第12話 夜の二度目
深い闇の中で意識が浮上した時、体には確かな疲労感が残っていた。
昼の成瀬歩が、この体を使って一日を過ごした疲れ。そこに加えて、指先のわずかな乾きや、手のひらのこわばりには、昨夜の自分が残した痕跡が混じっていた。
暗い自室の天井を見つめながら、意識は静かに思考を巡らせる。
――机の奥、古い将棋の定跡書のカバーの内側に隠した二千円
――源ちゃんラーメン
――源田鉄平
――三浦悠斗
そして、明け方の高架下で出会った老人の言葉。
『金が欲しいなら、金を探すんじゃない。人の困りごとを見なさい』
灰原玄は、そう言った。
検索窓で見つけた空き缶拾いのような方法には、すでに夜の街のルールと先客がいる。ただ落ちているものを探すのではなく、誰かが困っている場所を見つける必要がある。
昨夜、源ちゃんラーメンで小銭を得られたのは、あの店が人手不足で困っていたからだ。
ならば、次に向かう場所は決まっている。
もう一度、あの店へ行く価値がある。
意識はベッドから音もなく降り、前回の反省を踏まえて慎重に準備を始めた。
廊下の気配をうかがい、家族の寝息を確認する。黒いパーカーを羽織り、スマートフォンの位置を確かめる。
店に行けば、また油の匂いが服や髪につくかもしれない。帰宅後に手を洗い、服を奥へ押し込む。それ以上の対策は、今の自分には思いつかない。
足の裏全体で体重を分散させ、床の軋みを殺しながら玄関へ向かう。
冷たいドアノブを回し、意識は夜の街へと再び一歩を踏み出した。
*
駅裏の路地には、今日も焦げたニンニクと豚骨の匂いが漂っていた。
赤いのれんをくぐると、店内は前回ほどの大混乱ではなかったものの、カウンターにはいくつもの空の丼が残り、厨房では太い怒鳴り声が響いていた。
深夜のピークを過ぎた直後。
客足は落ち着いているが、片付けが追いついていないのだろう。
「いらっしゃいま……あ、皿の未来くんだ」
布巾を持った三浦が、のれんをくぐった意識を見て目を丸くした。
「その呼称は定着したのですか」
意識が尋ねると、三浦はにやりと笑った。
「店長が気に入ってる」
「気に入ってねぇ!」
湯気の中から、角刈りの店主・源田がギョロリと目を剥く。
「おう、中卒坊主。生きてたか」
「死んだ覚えはありません」
「そういう返しが可愛くねぇって言ってんだよ」
源田は鼻を鳴らし、積まれた洗い物の山を顎でしゃくった。
「今日も手伝いだ。バイトじゃねぇ。そこは間違えんな」
「分かっています」
「分かってる顔じゃねぇんだよ、おめぇは。……さっさと裏から入れ」
その言葉に、意識は短く頷き、裏口から厨房へ入った。
熱気と油の匂いが、前回よりも早く体にまとわりつく。
ゴム手袋をはめ、流し台の前に立つ。
ここからが、前回の自分との違いだった。
意識は目の前の食器の山を一瞥し、すぐに作業の順番を組み立てた。
油の強い丼は、洗い始める前に熱湯を張ったシンクの隅へ浸けておく。箸とレンゲは別々のカゴにまとめ、後で一気に洗う。洗い終えた皿は、三浦が次の注文で取りやすい位置へ、向きを揃えて置く。
一度経験しただけで、店の流れは前よりずっと見えやすくなっていた。
源田の怒鳴り声も、すべてをそのまま受け取る必要はない。
注文の変更。
次に必要な皿。
三浦の動く方向。
必要な情報だけを拾えば、何をすべきかは自然と見えてくる。
意識は、自分の手が迷わず動くことに少しだけ驚いていた。
悪くない。
熱い湯はゴム手袋越しでも指にしみるし、油の匂いも鼻を突く。皿洗いそのものが楽しいわけではない。
それでも、少し下がれば三浦が通りやすくなり、皿の向きを揃えれば源田の手が止まらない。
自分の動き一つで、店の流れが変わる。
それは、思っていたより悪くなかった。
金を得るために来たはずなのに、働くことには、それとは別の手応えがあるらしい。
「新人くん、吸収早いね。俺の初日より全然使えるよ」
三浦が、綺麗に並べられた皿の山を見て感心したように言った。
「比較対象が三浦さんなら、判断が難しいです」
「急に刺すじゃん」
三浦が苦笑しながら、カウンターへ戻っていく。
源田も、麺の湯切りをしながら横目で流し台を見た。
「おめぇ、前より手ぇ動いてんな」
「前回の作業工程を記憶し、最適化しました」
「てやんでぇ、皿洗いを研究発表みてぇに言うな。調子に乗んなよ、皿を割らなかっただけだ」
口ではそう言いながらも、源田の目つきは前回より少しだけ柔らかかった。
*
今回は、前よりもずっと早く片付けが終わった。
源田がカウンター越しに、千円札一枚と五百円玉一枚を差し出してくる。
意識はそれを受け取り、ポケットにしまった。
前回は、初めて得た金としての重みがあった。
今回は少し違う。
自分の動きが認められた結果として渡された金だ。わずかな金額でも、その意味は前よりはっきりしていた。
「また困ってる時は来い。うちはいつでも人手不足だからな」
布巾でカウンターを拭きながら、源田がぶっきらぼうに言った。
三浦がすかさず横から顔を出す。
「それ、言っちゃまずいんじゃないですか? でも、来てくれたら助かるよ」
「毎日来いとは言ってねぇ。来られる時だけだ」
源田は三浦を軽く睨んでから、意識の方を向いた。
「おめぇにも事情があんだろ。深くは聞かねぇ。だが、困った時は来い」
その言葉に、意識は目を瞬かせた。
夜の自分には、家も学校もない。
成瀬歩の部屋を借り、成瀬歩の体を使い、誰にも知られないように動いているだけだ。
その自分に向かって、来られる時だけ来い、と言う人間がいる。
それは、金とは少し違う重さを持っていた。
「ほれ」
源田が、アルミホイルに包まれた無骨な塊を放り投げてきた。
受け取ると、まだ熱を持つ大きなおにぎりだった。
「今日は食ってく時間ねぇんだろ。なら持ってけ」
「報酬に含まれますか」
「またそれか。細けぇやつだな。違ぇよ」
源田は呆れたように息を吐き、腕を組んだ。
「腹減ってるやつは判断を間違える。いいから持ってけ」
「……ありがとうございます」
意識は短く頭を下げ、アルミホイルの温かさを、ポケットの小銭とは別に大事に持った。
*
店を出ると、夜の空気はまだ冷たく、空も暗かった。
前回よりかなり早い。
これなら、朝の歩に匂いや手の荒れを疑われる危険も少しは減らせるはずだ。
だが、早く店を出た理由はそれだけではない。
意識は駅裏の路地を抜け、高架下へ向かった。
前回は偶然の出会いだった。
今回は、自分からあの老人を探す。
歩きながら、源田にもらったおにぎりを一口かじった。具には細かく刻まれたチャーシューが混ざっており、濃い味が体の奥に広がっていく。
腹が満たされると、頭の中の考えも少しだけ輪郭を取り戻す。
灰原の言葉。
源田の店。
人の困りごと。
もっと大きく動くには、もっと多くの金がいる。
その考えだけは、ずっと消えなかった。
高架下に近づくと、暗がりの中で、カシャカシャと金属が擦れる音が聞こえた。
灰原玄は、大きな透明のビニール袋を引きずりながら、自販機の横のゴミ箱を静かに覗き込んでいた。
「灰原さん」
声をかけると、老人はゆっくり振り返り、穏やかな顔に笑みを浮かべた。
「今日は君から来たんだね」
「少し、聞きたいことがあります」
「歩きながらでいいかな。そろそろ回る時間なんだ」
「回る?」
「夜の順番だよ」
灰原はそう言って、再び歩き出した。
意識は無言で隣に並び、老人が引きずっていたビニール袋の端を持ち上げる。
灰原は「すまないね」と目を細め、夜の路地を進んでいった。
灰原の動きには無駄がなかった。
ある路地のゴミ箱は覗く。だが、隣のブロックの空き缶には手を出さない。
「この区画は、火曜の夜は私が回っていいことになっている」
灰原は落ちていたアルミ缶を拾い上げ、袋へ入れた。
「向こうの通りは別の人だ。空き缶一つでも、勝手に拾えば揉める。夜の街には、見えない境界線があるんだよ」
その言葉を聞きながら、意識は袋の端を持ち上げた。
検索窓には出てこないルールが、ここにもある。
袋の重みを感じながら、意識は本題を切り出した。この人なら相談できるかもしれない、という希望を込めて。
「灰原さん」
「なんだい」
「人の困りごとを見るという考え方は、少し分かりました」
「それはよかった。君の顔を見れば、さっきの店でいい働きをしたのが分かるよ」
「では、もっと大きく稼ぐ方法はありますか」
意識の問いに、灰原の足が止まった。
老人は、手元の空き缶と、意識のまっすぐな視線を交互に見つめる。
穏やかな顔に、初めて困ったような色が浮かんだ。
「あるにはあるよ」
灰原は、袋の中の金属の山を見下ろしながら、静かに言った。
「でも、それは私がすすめられる話ではないね」
灰原の声には、さっきまでとは違う重さがあった。
意識は口を閉ざし、老人の横顔を見る。
その表情は、金の稼ぎ方を知っている人間の顔ではなかった。
金で何かを失った人間の顔だった。
遠くで、深夜のサイレンが小さく鳴った。
これはフィクションです。
良い子は直ぐに寝ましょう。決して危ないマネはしないように・・・
(´・ω・`)




