第24話「幸せそうで腹が立つ」
ヴィルヘルミーネが村に泊まっている。
この事実がまだ現実味を持たなくて、朝、巣箱の前でぼんやりしていたらニクラスに「蜂に踏まれるぞ」と言われた。蜂に踏まれるという表現が物理的に正しいかどうかはともかく、巣門の真ん前にしゃがみ込んでいたのは確かにまずい。
「すみません、考え事してました」
「昨日の女か」
「ヴィルヘルミーネ様のことですか? まあ、はい」
ニクラスは巣箱の外壁を手で撫でるようにして蜂の動きを観察していた。朝の光が巣箱の木目を照らして、出入りする蜂たちの羽が金色に透ける。
「敵か」
「敵……だった人です。今はよく分かりません」
「ふうん」
ニクラスはそれ以上聞いてこない。いつものことだけれど、今日はその沈黙がありがたかった。
昼前にマーヤが養蜂場に駆け込んできた。
「シャルロッテさん、大変! あのお客さん、朝からずっとパンを眺めてるの!」
「眺めてる?」
「買うでもなく、食べるでもなく、ショーケースの前でじーっと。怖い」
行ってみると、本当だった。
マーヤのパン屋のカウンターの前に、侯爵令嬢が腕を組んで立っている。完璧に整えた巻き髪に絹のドレス。辺境の素朴なパン屋には異質すぎる存在感。
「ヴィルヘルミーネ様、何をしてらっしゃるんですか」
「……このパン、本当に美味しいの?」
「はい。特に蜂蜜パンが」
「蜂蜜パン」
ヴィルヘルミーネが疑わしげに目を細める。マーヤが恐る恐る蜂蜜パンを一つ差し出した。
ヴィルヘルミーネは受け取って、じっとパンを見つめ、意を決したように一口齧った。
咀嚼する。表情が変わらない。二口目。三口目。
「…………美味しい」
「でしょう!」
マーヤが満面の笑みで身を乗り出す。恐怖はどこへ行ったのか。この子のコミュニケーション能力は本当にすごい。
「この蜂蜜、あなたの?」
「はい、私の蜂が集めたクローバー蜜です」
「……信じられない」
ヴィルヘルミーネがパンの残りを見下ろす。
「あなたを追放した先で、あなたの作った蜂蜜を食べてる。何の冗談かしら」
「人生って不思議ですよね」
「不思議で済ませないで」
声が震えていた。怒りではなく、別の感情。蜂蜜パンを握る指が白くなっている。
「私が社交界で必死に立ち回っている間に、あなたはこんなところで蜂を飼って、パンに蜂蜜を塗って、村の人と笑って暮らしてる。幸せそうで——腹が立つ」
最後の一言に、悪意はなかった。
ヴィルヘルミーネの本音だった。婚約を勝ち取るために策を巡らせ、結局すべてを失った彼女と、追放されて蜂に出会った私。どちらが幸福かなんて、比べるものではないけれど。
「ヴィルヘルミーネ様」
「何」
「蜂蜜パン、もう一つ食べますか?」
「……食べる」
マーヤがにっこりして二つ目を渡す。ヴィルヘルミーネは今度は躊躇わずに齧った。
午後、村を案内した。養蜂場には連れて行かなかった。あそこは私の場所だから。代わりに村の広場と教会と、フリッツ村長の家の前を通った。
「小さい村ね」
「小さいです。でも不便はありません」
「退屈じゃないの」
「蜂がいるので退屈する暇がないんです。蜂って意外と手がかかるんですよ。季節ごとにやることが変わるし、病気の予防もあるし」
ヴィルヘルミーネが足を止めた。村の広場の井戸の前。水汲みに来た村人が、珍しい身なりの客人をちらちら見ている。
「ねえ、シャルロッテ」
「はい」
「あなた、本当にここが好きなのね」
「好きです」
「顔を見れば分かるわよ。村のことを話すとき、声が変わるもの」
そうだろうか。自分では気づかない。
「少し羨ましい」
ヴィルヘルミーネが井戸の縁に手を置いた。冷たい石に触れて、小さく眉を動かす。
「私、好きな場所なんてなかった。社交界は戦場だったし、侯爵家の屋敷は息が詰まったし。好きな場所があるって、こういう顔になるのね」
返す言葉が見つからなかった。
ヴィルヘルミーネは翌朝、発つという。馬車に戻るとき、昨日渡した蜂蜜の瓶を大事そうに抱えていたのが見えた。
「また来ても、いい?」
馬車の窓から、ヴィルヘルミーネが聞いた。侯爵令嬢らしからぬ、遠慮がちな声。
「蜂蜜が切れたら、いつでも」
馬車が動き出す。紺色の車体が土埃を巻いて遠ざかっていく。
背後で「あの人、パン三つ分のお代置いてった」とマーヤが感心したように呟いていた。金貨で。パン屋の月商に匹敵する額だったらしい。
侯爵令嬢の金銭感覚は、やっぱり少しおかしい。




