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第2話 帰る場所

 窓から差し込む朝の光が、白いシーツを淡く染め始めていた。


 病室のドアが静かに開き、見回りに来た若い看護師が顔を覗かせる。


「成瀬くん、起きている?」


 ――成瀬くん


 その呼びかけが自分に向けられたものだと気づくまで、ほんの一拍だけ遅れた。返事をしなければ不自然に思われる。


「……はい」


 乾いた喉から、短い声を絞り出す。音にはなったが、それが自分の返事なのか、成瀬歩という少年のものなのか、意識には分からなかった。


 やがて白衣を着た医師がやってきて、簡単な診察が始まった。


 ペンライトで瞳孔の動きを確認され、痛む箇所をいくつか尋ねられる。医師の口ぶりから、交通事故で頭を強く打ったこと、今日はベッドで安静にしていなければならないことが分かった。


「頭を打っているからね。事故の前後や、少し前の記憶が一時的に曖昧になることもあるけれど、今は焦らなくていいから」


 記憶が曖昧になることもある。

 

 医師のその説明は、今の自分にとって都合がよかった。少しくらい反応が遅れても、何かを思い出せなくても、事故の影響だと思ってもらえる。


 診察が終わり、病室に静けさが戻ってからしばらくして、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。


 ドアが開く。


「歩……!」


 駆け寄ってきた女性は、こちらの顔を見るなり、泣きそうに目元を歪めた。けれどすぐに笑顔を作り、「よかった、ちゃんと起きてる」と少しおかしなことを言う。


 その不自然な明るさと声の震えだけで、一晩中どれほど心配していたのかは分かった。それでも彼女は、こちらを不安にさせないように笑おうとしていた。


 その母親の背中から、ひょこりと顔を出した少女がいた。


 肩より少し長い髪を高い位置で結んだ、ポニーテールの少女だった。病室に入るなり、ぱっと表情を明るくしたが、目元は少し赤い。眠れていないのか、いつもの顔を作ろうとしているのか、その笑顔にはわずかな無理が混じっていた。


 この子が、陽菜。


 昨夜、スマートフォンの通知で「お兄ちゃん」と呼んできた妹なのだろう。


「お兄ちゃん、生きてる?」


 わざとらしく軽い口調で、ベッドを覗き込んでくる。


「ちょっと、陽菜」


 母親がたしなめると、少しだけ口を尖らせた。


「だって、変に泣いたりしたらお兄ちゃん困るでしょ。こういう時は、いつも通りの方が安心するじゃん」


 その言葉で、ようやく分かった。


 陽菜は明るいのではなく、兄を安心させるため、明るくしようとしているのだ。


 そしてベッドの横まで来ると、シーツの上に置かれたこちらの手を、両手でそっと包み込むように握った。


「痛い? まだ痛む? 無理してない?」


 立て続けに問いかけてくる手は、とても温かかった。


 たぶん、成瀬歩ならこの温かさを知っている。兄妹として、今まで何度も当たり前に触れてきた手なのだろう。


 陽菜が本気で心配していることは分かる。


 けれど、その温かさを自分のものとして受け取れないことが、苦しかった。


「歩、昨日のこととか、ちゃんと覚えてる? 何か変な感じはしない?」


 母親が、心配そうに顔を覗き込んでくる。


 完全に何も分からないとは言えない。けれど、すべて覚えているふりをするのも難しかった。


「……事故の前後が、少しぼんやりしていて。思い出せないところがあります」


「そう。でも先生も、今はゆっくり休めばいいって言ってたから。無理に思い出そうとしなくていいのよ」


 2人とも、その言葉を事故の影響として受け入れてくれた。


 この家族は、少しの違和感なら体調のせいにして心配してくれるのだろう。


 優しさに助けられているのに、本当のことは何一つ言えていない。


 そのことが、少しだけ胸に引っかかった。


 面会時間が終わりに近づき、二人が帰る準備を始める。


 医師の話によれば、このまま大きな異常がなければ近いうちに退院できるらしい。その言葉を聞いて、母親も陽菜もようやく心から安心したような顔をした。


 帰り際、陽菜がもう一度ベッドを振り返り、少しだけ照れくさそうに笑った。


「無理に思い出さなくてもいいからさ。とりあえず、早く帰ってきてよ。お兄ちゃんの部屋、そのままにしてあるから」


 病室のドアが閉まり、再び一人きりになる。


 ――帰る場所。


 その言葉が、胸の奥に深く引っかかった。


 成瀬歩には、帰る場所がある。


 家族がいて、部屋があって、待っている妹がいる。


 けれど今の意識には、そのどれもが自分のものだとは思えなかった。


 それでも、陽菜の赤く腫れた目と、無理に作った優しい笑顔を思い出す。


 この温かい場所を、壊してはいけない。


 なぜそう思ったのかは分からない。


 それでも、彼らの穏やかな日常を壊してはいけない。


 それだけは、はっきり感じていた。

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