第28話「嫁にもらえ、と」
ハインツが爆弾を落とした。
朝の養蜂場。三人で巣箱の点検をしていた、いつもの穏やかな時間。ハインツが巣脾を確認しながら、世間話のような口調で言った。
「ニクラス。シャルロッテを嫁にもらえ」
蜂が一匹、私の肩に止まった。羽音が耳のすぐ横で響く。それ以外の音が全部消えた。
「……じいさん」
「聞こえただろ。もう一回言わせるな」
ハインツは巣脾から目を離さない。蜂の状態を確認する手つきは正確で淀みがなくて、とんでもないことを言った直後の人間の所作ではない。
「なに言って——」
「お前は一年かけて蜂蜜を瓶に詰めて女に渡した。それが何を意味するか分からんほど馬鹿じゃあるまい」
「それは」
「シャルロッテ」
急に名前を呼ばれて背筋が伸びる。
「はい」
「お前はどうなんだ」
「ど、どうとは」
「このぼんくらの孫を、どう思っとる」
ニクラスが「ぼんくら」に反応して眉を動かしたが、反論はしない。口を引き結んで、巣箱の縁を握っている。指の関節が白い。
蜂蜜の味が蘇る。昨夜スプーンで掬った一匙。栗の花の苦みと、深い甘さ。
「大切な人です」
声が小さかった。でもハインツの耳は正確に拾ったらしく、皺だらけの顔がにやりと歪む。
「聞いたか、ニクラス」
「……聞いた」
「なら話は早い。婆さんが生きてたら喜んだぞ。孫の嫁の心配ばかりしてた女だからな」
ハインツが巣脾を巣箱に戻して、ぱんぱんと手を叩く。作業終了の合図。こんな重大な話を、巣箱の点検と同じテンションで片付けようとしている。
「師匠、あの、まだ何も正式には——」
「蜂蜜を渡して受け取って、これ以上何がいる。お前たち若いのは段取りが多すぎる。俺は婆さんに干し肉を一切れ渡して翌週には一緒に暮らしてたぞ」
「時代が違います」
「蜂は千年前から同じやり方で蜜を集めとる。人間も変わらん」
反論の余地がない。というより、ハインツの言葉にはいつも妙な説得力がある。養蜂の経験から人生の真理を引っ張り出してくるこの老人の論法に、私もニクラスも勝てた試しがない。
ハインツが小屋に入っていく。わざとらしく扉を閉める音がして、養蜂場にニクラスと二人きりになった。
蜂たちの羽音。春の陽射し。巣箱の木の匂い。
「ニクラスさん」
「…………」
「耳、赤いですよ」
「うるさい」
ニクラスが顔を背ける。でも耳は隠せない。首の後ろまで赤い。
「じいさんの言い方は乱暴だけど」
ニクラスが蜂を見ている。蜂を見るときの優しい目。でも今は蜂ではなく、蜂の向こう側の何かを見ているような遠さがある。
「間違ったことは言ってない」
心臓がうるさい。蜂の羽音よりずっと大きな音が耳の中で鳴っている。
「蜂蜜は渡した。気持ちも言った。でも、ちゃんと聞いてなかった」
ニクラスがこちらを向く。まっすぐに。逃げない目。
「シャルロッテは、俺のこと、どう思ってる」
言葉で答えなければいけない場面だと分かっている。蜂蜜の味で伝わるような便利な方法は私にはないから。
「ニクラスさんが蜂を見る目が好きです」
一つずつ、言葉を並べる。
「手袋を貸してくれたときの、手のひらの温かさが忘れられません。隣で黙って作業してくれる時間が好きです。パンに蜂蜜を塗りすぎだって笑ってくれるのが嬉しくて」
息を吸う。春の空気が肺に満ちる。花の匂いがする。
「私も、ニクラスさんが大切です」
ニクラスの表情が動いた。無表情の殻にひびが入るように目尻が下がり、口元が緩む。それはたぶん、笑顔と呼んでいいものだった。見たことのない顔。こんな顔をする人だったのか。
「……そうか」
その二文字に、どれだけの感情が詰まっているのか。ニクラスの声は相変わらず低くて短いのに、聞いたことがないほど温かい。
小屋の扉が少しだけ開いて、隙間からハインツの声が漏れた。
「終わったなら茶を淹れるぞ。いつまでも突っ立ってるな」
全部聞いていたに決まっている。
小屋に入ると、ハインツが三つのカップに茶を注いでいた。何事もなかったような顔で。
「砂糖はいらんぞ。お前たちは十分甘い」
「師匠」
「うるさい。座れ」
三人で茶を飲む。いつもの小屋。いつもの蜜蝋の匂い。いつもの席順。何も変わっていないのに、全部が新しく見える。
ニクラスの手が、テーブルの下で私の手に触れた。指先だけ。掌が熱い。ニクラスの指も同じ温度で、離す理由が見つからない。




