよ」


 灰原は、袋の中の金属の山を見下ろしながら、静かに言った。


「でも、それは私がすすめられる話ではないね」


 灰原の声には、さっきまでとは違う重さがあった。


 意識は口を閉ざし、老人の横顔を見る。


 その表情は、金の稼ぎ方を知っている人間の顔ではなかった。


 金で何かを失った人間の顔だった。


 遠くで、深夜のサイレンが小さく鳴った。

これはフィクションです。


良い子は直ぐに寝ましょう。決して危ないマネはしないように・・・

(´・ω・`)

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