第29話「蜂蜜色の朝」
朝の光で目が覚めた。
窓の隙間を縫う光が、いつもと違う色をしている。金色というより琥珀色。蜂蜜を陽にかざしたときの、あの温かな透明感。
起き上がって窓を開けると、空気がぬるかった。昨日までの冬の名残が嘘のように、風がやわらかい。
そして、匂い。
甘い。花の匂いだ。一種類ではない。いくつもの花が混ざりあった、層の厚い甘さ。
着替えもそこそこに外に出る。裸足のまま玄関を飛び出して——足の裏に、柔らかいものが触れた。
クローバーが咲いていた。
養蜂場の周りに蒔いた種。秋に蒔き、冬を越して三つ葉の若葉だけだったものが、一夜のうちに白い花を開いている。一面の白。小さな花が地面を覆って、朝露を乗せて光っている。
「嘘でしょう」
走った。養蜂場まで、息を切らして。
巣箱の周りが花畑になっていた。クローバーだけではない。菜の花の黄色、タンポポの金色、野すみれの紫。秋にハインツが「蜜源になる」と言って植えさせた花たちが、申し合わせたように一斉に開花している。
蜂が飛んでいる。巣箱から次々と飛び立って、花の上を舞っている。羽音が春の空気を震わせて、養蜂場全体がひとつの楽器になったみたいだ。
「すごい……」
巣箱に近づくと、巣門が蜂で溢れかえっている。冬の間じっとしていた子たちが、一斉に外に出てきた。花粉を積んで帰ってくる蜂と、空身で飛び立つ蜂がすれ違う。巣門の前が渋滞している。
「おはよう」
蜂に話しかける。前世からの癖。蜂に言葉が通じるとは思っていないけれど、声をかけると蜂が落ち着くのは本当のことだ。
「冬、頑張ったね。春だよ」
一匹の蜂が私の指先に止まった。脚に黄色い花粉団子をつけている。クローバーの花粉。ほんの一瞬だけ指の上で羽を休めて、また飛び立っていった。
「シャルロッテ」
振り返るとニクラスが立っていた。こんな朝早くに。いつもより早い。
「見たか」
「見ました。全部咲いてます」
ニクラスが養蜂場を見渡す。花に埋もれた巣箱。飛び交う蜂。朝日に染まった蜂蜜色の光景。
「きれいだな」
ニクラスが言った。短い言葉。でも声に力がこもっている。この人が「きれい」と口にするのは滅多にない。蜂を見るとき以外では——もう一度だけ、あの蜜蝋キャンドルの夜に聞いた気がする。
「ニクラスさん、手」
「ん?」
「手、つないでいいですか」
自分でも驚くくらい自然に出た言葉だった。
ニクラスは答えなかった。答えない代わりに、右手を差し出してきた。大きくて、ごつごつしていて、巣箱を直すときの傷跡がいくつもある手。
握る。指と指が組み合わさる。掌が温かい。蜂蜜を舐めたあとの口の中みたいに、じわじわと甘い熱が広がっていく。
「じいさんが来る前に離せよ」
「どうしてですか」
「うるさいことを言われる」
「もう十分言われてますよ」
「……それもそうか」
ニクラスの口元が動く。笑っている。この前見た、殻が割れたあとの笑顔。少しだけ見慣れてきた。でも慣れたくない。毎回新鮮に驚いていたい。
「おーい!」
案の定、ハインツが養蜂場の入り口に立っていた。手に大きな籠を抱えている。
「花が咲いとる! 内検するぞ! ……何を手なんか繋いどる。仕事しろ」
「はい、師匠」
「師匠と呼ぶなと言っとるだろうが」
手を離す。名残惜しいけれど、蜂の世話が先だ。養蜂家としての優先順位は間違えない。
三人で巣箱を開ける。春の最初の内検。蜂たちは元気で、女王蜂の産卵も順調で、蜜の貯蔵が増え始めている。あの無王群も、移植した王台から新しい女王が生まれて群が復活していた。
「いい年になるぞ」
ハインツが巣脾を光に透かしながら言う。冬にも同じことを言っていた。でも今は確信を持った声だ。
「シャルロッテ、今年の蜂蜜は去年の倍は採れる。お前の蜜源植物が効いとる」
「本当ですか」
「嘘をついてどうする。蜂は正直だ」
蜂は正直。ハインツの口癖。蜂は飼い主の腕がいいから多く蜜を集めるのではない。花があるから集めるのだ。花を植え、蜂が健康でいられる環境を作り、あとは蜂を信じて待つ。養蜂とはそういう仕事だった。
内検を終えて小屋に戻る。ハインツが茶を淹れる。いつもの三つのカップ。
「ニクラス」
「なんだ、じいさん」
「お前の巣箱も見せろ。どうせ蜂蜜を全部あの女に渡したんだろうが、巣の状態は確認しておけ」
「……ああ」
「シャルロッテ、お前も来い。弟子なら見ておけ」
「はい」
ニクラスの巣箱を見に行く。ハインツの養蜂場の隅に、二つだけ。小さな巣箱。ここからあの蜂蜜が生まれたのか。
巣箱を開けると、蜂たちが穏やかに動いている。ニクラスの手が巣脾に触れる。丁寧で優しい手つき。この手が蜂を育て、蜜を採り、瓶に詰めた。
「状態はいい。夏までにもう一群増やせるな」
ハインツが頷く。
「増やしたら蜂蜜も増える。嫁に渡す分が足りんくなるからな」
「じいさん」
「事実を言っとるだけだ」
私は黙って笑った。笑うしかなかった。
養蜂場に戻ると、太陽が高くなっていた。花が朝よりさらに開いて、蜂の数も増えている。羽音が空気を満たして、甘い匂いが養蜂場を包んでいる。
蜂蜜色の朝、と思った。
この光。この匂い。この音。追放されてここに来て、巣箱を直して、蜂の世話をして、蜂蜜を採って。ハインツに怒られて、マーヤに笑われて、ニクラスの隣で黙って過ごして。
全部がこの朝に繋がっている。
家に帰ったら、ニクラスの蜂蜜をパンにたっぷり塗って食べよう。塗りすぎだと言われるくらい、たっぷりと。
花の上を蜂が飛んでいく。蜂蜜色の光の中を、まっすぐに。
私の毎日もきっと、こんなふうに続いていく。蜂蜜色に甘くて、少しだけ忙しくて、たまに苦みもあって。でもそれがいい。
隣にニクラスがいる。後ろでハインツが怒鳴っている。遠くでマーヤが手を振っている。
ここが、私の居場所だ。




