第27話「蜂蜜の瓶を抱えている」
ニクラスにもらった蜂蜜の瓶を、棚にしまえない。
家に持ち帰ってテーブルに置いて、椅子に座って眺めて、一晩そのまま過ごした。朝になっても棚にしまう気になれなくて、結局テーブルの真ん中に鎮座させたまま朝食を食べている。
パンに塗る蜂蜜は、自分の養蜂場で採ったいつものクローバー蜜。ニクラスの蜂蜜には手をつけられない。もったいないとかそういう感覚とは違う。一口ずつ減っていくのが惜しいのだ。
「……重症だな、私」
誰もいない部屋で独り言を呟いて、パンの残りを口に押し込む。
養蜂場に向かうと、ニクラスがもう来ていた。巣箱の前にしゃがんで蜂の出入りを観察している。いつもの光景。でも昨日までと同じには見えない。
「おはようございます」
「ああ」
返事は短い。いつも通り。でもニクラスが立ち上がったとき、一瞬だけ視線が泳いだ。この人も平常ではないらしい。蜂蜜の瓶を渡した翌日に平然としていられるほど、鈍くはないのだ。
「今日は第八巣箱の増巣枠を入れようと思って」
「手伝う」
「ありがとうございます」
作業は普段通りに進む。巣枠を用意して、蜜蝋の基礎板を張って、巣箱に差し込む。蜂たちがすぐに新しい巣枠に取りついて、蝋を盛り始める。
「働き者ですね、この子たち」
「お前に似てる」
不意打ちだった。ニクラスは巣枠に目を落としたまま、何気なく言った。何気なく言ったくせに首筋がほんのり色づいている。
「私に?」
「よく働く。休まない。パンに蜂蜜を塗りすぎる」
「最後のは関係ないですよね」
「ある。蜂も蜜を溜めすぎる」
何の理屈だ。でも唇が勝手に緩む。
昼休みに小屋で並んでパンを食べた。ハインツは今日、村の集会に出ていて留守。二人きり。
沈黙が、いつもとは少し違う質感を持っている。温かい沈黙ではある。でもそこに薄い緊張が混ざっていて、パンを噛む音がやけに大きく聞こえる。
「あの蜂蜜」
ニクラスが先に口を開いた。
「味、どうだった」
「まだ食べてません」
「……は?」
ニクラスが本気で驚いた顔をしている。無表情の人が驚くと、眉だけが跳ね上がって独特の迫力がある。
「もったいなくて」
「食べ物だぞ。食べろ」
「分かってます。分かってるんですけど、瓶を見てるとその、なかなか」
何を言っているのだろう私は。蜂蜜の瓶を前にして乙女みたいなことを——いや乙女か。元伯爵令嬢だけれど年齢的には十分に乙女だ。
「作ったのは食べてもらうためだ」
「はい」
「舐めるだけでもいいから」
「舐めるだけって」
ニクラスの表現も大概おかしい。蜂蜜の話をしているだけなのに、なぜこんなに顔が熱いのか。
「……帰ったら食べます」
「そうしろ」
ニクラスがパンの最後の一切れを口に入れた。顎の動きが力強くて、つい目で追ってしまう。
午後の作業を終えて帰路につく。養蜂場を出るところでニクラスとすれ違った。
「シャルロッテ」
「はい」
「瓶、大事にしなくていい。また作るから」
言い残して、ニクラスは自分の養蜂場の方へ歩いていった。背中が夕陽に溶けていく。
また作る。
その言葉が胸の中でぐるぐる回る。一度きりの特別な贈り物ではなく、また作ると言ってくれた。来年も、その次の年も、蜂蜜を瓶に詰めて持ってきてくれるのか。
家に帰って、テーブルの蜂蜜の瓶を手に取った。蓋を開ける。栗の花の苦みを含んだ甘い香り。
小さなスプーンで一匙だけ掬って、口に含む。
昨日よりもっと甘い——気がする。味は変わっていないはずなのに。舌の上で蜂蜜がゆっくり溶けて、花の記憶を残していく。
瓶を胸の前に抱える。ガラスの冷たさと、中身の蜂蜜色の温かさ。
また作るから、とニクラスは言った。
なら私も、また受け取ろう。来年も、その先も。
スプーンを洗って、瓶の蓋を閉める。棚にはまだしまわない。もう少しだけ、テーブルの上に置いておきたいから。




