18、幸福か歪みか
「俺はシリル。よろしくね、リシェルちゃん」
シリルと名乗った青年の声が、やわらかく耳を撫でる。
「えっと……シリル、さん……?」
おずおずと呼ぶと、彼はほんの一瞬だけ目を丸くし、すぐに柔らかく笑う。
「ふふ、シリルでいいよ。でも……ずっと“ブラン”って呼ばれていたから、少しくすぐったいな。ブランでも、好きに呼んで?」
「ん……じゃあ、シリル! よろしくね!」
言葉を交わせば、空気が自然とほぐれていく。
「でも、ブランは猫じゃなかったんだね。どうりで全部わかってるみたいだったんだ……」
そう言った瞬間、ふと胸に別の記憶がよぎる。
――ルークがブランに買ってくれた、あのご飯。
「あ、ペットフード……!」
「流石にあれはね、ちょっと困ったよ」
思わず二人で吹き出す。
「でも……どうして今日は、人間の姿で?」
「ああ、それは……」
言いかけて、シリルは一度言葉を飲み込む。
そして、静かに息を吸い、まっすぐに私を見つめた。
「ねえ、リシェルちゃん。――外に出てみない?」
どくん、と胸が大きく跳ねる。
外の世界。
知らないもの。
知らない景色。
正直、外の世界には興味があった。
けれど、それ以上に。
ルークがいちばん大事、嫌がることはしたくない。
「……ううん。行かないよ」
「ルークが、嫌がるから?」
「そんな気がするの。私は……ルークがいちばんだから」
「……そっか」
シリルは、小さく笑った。
「ふたりして、同じなんだな」
「シリル? 何か言った?」
「いや、気にしないで。でも……リシェルちゃん、本当は外に興味あるよね?」
そう言って、そっと手を包みこまれる。
その瞬間。
じんわりとした温かさが、指先から全身へと広がっていく。
思考が、ゆっくりと溶けていく。
「ほら……大丈夫。怖くないよ」
やさしい声に導かれるように、足が前へと動いた。
窓を越え、外の空気に触れた――その瞬間。
はっと、意識が戻る。
「……やっぱり、帰る!」
反射的に手を振りほどき、駆け出した。
「リシェルちゃんっ!?」
背後でシリルの声が響く。
けれど、振り返らない。
家の中へ飛び込み、荒くなった呼吸を押さえ込む。
なに、いまの……。
まるで、自分じゃなかったみたい――。
――コン、コン。
窓を叩く音に、びくりと肩が跳ねる。
そこには、困ったように眉を下げたシリルがいた。
「ごめん。さっきは……魔法を使ったんだ」
「魔法……?」
「そう。リシェルちゃんが、“素直になれるように”って」
「あ、そっか……よかった……」
そっと胸を撫で下ろす。
じゃあ、さっきのは……私の意思じゃなかったんだ。
安堵が胸に広がる。
――その様子を見て、シリルはわずかに目を伏せた。
(……違うよ)
それでも、言葉にはしなかった。
(魔法のせいだけじゃない。本当は――リシェルちゃんの中に“ほんの少し”でも願いがなければ、身体は動かないんだ……)
シリルは、苦く微笑んでいた。
ルークとリシェル。
互いに相手だけを見て、殻の中に閉じこもった二人。
それが幸せなのか、それとも歪なのか。
外から踏み込むべきではないとわかっているのに、どうしても胸がざわついた。
(……本当にそれで、幸せなの?)
でも、それでも……これ以上は何もできない。いや、口を出すべきではないのか。
きっと、二人の世界は変わらないのだから。
「……君たちが、それで幸せならいいんだけどね」
「シリル……?」
「ううん、なんでもないよ。じゃあね、リシェルちゃん」
ひらりと背を向けた彼は、光の粒となって消えた。
その姿を見送りながら、なぜか――
“もう二度と会えない”
そんな予感だけが胸に残った。
その時だった。
ガチャリ。
家のどこかで、扉の鍵が回る音がした。
「……だれ?」
胸が一気に強く脈を打つ。
ルークが早く帰ってきたのかもしれない。
でも――違う“誰か”だったら?
無意識に、手元の指輪へ手が伸びた。
ルークがくれたもの。
それに触れていると安心する。
……“守ってくれるはず”だと、そう思えるから。
息を呑んで玄関の方を見ると、足音がこちらに近づいてくる。
コツ……コツ……。
やがて、部屋の扉がゆっくりと開いた。
現れたのは――
「リシェル。……何をしていたんだ?」
ルークだった。




