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第3話 成瀬歩という人間

 退院の手続きは、午前中のうちに終わった。


 病院の自動ドアを抜けると、外の空気が頬に触れた。四月の風は、日向では少し暖かく、日陰ではまだ冷たい。


 たった二日ぶりなのに、外に戻ってきた気がした。


「何してるの。早く行くよ」


 少し先で、陽菜が振り返った。


 母は隣でバッグを持っている。父は車を回してくると言って、先に駐車場へ向かっていた。


 陽菜はポニーテールを揺らして歩いてくると、歩の横に並んだ。


「外の空気って感じがするでしょ。病院って、においが独特だから」


「そうだな。出てみて分かった」


 歩がそう答えると、陽菜はしばらく歩の顔を見た。


「昨日より顔色いい気がする」


「そう?」


「うん。病院にいる時、なんかお兄ちゃんが薄くなっていく感じがしたから」


「薄くなっていくって、何」


「分かんないけど、そう見えたの」


 陽菜は少し照れたように視線をそらした。


「でも、退院できてよかった。本当に」


 その声には、ほっとしたような響きがあった。


 歩は「ありがとう」とだけ返した。


 陽菜は何も言わなかったが、そこからは歩の歩調に合わせてくれた。


    *


 車の中では、父が運転し、母が助手席に座った。歩と陽菜は後部座席に並んで座る。


 ラジオが小さな音で流れていた。


「退院したら、何か食べたいものある?」


 母が振り返って聞いた。


「特にないかな」


「本当に何でもいいの?」


「まだ食べたいものが思いつかないだけ。出てきたものは食べるよ」


「じゃあ、シチューにしようかな。消化にもいいし」


 そこで、陽菜が隣から顔を出した。


「私も手伝う」


 歩は少しだけ言葉を選んだ。


「陽菜は手伝わなくていいよ。ゆっくりしてて」


「え、なんで」


「シチューは複雑だから」


「シチューが複雑って何? 野菜切って煮るだけじゃないの」


「その工程に陽菜のセンスが入ると、少し心配になる」


 陽菜は一瞬黙り、それからむっとした顔になった。


「お兄ちゃんのくせに失礼なんだけど」


 母が前の席で小さく笑った。


 父は何も言わなかったが、バックミラーに映った目が少し細くなっていた。


    *


 家に着いた時、歩は玄関を入ってすぐ、自分の家のにおいを感じた。


 病院のにおいとは違う。


 靴を脱いで床に上がると、足の裏に伝わる感触もいつも通りだった。


 たった二日しか離れていないのに、少しだけ懐かしい。


 部屋に戻ると、そこには何も変わっていない景色があった。


 机の上には将棋の本が積まれている。本棚の端には大会の資料が挟まっている。部屋の隅には、将棋研究用のパソコンが置いてあった。


 歩はベッドに座り、スマートフォンを充電器に差した。


 バッテリーの残量は七十三パーセントだった。昨日充電したわりには少し減っている気もしたが、病院で何度も使ったせいだろう。


 歩はそう思って、深く考えなかった。


 通知を開くと、小森からメッセージが来ていた。


『退院おめでとう。プリントは取っといたけど、字が読めるかは保証しない。あと将棋部、今日も俺が負けた。しかも初段の人に三十手でやられたから、やっぱりお前がいないと俺の勝率下がる気がする』


 歩は少し笑ってから返信した。


『字が読めなくても写せば同じだから大丈夫。三十手は早いな。どの戦型?』


 返信はすぐに来た。


『四間飛車。序盤から圧倒された。俺にはやっぱり居飛車が向いてないのかもしれない』


『飛車を振った方がいいかもな』


 そう返して、歩はスマートフォンを置いた。


 少し遅れて、篠原からもメッセージが届いていた。


『お帰りなさい。無理に復帰しなくていいですから、今は体を休めてください。盤面は逃げませんし、私たちも逃げません』


 最後の一文で、歩は少しだけ手を止めた。


 盤面は逃げない。


 私たちも逃げない。


 普通の人はあまり使わない言い方だと思った。けれど、そう書かれていると、部室の空気がそのまま残っているような気がした。


 歩は少し考えてから、短く返した。


『ありがとう。ゆっくりする』


 それだけで十分だと思った。


    *


 その日は、静かに過ぎた。


 昼食を食べ、少し横になり、夕方に教科書を開いてみたが、文字を追うだけで少し疲れた。母からも「今日は無理しなくていい」と言われていたので、歩はすぐに本を閉じた。


 夕食はシチューだった。


 陽菜は結局、ほとんど手伝わなかったらしい。だからというわけではないが、普通においしかった。


 夜、歯を磨いて部屋へ戻ろうとした時、陽菜の部屋のドアが少しだけ開いた。


「おやすみ。ちゃんと寝てね」


「うん、おやすみ」


「頭、まだ痛い?」


「少し。でも大したことない」


 陽菜はその返事を聞いて、少しだけ黙った。


「無理して治ったふりしなくていいからね。お母さんとかに言いにくかったら、私に言って」


「うん」


「分かった」


 陽菜はそう言って、ドアを閉めた。


 廊下に一人残って、歩は少しだけその言葉を思い返した。


 陽菜は面倒見がいい。


 頼りにしている、というほどではない。けれど、ありがたいとは思った。


 部屋に戻り、電気を消してベッドに横になる。


 窓の外には、夜の空があった。街の明かりが、薄く空を染めている。


 体は、まだ少し重い。


 それでも、病院より自分の部屋の方が眠れる気がした。


 眠りは、思ったより早くやってきた。


    *


 意識が戻った時、部屋は暗かった。


 目を開けてすぐ、病院ではないと分かった。


 天井が違う。空気が違う。窓から差し込む光も、病院の廊下のものではない。


 視線を動かすと、机があり、本棚があり、部屋の隅にパソコンがあった。


 ここが、成瀬歩の部屋なのだろう。


 しばらく、その輪郭を確認した。


 スマートフォンを手に取り、時刻を見る。


 午前零時十二分。


 指紋認証は、今夜も問題なく通った。


 家の中は静まり返っている。廊下から人の気配はなく、階下の物音も聞こえない。


 成瀬歩が眠った後で、自分が目覚めたのだろう。


 そのことを確かめてから、スマートフォンの画面を開いた。


    *


 ブラウザの履歴には、今日の日中の記録が残っていた。


 ニュース。SNS。将棋の棋譜サイト。


 病院にいた時と、大きくは変わらない。


 ただ、一つだけ目に留まる検索があった。


『記憶 曖昧 事故後 原因』


 成瀬歩が、事故後の記憶の曖昧さを気にして調べたのだろう。


 自然な反応だった。


 頭を打った。事故の前後を覚えていない。だから原因を調べる。


 そこからすぐに、夜に別の意識が目覚めているという考えにたどり着くとは思えない。


 だが、無視していいものでもなかった。


 成瀬歩は、違和感を覚え始めている。


 まだ小さい。


 けれど、確かにそこにある。


    *


 今夜見るべきものは、この部屋だった。


 成瀬歩が毎日を過ごしている場所。


 机の上。本棚。パソコン。ノート。そこには、スマートフォンの履歴だけでは分からないものが残っているはずだった。


 まず、机の周りを見た。


 机の上には、読みかけの本が数冊積まれていた。どれも将棋に関するものだった。何冊かには付箋が貼られ、ページの端が折れている。


 開いてみると、詰将棋の問題に鉛筆の書き込みがあった。間違えた手を消して、上から書き直した跡もある。


 書き込みは綺麗ではないが、途中で投げ出したような乱れ方でもなかった。


 成瀬歩は、将棋が強いわけではないらしい。けれど、簡単に諦める人間でもない。


 棚には教科書やノート、文庫本が並んでいた。その中に、将棋部の大会資料らしい紙が一枚挟まっている。


 確認すると、成瀬歩の名前は一回戦敗退の欄にあった。


 強くはないが、それでも続けている。


 そこは、覚えておくべき情報だった。


 次に、部屋の隅にあるパソコンを起動した。


 少し待つと、ログイン画面が表示された。パスワードを求められている。


 思いつく数字を試すことはできる。生年月日、名前に関係する数字、将棋に関係する言葉。


 だが、失敗の記録が残るかもしれない。


 今は無理に試すより、手がかりを探すべきだった。


 パソコンを閉じ、スマートフォンに戻る。


    *


 画像を順に見ていくと、将棋の盤面を撮ったものがいくつもあった。棋譜のメモ代わりに使っているのだろう。


 その中に、学校の廊下で撮られたらしい一枚があった。


 成瀬歩の隣に、地味な印象の男子がいる。もう一人は、前髪の長い女子だった。


 名前は、画像だけでは分からない。


 LOINを開いた。


 トーク一覧には、「小森拓真」と「篠原結衣」という名前が並んでいた。


 小森拓真とのやり取りは多い。学校の話、将棋部の話、どうでもいい雑談。文面に遠慮が少ない。


 画像の男子が小森拓真である可能性は高い。


 篠原結衣とのやり取りは少なかった。


 将棋部の連絡。大会の日程。短い返事。


 今日届いていたメッセージも、そこに残っていた。


『盤面は逃げませんし、私たちも逃げません』


 その一文を、もう一度読む。


 短いが、ただの連絡ではない。


 気遣いがある。


 踏み込みすぎないようにしながら、それでも距離を取りすぎない文章だった。


 画像の中の前髪の長い女子を見る。


 彼女はカメラではなく、少しだけ成瀬歩の方を見ていた。近すぎない。けれど、遠いわけでもない。


 ただの部員よりは、少し近い。


 名前は、篠原結衣と見ていいだろう。


 画像を閉じた。


    *


 一通り見たあと、椅子に座ったまま少し考えた。


 少しずつ、成瀬歩の輪郭が見えてきた。


 将棋は強くないが、続けている。


 友人とのやり取りは軽いが、雑ではない。


 篠原結衣という女子とは、近すぎず遠すぎない距離にいる。


 目立つ人間ではない。


 けれど、人との関係を乱暴に扱う人間でもない。


 それが、この体の昼を生きている人間だった。


 この日常を壊すべきではない。


 そう思った。


 だが、壊さないためには、知る必要がある。


 成瀬歩がどんな人間で、誰と関わり、何を普通だと思っているのか。それを知らなければ、夜に動くたびに、昼へ違和感を残すことになる。


 部屋の中から分かることは、ある。


 けれど、それだけでは足りない。


    *


 窓の外を見た。


 夜の街が見える。


 街灯の光が点々と並び、遠くにコンビニらしい明かりがあった。その先には、もう少し大きな通りの光もある。


 外に出れば、分かることは増える。


 この街が夜にどれくらい動いているのか。


 成瀬歩の家が、どんな場所にあるのか。


 近くに何があり、どこまで行けるのか。


 だが、今夜いきなり外へ出るのは危険だった。


 この家には、陽菜と両親がいる。


 家族は眠っている可能性が高い。けれど、可能性が高いことと、安全であることは違う。


 外へ出るには、まず部屋を出なければならない。


 廊下を歩き、階段を下り、玄関まで行く。その途中で、どこか一つでも大きな音を立てれば、家族に気づかれる可能性がある。


 今夜確かめるべきなのは、外の様子ではなく、そこまで音を立てずに行けるかどうかだった。


 椅子から立ち上がった。


    *


 ドアノブに手をかけ、ゆっくり回す。


 音は小さい。


 扉を少しだけ開けると、廊下は暗かった。壁沿いにいくつかのドアが並んでいる。どのドアも閉まっていて、人の気配はない。


 一歩、廊下に出た。


 床が、かすかに鳴った。


 小さな音だった。


 だが、深夜の家の中では、それだけではっきり聞こえた。


 足を止める。


 もう一度、足の位置を変えて体重をかけた。今度はさっきより音が小さい。


 床の中心より、壁に近い方が鳴りにくい。


 それだけ確認して、数歩だけ廊下を進んだ。


 どこかの部屋で、布団が擦れる音がした。


 誰かが寝返りを打ったのかもしれない。


 ただ、これ以上進むべきではないことだけは分かった。


 部屋から数歩出ただけで、すぐに誰かが起きるわけではない。床は壁側を歩けば音が小さく、廊下に並ぶドアの位置もおおよそ分かった。


 今夜は、それだけで十分だった。


 静かに部屋へ戻り、ドアを閉めた。


    *


 窓の前に立つ。


 外には、夜の街が広がっている。


 ドアの向こうには、家族が眠っている。


 この部屋は、成瀬歩にとってはただの自室だ。


 けれど、今の自分にとっては、家の中でさえ未知の場所だった。


 無茶はできない。


 けれど、部屋の中にいるだけでは何も分からない。


 暗い部屋の中で、さっきの廊下を頭の中になぞった。


 床の鳴る位置。


 閉まっていたドア。


 玄関へ続くはずの階段。


 まずは、玄関まで音を立てずに行けるかを確かめる必要がある。


 それが、次の夜の目的だった。

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