第26話「これは、俺の気持ちだ」
ニクラスの様子がおかしい。
三日前から、養蜂場に来る時間が不規則になっている。いつもは朝の決まった時間に現れるのに、昼過ぎにふらっと来たり、夕方になって慌てた様子で顔を出したり。そのくせ来ても作業に集中できていなくて、巣箱の蓋を逆向きに置こうとして自分で首を傾げている。
「ニクラスさん、蓋、裏返しです」
「……ああ」
直す手つきも雑で、ニクラスらしくない。この人は道具の扱いだけは常に丁寧なのに。
「体調悪いですか?」
「悪くない」
「でも——」
「悪くない」
二回言った。ニクラスが同じ言葉を繰り返すのは珍しい。よほど動揺しているのだろうけれど、何に動揺しているのかが分からない。
ハインツに聞いてみた。
「師匠、ニクラスさんの様子がおかしいんですけど」
「知っとる」
「原因は」
「知っとる」
「教えてください」
「自分で気づけ」
役に立たない師匠だった。
四日目の夕方、養蜂場の作業を終えて道具を片付けていると、ニクラスが小屋の入り口に立っていた。
手に何か持っている。
蜂蜜の瓶だった。
見覚えのない瓶。私の養蜂場のものでも、ハインツのところのものでもない。薄い緑色のガラスで、中身は濃い琥珀色の蜂蜜。
「……どうしたんですか、それ」
「作った」
「作った?」
「俺の蜂で。俺が採った。俺が瓶に詰めた」
ニクラスの顔はいつもの無表情だけれど、耳が赤い。首まで赤い。夕陽のせいではない。日はもう沈みかけていて、小屋の中は薄暗い。
「ニクラスさんの蜂って……ハインツ師匠の養蜂場の?」
「違う。分蜂した群を捕まえて、自分の巣箱で飼ってた。去年の夏から」
知らなかった。ニクラスが自分の巣箱を持っていたなんて。
「秋に採蜜して、冬の間に瓶詰めした。一瓶だけ。一番いいのを選んだ」
ニクラスが一歩近づく。蜂蜜の瓶を差し出す手が、わずかに震えている。ニクラスの手が震えるのを見たのは初めてだった。
「これは」
声が低くなる。いつもの無感情な低さではなくて、喉の奥から絞り出すような低さ。
「俺の気持ちだ」
時間が止まった——ように感じた。
実際には蜂たちが羽音を立てているし、遠くで鳥が鳴いているし、風も吹いている。世界は何も変わっていない。変わったのは、私の心臓の速度だけ。
蜂蜜の瓶を受け取る。ガラスの表面はひんやりしているのに、中の蜂蜜は夕暮れの最後の光を集めて温かく光っている。
「開けてもいいですか」
「……好きにしろ」
蓋を開けると、蜂蜜の香りが立ち上った。
花の匂い。でも私の蜂蜜とは違う。もっと深くて複雑で、森の奥の百花蜜のような重層的な甘さ。ニクラスの蜂が、ニクラスの世話のもとで集めた蜜。
指先を瓶の縁に触れさせて、ほんの少しだけ蜂蜜を掬う。舌に乗せた瞬間、目を閉じた。
甘い。甘いけれど、後味にかすかな苦みがある。栗の花だ。栗の蜂蜜は苦みがある。それが全体に奥行きを与えていて、単純な甘さでは終わらない味になっている。
この苦み。前にいちど、味のわからない蜂蜜を舐めて、栗か蕎麦かと迷ったまま答えを出さずに置いた人がいた。わからないものを無理に決めない、季節が変わったら比べる、と言って。あれから季節は何度も巡って、この人は自分の蜂で、自分の手で、ちゃんと答えに辿り着いていたのだ。
「……美味しい」
声が震えた。蜂蜜の味で声が震えるなんて、おかしな話だ。でも、これはただの蜂蜜ではない。ニクラスが一年かけて育てた蜂が集めた蜜で、何瓶もあるうちの一番を選んで、持ってきた。
その重さが、舌の上の甘さと一緒に広がっていく。
「ニクラスさん」
「なんだ」
「気持ちって、どういう」
聞かなくても分かっている。分かっているけれど聞きたかった。
ニクラスは黙った。長い沈黙。蜂蜜の瓶を握る私の指に、瓶の冷たさが染みてくる。
「言葉が足りないのは知ってる」
ようやくニクラスが口を開く。
「うまく言えないから、蜂蜜にした。蜂蜜なら、味で分かるだろ」
ああ、と思った。この人は本当に不器用で、本当にまっすぐだ。
蜂蜜で気持ちを伝える養蜂家なんて、聞いたことがない。でもニクラスらしいと思う。言葉の代わりに蜂蜜を差し出す。一年分の手間と時間を瓶に詰めて「これが俺の気持ちだ」と言う。
これ以上の告白があるだろうか。
「受け取りました」
瓶を両手で抱える。
「ちゃんと、受け取りましたから」
ニクラスの耳がさらに赤くなった。でも目は逸らさなかった。あの目だ。巣箱を開けるときと同じ、大切なものに触れるときの目。それが真っ直ぐに、私を見ている。
小屋の外では、巣箱に戻る蜂たちの羽音が夕暮れに溶けていく。蜂蜜の瓶を胸に抱えたまま、私はしばらく動けなかった。甘い香りと、ニクラスの不器用な声が、耳の奥でいつまでも響いている。




