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第8話 別人みたいな一手

 朝、目が覚めると、体には薄い疲れが残っていた。


 ゆっくりと身を起こし、首を回す。病院で目覚めた時のような痛みや強いだるさはない。ただ、少しだけ体が重い。


 昨日の放課後、久しぶりに将棋部へ顔を出したせいだろう。


 歩は小さく息を吐き、制服に着替えるために立ち上がった。


 ふと、机の上に置かれたスマートフォンが目に入る。


 何気なく手に取った瞬間、胸の奥がほんの少しだけ高鳴った。


 歩は眉を寄せ、手の中の黒い画面を見つめる。電源ボタンを押すと、通知はいつも通りで、家族や友人からの他愛ないメッセージがいくつか入っているだけだった。


 変わったところはない。


 気のせいだろう。


 事故の後だから、こういう感覚もあるのかもしれない。深く考えるほどのことではないと片づけ、歩はスマートフォンをポケットにしまって部屋を出た。



 学校に着くと、教室はいつもの朝の喧騒に包まれていた。


 自分の席に鞄を置いたところで、後ろから明るい声が降ってくる。


「成瀬、今日も生存確認完了。昨日より顔色マシだな」


 振り返ると、友人の小森拓真がニヤニヤと笑いながら立っていた。相変わらず、少し寝癖のついた頭をしている。


「出席確認が雑だな」


「俺の中では重要な業務なんだよ。友人管理部門だから」


 小森は冗談めかして胸を張り、前の席の椅子を引いてどっかりと座った。


 彼のこういう陽気さは、歩にとってありがたかった。事故でしばらく休んでいた自分に対して、腫れ物に触るような態度をとらず、以前とまったく同じように接してくれる。


 そのおかげで、歩は自分が日常に戻ってきたのだと、自然に感じることができていた。


「ていうか、昨日は将棋部で少し無理しすぎたんじゃないか? 途中で顔がボーッとしてたぞ」


「そうかな。久しぶりだったから、ちょっと疲れただけだよ」


「まあな。俺の華麗な盤捌きを見せられて、脳が疲労したんだろう」


「……それはないな」


「即答すんなよ」


 小森がわざとらしく肩をすくめる。


 朝の教室のざわめきの中で、歩は自然と口元を緩めた。胸の奥にあったわずかな違和感は、他愛のない会話の中でいつの間にか薄れていった。



 放課後。


 歩は小森と一緒に、将棋部の部室へ向かった。


 ドアを開けると、パチリ、という乾いた駒の音が耳に届く。少し埃っぽいカーテンの匂いと、夕方の柔らかな光。昨日も感じた、穏やかな部室の空気がそこにあった。


「うす」


 小森が軽く挨拶をして中へ入る。


 部屋の奥では、倉橋部長が腕を組んで盤面を見つめていた。歩たちの姿を視界の端で捉えると、短く一度だけ頷き、再び盤面へと意識を戻す。


 窓際の席には、篠原結衣が座っていた。


 彼女はこちらを見ると、控えめに小さな笑みを浮かべる。歩も軽く会釈を返し、小森と向かい合う形で空いている席に座った。


「よし、今日は俺が勝つ。昨日家に帰ってから、新しい戦法を編み出したからな」


「それ、大抵うまくいかないパターンじゃないか?」


「言うねえ。見てろよ」


 小森が自信たっぷりに駒箱を開け、盤上に駒を並べ始める。歩もそれに合わせ、一つずつ自分の陣地を整えていった。


 対局が始まると、小森は宣言通り、序盤から少し変わった手順で攻め込んできた。


 歩は盤面を見つめながら、静かに息を吐く。


 将棋を指している間は、頭の中が少しだけ整理される。考えるべきことは、六十四マスの上にある。目の前の駒をどう動かし、相手の狙いをどう受けるか。それだけを追っていればよかった。


 中盤に差し掛かった頃、歩は自分の手番で少し考え込んだ。


 小森の陣形には、わずかな隙がある。


 いつもの自分なら、ここは一度守りを固めていたはずだ。けれど、その時はなぜか、相手の陣形を崩す手が先に目に入った。


 守るよりも、攻める。


 歩は少し迷ってから、その駒を前へ押し出した。


 パチリ、と少し強めの音が鳴る。


「……えっ?」


 小森が、素っ頓狂な声を上げた。


 盤面をまじまじと見つめ、それから歩の顔を驚いたように見る。


「おいおい、今日の成瀬、攻めっ気強くない? 別人みたいだぞ」


 その言葉に、歩の指が一瞬だけ止まった。


「……そうか?」


 返事が、ほんの一拍だけ遅れる。


 けれど小森は気づかず、いつもの調子で笑っていた。


「いや絶対そうだろ。俺の完璧な作戦が、これで台無しになった。ちょっと待って、一回だけ戻していい?」


「待ったはなしだろ」


 歩はそう返して、盤面へ視線を戻した。


 ほんの少し引っかかった感覚も、小森の騒がしい声に紛れてすぐ薄れていく。そうだ、ただの冗談だ。小森はいつもこうやって大げさに騒ぐ。


 歩は小さく息を吐き、次の一手を考え始めた。



 部活が終わり、片付けを済ませた頃には、外はすっかり暗くなっていた。


 小森がトイレに行くと言って部室を出た直後、歩が鞄を手に取ろうとすると、すぐ横から静かな声がした。


「成瀬くん」


 振り返ると、少し離れた席にいたはずの篠原が、すぐ近くに立っていた。


 彼女は自分の鞄を両手で持ち、少し迷うように視線を落としてから、歩の顔を見た。


「さっき……少しだけ止まってたけど、大丈夫?」


「え?」


「小森くんに言われた時。ほんの一瞬だけ、考え込んでたみたいだったから」


 篠原の言葉に、歩は少しだけ驚いた。


 小森に「別人みたいだ」と言われた時、自分の動きが止まったのはほんの一瞬だったはずだ。目の前にいた小森でさえ気づかなかったのに、彼女は少し離れた場所から、その小さな変化を見ていたらしい。


「ああ……そうだった? ちょっと、次の手を考えてただけだよ」


 歩が努めて軽く答えると、篠原は少しだけ考えるように目を伏せた。


 けれど、それ以上は踏み込まず、小さく頷く。


「そっか。ならいいんだけど」


「うん。ありがとう、篠原さん」


 歩がお礼を言うと、篠原はほんのりと頬を染め、「ううん」と小さく首を振った。


「また明日ね、成瀬くん」


「うん、また明日」


 篠原が部室を出ていくのを見送りながら、歩は自分の手を見つめた。


 少しだけ止まっていた。


 彼女には、そう見えたらしい。


 自分が少し変わったのかもしれないと、歩はぼんやり考えた。事故のせいで、無意識のうちに将棋の指し手や、些細な言葉への反応が変わっているのだろうか。


 けれど、それ以上の答えは出なかった。


 廊下から小森が呼ぶ声が聞こえ、歩は思考を切り上げて部室を後にした。



 夜。


 帰宅して夕食を済ませ、自室のベッドに腰掛ける。


 部屋の中は静かで、一日の疲れがじんわりと体に染み込んでくる時間だった。


 歩は何気なく、ポケットからスマートフォンを取り出した。


 画面を点灯させ、ブラウザのアイコンをタップする。


 検索履歴には、特におかしなものは残っていなかった。


 それは当然のことだった。自分は今日、何も特別なことを調べていない。


 それなのに、画面を閉じる直前、胸の奥に小さな違和感だけが残った。


 気のせいだ。


 歩はそう思って、スマートフォンを机の上に伏せた。


 制服を脱ぎ、部屋の明かりを消してベッドに入る。目を閉じると、今日一日の出来事がぼんやりと浮かんでは消えていった。


 ――別人みたいだぞ。


 小森の冗談が、眠る前になっても少しだけ耳に残っていた。


 暗闇の中で、歩は寝返りを打つ。


「……大げさだろ」


 誰に言うでもなく呟き、歩は深く息を吸い込んだ。


 自分は成瀬歩だ。


 事故の後で、少しだけ調子が戻っていないだけだ。明日になれば、またいつも通りの一日が始まる。


 そう考えると、胸の違和感は少しずつ薄れていった。


 やがて歩の意識は、穏やかな眠りの底へ沈んでいく。


 机の上では、スマートフォンの黒い画面だけが、暗い部屋の中で静かに伏せられていた。

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