第25話「帰る気はありません」
ヴィルヘルミーネが去った翌日、別の馬車が来た。
今度は見覚えのない紋章。銀地に鷲。それを見て、フリッツ村長が珍しく慌てた様子で走ってきた。
「シャルロッテ嬢、宮廷からの使者だ」
胃の底が冷たくなる。
使者は若い文官で、堅い表情のまま羊皮紙の書状を差し出した。封蝋を割って読む。指先が震えないように気をつけながら。
内容は簡潔だった。
ヴァイゲル伯爵家の追放処分の見直しが行われている。ヴィルヘルミーネの策謀が露見したことで、シャルロッテに対する断罪が不当であったと認定される可能性がある。ついては都に戻り、審議に出席されたし——
「お返事を伺いたく」
文官が言う。
都に戻れる。伯爵家の名誉が回復される。追放前の生活に戻れるかもしれない。
一年前の私なら、この書状を抱きしめて泣いていた。
「少し、考える時間をいただけますか」
「……はい。三日以内にお返事をいただければ」
文官が去ったあと、養蜂場に向かった。考え事をするとき、足が自然にここへ向く。
巣箱の前に座って、蜂の出入りを眺める。花粉団子を後ろ脚につけた蜂が次々と帰ってくる。黄色、橙色、白。花の種類によって花粉の色が違う。春の花がいくつも咲き始めている証拠。
「クローバーはまだかな」
秋に蒔いた種。まだ花は咲いていないけれど、養蜂場の地面に小さな三つ葉が広がり始めている。
「シャルロッテ」
ニクラスだった。養蜂場の柵の向こうから声をかけてくる。手に何か持っている。
「じいさんが。食え、と」
布に包まれたライ麦パンとチーズ。昼を食べずに養蜂場に来たことを、ハインツが気にしたらしい。
「ありがとうございます」
受け取って、パンをちぎる。固いパンの皮が割れる音が耳に近い。チーズの塩気と麦の素朴な味が口に広がって、そこでようやく空腹だったことに気づいた。
ニクラスは帰らなかった。柵に背中を預けて、同じように蜂を見ている。
「手紙、見た」
「村長さんから聞きましたか」
「ああ」
沈黙。蜂の羽音。風に揺れるクローバーの若葉。
「都に戻るのか」
ニクラスの声は平坦だった。でもいつもと違う。いつもの平坦さには余裕がある。今の平坦さは、感情を抑えている人のもの。
「ニクラスさんは、どう思いますか」
「俺の意見は関係ない」
「関係あります」
思った以上に強い声が出た。ニクラスが初めてこちらを向く。
「この村で暮らし始めて一年。養蜂を教えてくれたのはハインツ師匠で、巣箱の修繕を手伝ってくれたのはニクラスさんで、パンに蜂蜜を塗ってくれたのはマーヤで。私の生活はこの村の人たちで出来ています。関係ないわけ、ないでしょう」
パンを膝に置いて、立ち上がる。
「私、帰る気はありません」
言葉にしてみると、とても簡単だった。簡単で、軽くて、でもずっしりと重い。
「名誉の回復は受けます。伯爵家の名前を汚されたままにしておくのは嫌だから。でも都に戻って暮らす理由がない」
ニクラスが黙っている。顔を読もうとするけれど、逆光で影になって見えない。
「ここに、蜂がいるので」
「……蜂か」
「蜂と、蜂蜜と、パンと」
言葉を区切る。次に出す言葉の重さを量っている。
「大切な人たちが、いるので」
風が吹いた。養蜂場の若葉が一斉にそよいで、蜂たちが風に乗るように巣箱から飛び立つ。
ニクラスの手が動いた。柵を掴んでいた指が離れて、私の方に伸びかけて——止まる。
「……そうか」
たった三文字。でもその声がかすかに揺れていたのを、私は聞き逃さなかった。
夕方、フリッツ村長に返事を伝えた。都には戻らない。名誉回復の手続きは書面で行いたい。村長は頷いて「蜂蜜が美味いなら何者でもいい。ここはそういう村だ」と笑った。
帰り道、養蜂場の横を通ると、ニクラスがまだ柵のそばにいた。暗がりの中、手元で何かしている。
「ニクラスさん?」
「柵が緩んでた。直してる」
嘘だ。この柵は先週ニクラスが修繕したばかりだ。緩んでいるはずがない。
でも、何も言わなかった。
「お疲れさまです。明日も、よろしくお願いします」
「……ああ」
ニクラスの声が暗がりに溶ける。春の夜風が甘い。どこかで早咲きの花が開いたのかもしれない。
この場所を選んだ。この蜂と、この村と、この人たちを。
追放ではなく、自分の足で立っている。その実感が背筋を伸ばしてくれる。歩幅が自然と大きくなって、私は暗い夜道を軽い足取りで帰った。




