第1話 何もなかったはずの朝
四月の朝は、少しだけ体が重い。
成瀬歩は、目覚ましが鳴る五分前に目を覚ました。
天井を眺めたまま、しばらく布団の中でぼんやりする。体は少し重いが、熱があるわけではない。昨夜も、遅くまで起きていた覚えはなかった。
春の朝だからだろう。
歩はそう思って、布団から出た。
制服に着替えて廊下に出ると、下から朝食のにおいが漂ってきた。卵と油の匂いに、少しだけ焦げたものが混ざっている。
歩は階段を下りながら、その匂いの正体について深く考えないようにした。
「おはよう」
台所では、妹の陽菜がフライパンの前に立っていた。ポニーテールを揺らして振り返った顔は、いつも通り元気がよかった。
元気はよかったが、フライパンの中にあるものは、歩の知っているスクランブルエッグとは少し違っていた。
「何作ってるの」
「スクランブルエッグ。昨日の残りのウインナーも入れた」
「……入れた、ね」
慎重に覗き込むと、フライパンの中では、卵とウインナーが思ったより茶色く固まっていた。スクランブルエッグというより、別の料理として完成しかけている。
陽菜はそれを皿に盛りつけながら、歩の顔を見た。
「お兄ちゃん、今日ちょっと眠そうじゃない?」
「そう?」
「うん。目が半分くらい朝に負けてる」
「そんなに?」
「完全には負けてないけど、延長戦には入ってる」
「それ、どういう状態なの」
歩はそう言いながら、陽菜からフォークを受け取った。昨夜は十一時前には布団に入っている。夜更かしをした覚えはない。少し眠いのは、ただの寝起きだろう。
歩はスクランブルエッグを口に運び、表情を動かさないようにした。
まずくはない。
ただ、もう一口食べる前に、少しだけ正体を確認したくなる味だった。
「部活は今日ある?」
「放課後、将棋部」
「じゃあ帰り遅くなるの?」
「六時には戻れると思う」
陽菜は「ふーん」と短く返して、自分の弁当箱を取り出し始めた。
陽菜は運動なら器用なのに、料理になると急に何かを間違える。
ただ、それを本人に言う勇気は、歩にはなかった。
父はもう出勤しており、母はリビングでニュースを流しながらコーヒーを飲んでいた。
「歩、忘れ物しないようにね」
「うん」
成瀬家の朝は、ごく普通だった。
*
学校までの道は、一人で歩く。
自転車通学は許可されておらず、歩が通う高校は徒歩十五分ほどの場所にある。特別に一緒に通う友人もいないが、かといって一人が寂しいわけでもない。
それが歩の普通だった。
途中、三軒となりに住む宮前莉子と、偶然鉢合わせることがある。
この日も、角を曲がったところで向こうから歩いてくる莉子と目が合った。莉子は歩より一つ年上の高校二年生で、背が高い。並ぶと、歩は自然に少し見上げる形になる。
「あ、歩くん。おはよう」
「おはようございます」
「まだ敬語なんだ。昔から知ってるのに」
「でも、先輩だし」
「町内会のイベントでずっと顔合わせてる仲でしょ。別にいいじゃない」
莉子はそう言って、少し呆れたように笑った。年下の弟を見るような顔だ、と歩はいつも思う。
「今日も部活?」
「はい。将棋です」
「強くなった?」
「……ぼちぼちです」
「ぼちぼちって言葉が出てくるうちは、たぶんまだ伸び悩み中だね」
それだけ言って、莉子は先に行った。
足が速い人だ、と思いながら、歩はその背中を少しだけ眺めた後、また歩き出した。
*
一時間目は理科で、担当は白瀬先生だった。
白瀬先生の授業は、いつも淡々としている。冗談はほとんどなく、黒板には必要なことだけが順番に並んでいく。生徒の答えが正しければ認めるし、間違っていれば、どこが違うのかをそのまま説明する。
分かりやすい。
ただ、近づきやすいかと言われると、少し違う。
「等速直線運動と加速度の定義は昨日終わった。今日は運動方程式に入る」
そう言って、白瀬先生はチョークを黒板に走らせた。
歩は教科書を開きながら、その説明を聞いていた。理科は好きでも嫌いでもないが、考えること自体は嫌いではない。だから、授業を完全に聞き流すことはなかった。
隣の席で、小森拓真が消しゴムのカスを指先で転がしていた。小森は歩のクラスメートで、将棋部にも一緒に入部した友人だ。
「白瀬先生って、授業のどこかで必ず一問、生徒に解かせる問題用意してるよな」
小森が小声でつぶやいた。
「そうだね」
「絶対当てられたくない」
「答えを聞いてくれる人だとは思うけど」
「でも、変な答えしたら、どこがおかしいかはっきり言われるじゃん」
「それはそう」
歩は前を向いた。当てられないよう気配を消そうとする小森の気持ちは、少し分かる。
ただ歩の場合は、当てられることへの強い恐怖があるわけではなかった。
間違えたら、その時はその時だと思っていた。
*
昼休み、歩と小森は階段の踊り場近くのベンチに座って弁当を食べた。約束したわけではなく、気づいたらそうなっていた場所だ。学食は混むし、ここはほど良く人が来ない。
「将棋部って今日、練習対局あるんだっけ?」
小森が唐揚げをつまみながら聞いた。
「あると思う」
「俺、最近ぜんぜん勝てないんだよな。先輩の石川さんに」
「石川さんは強いから」
「強いのは分かってるんだけど、負け方にも種類があるじゃん。最近の俺は、負ける前からすでに負けてる感じがする」
「それは、かなり負けてるね」
「盤面より先に心が投了してる」
小森はそう言って、唐揚げを口に放り込んだ。歩は少し笑った。
小森は自分の弱さを、暗くするのではなく軽口に変えるところがある。一緒にいると気が楽だった。
「お前は? 最近どう?」
「ぼちぼちかな」
「また、それ」
小森は笑いながら弁当の蓋を閉めた。歩もつられて笑った。
歩は、将棋が強い方ではない。読みは遅いし、詰み筋が見えた後も自信が持てずに手を変えてしまうことがある。
強くはない。
でも、やめたいほど嫌いでもない。
歩にとって将棋部は、ちょうどそのくらいの場所だった。
*
放課後の将棋部の部室は、渡り廊下の端にある小さな部屋だった。将棋盤が三面と、本棚、折りたたみ椅子が何脚か。部員は少なく、三年生が二人、二年生が一人、一年生は歩と小森と、もう一人。
部室の隅では、篠原結衣が一人で駒を並べていた。
前髪が少し長く、顔を上げても目元が隠れがちになる。目立つタイプではないが、静かに盤面を見ている姿は、不思議と部室の空気に馴染んでいた。
歩と結衣は、この将棋部に入る以前に、同じ地域の将棋教室に通っていたことがある。歩の記憶の中では「確かに一緒だったな」という程度のものだが、向こうがどれだけ覚えているかは分からない。
その日の練習対局で、歩は結衣と一局指すことになった。
「よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
先後を決め、駒を並べて始める。
結衣は歩よりも読みが深く、指し手が安定していた。歩は駒組みを進めながら、相手がどこで手を止めるのかをなんとなく見ていた。
歩には、人がどこで考え込むのかを見る癖があった。
中盤、歩が考え込んでいると、結衣が静かに言った。
「……大丈夫ですか」
「え?」
「少し、疲れてるみたいだったので」
歩は少し驚いて、結衣の顔を見た。結衣は盤面を見ていたが、耳が少し赤い。
「朝から少し体が重いだけ。たぶん、寝起きのせいだと思う」
「そうですか」
結衣は言葉を探すように、少しだけ黙った。それから、もう一度盤面に視線を落とした。
「無理は、しない方がいいと思います」
「うん。ありがとう」
それだけのやり取りだった。
その前にあった短い沈黙が、少しだけ気になった。
けれど、聞き返す前に、歩は盤面へ視線を戻していた。
対局は、歩の負けで終わった。
*
帰り道、夕暮れが街を薄く染めていた。
今日もいつも通りの一日だった。陽菜の朝食を食べ、学校へ行き、小森と話し、授業を受け、将棋を指して負けた。
特別なことは何もない。
そう思いながら、歩は見通しの悪い交差点に差しかかった。
信号は青だった。
横断歩道の白線を踏み、二歩目を出した時、右側からエンジン音が急に膨らんだ。
近い。
そう思って振り向いた時には、もうバイクの車体が視界の中にあった。
避けなければ、と思った。
けれど、体は動かなかった。
強い衝撃が来た。
音が遅れて弾ける。
次の瞬間、世界から音が抜けた。
*
病院で一度目を覚ました時、最初に見えたのは白い天井だった。
頭が痛い。体の右側も重い。誰かがすぐ近くで泣いている気配がした。
「歩、大丈夫?」
母の声だった。
廊下の方では、陽菜が落ち着かない様子で行ったり来たりしている。父は歩の手を握り、「大丈夫か」と何度も繰り返していた。
大丈夫、と言おうとした。
けれど、声になる前に、また意識が遠くなった。
事故の相手が信号を無視したらしい、という話を聞いたのは、その後のことだった。
*
次に目を開けた時、病室は静かだった。
白いカーテン。金属のベッド柵。天井から吊られた点滴のバッグ。窓の外はまだ暗く、壁の時計は四時十分を指している。
病院だ。
そう理解するまでに、時間はかからなかった。
体の右側が重い。左腕には点滴が刺さっている。頭も痛む。だが、動けないほどではない。
自分は今、どこにいるのか。
そして、自分は誰なのか。
疑問は浮かんだが、不思議と焦りはなかった。慌てても、分かることは増えない。まずは、目に入るものから確かめるしかない。
左腕側のベッド柵に、小さなタグがぶら下がっていた。
そこに名前が印字されている。
成瀬 歩。
その名前に、覚えはなかった。
ただ、否定できるものもない。少なくとも、この病室で、その名前を与えられているのは自分らしかった。
枕元の棚には、スマートフォンが置かれていた。
左手でゆっくり引き寄せる。右側の打撲が鈍く痛んだ。顔を近づけると、ロックが外れる。
顔認証。
この端末は、今の顔を持ち主として認識した。
通知がいくつか並んでいた。
『お兄ちゃん大丈夫?』
送信者名は、陽菜。
別の通知には、こうあった。
『心配しています。早く良くなってください』
送信者は、小森。
もっと詳しく中を見たかったが、誰かが来た時に画面を見られるのは避けたかった。
スマートフォンを戻し、枕元の棚を静かに開ける。
財布と学生証が入っていた。
学生証には、写真と高校名、名前がある。
高校一年生。
成瀬歩。
点滴のスタンドを支えにして、ゆっくりベッドを降りた。
廊下に出ると、薄明かりの中に洗面台がある。鏡の前に立った。
映っていたのは、高校生くらいの少年だった。
右頬には大きな絆創膏が貼られ、目の下には薄いくまがある。学生証の写真と、だいたい同じ顔だった。
これが、自分の顔らしい。
そう思っても、何かを思い出すことはなかった。
病室に戻り、もう一度ベッドに横たわる。
しばらくして、廊下の奥から小さな声が聞こえた。
「お兄ちゃん」
女の子の声だった。
通知にあった陽菜という名前が、その声とつながる。妹らしい。少なくとも、向こうは自分を兄だと思っている。
分かっていることは少ない。
名前は成瀬歩。高校一年生。顔認証を解除できるスマートフォンがあり、妹らしい人物が近くにいる。
分からないことは、もっと大きい。
自分は成瀬歩なのか。
それとも、成瀬歩ではない何かが、この体で目覚めているのか。
思い出そうとしても、何も浮かばない。
思い出しているのではなく、名札や通知や学生証を見て、成瀬歩という人間の情報を後から集めているだけだった。
事故のせいかもしれない。
そうではないのかもしれない。
少なくとも、今の情報だけで決められることではなかった。
窓の外が、少しずつ白み始めていた。日が昇れば、誰かがこの部屋に来る。
それまでの時間、意識は静かに考え続けた。




