エピローグ「ラベンダー蜂蜜」
初夏の朝、ニクラスの巣箱からラベンダー蜂蜜が採れた。
正確には、ニクラスが春に植えたラベンダー畑の蜜を集めた蜂たちが、巣脾いっぱいに蜜を貯めて蓋をかけた——それを遠心分離器にかけて瓶に詰めた。初めての単花蜜。
「色が違う」
瓶を窓にかざすと、いつものクローバー蜂蜜より淡い。白に近い黄金色。陽に透かすと、向こう側の景色がぼんやり歪んで見える。
「舐めてみろ」
ニクラスが木べらを差し出した。先端に蜂蜜が乗っている。
口に含む。
甘い。クローバー蜜のまっすぐな甘さとは違う。最初に花の香りが鼻に抜けて、そのあとからじわりと甘さが追いかけてくる。舌の上で蜂蜜がゆっくり溶けていくあいだ、ずっとラベンダーの匂いがしている。飲み込んだあとも、喉の奥に花が残る。
「……おいしい」
声が裏返った。自分でもびっくりするくらい間の抜けた声が出た。
「そうか」
ニクラスの表情は動かない。でも耳が赤い。この人の感情は全部、耳に出る。
「これ、ハインツさんに持っていかないと」
「もう持っていった。朝一番に」
「え、私より先に?」
「じいさんが一番うるさいからな。先に黙らせておいた」
「何て言ってました?」
「『悪くない』」
ハインツの「悪くない」は最上級の褒め言葉だ。ニクラスの口元が、ほんの少し緩んでいる。嬉しいのだ。あのおじいさんに認められたのが。
瓶の蓋を閉めて、棚に並べる。ラベンダー蜂蜜の瓶が六つ。クローバー蜜の隣に、色の違う列ができた。
「マーヤさんにも持っていきましょう。パンに合うか試してもらわないと」
「ああ」
村のパン屋までは歩いて十分。養蜂場を出て、畦道を下る。初夏の草が膝まで伸びていて、歩くたびにバッタが飛び出す。空気が湿っていて、土と草の青い匂いが鼻を包む。
ニクラスが隣を歩いている。半歩前。私の歩幅に合わせているのに、それでも半歩前に出る。無意識に先を歩いて、石や段差がないか確認しているのだと気づいたのは、つい最近のことだった。
「ニクラスさん」
「ん」
「今年の蜂蜜、全種類で何瓶くらいになりそうですか」
「クローバーが百二十。アカシアが八十。ラベンダーが六十。百花蜜が五十くらいか」
「去年の倍ですね」
これだけ採れるなら、いつかの市場で「量が増えたら声をかけてくれ」と木札を置いていった旅商人に、そろそろ便りを出してみてもいいかもしれない。
「蜜源が増えた。お前が植えた花のおかげだ」
「ハインツさんが植えろって言ったんですよ」
「じいさんは言っただけだ。植えたのはお前だ」
黙った。この人は時々、こういう言い方をする。短い言葉で、核心だけを。照れている様子もなく、事実を述べるように。だから余計に心臓に刺さる。
パン屋に着くと、マーヤが窯の前にいた。朝の焼き上がりがちょうど終わったところで、店の中にパンの熱気が充満している。小麦とバターと、少し焦げた麦の皮の匂い。
「シャルロッテ! いらっしゃい! あら、ニクラスも。珍しい組み合わせ——でもないか、最近は」
「ラベンダー蜂蜜ができたの。試食してほしくて」
「ラベンダー!?」
マーヤの目が輝いた。瓶を受け取って、蓋を開けて、匂いを嗅いで、小さなスプーンで掬って舐めて——
「これ……これすごい。花の味がする。パンに合わせたら……ちょっと待って、今焼いたばかりのがあるの」
マーヤが奥からバゲットを持ってきた。まだ温かい。ナイフで斜めに切って、ラベンダー蜂蜜をたっぷり塗る。
「はい、食べて食べて」
受け取る。パンの断面に蜂蜜が染みて、琥珀色のグラデーションができている。一口齧る。
パンの塩気と蜂蜜の甘さが舌の上で混ざる。そこにラベンダーの香りが重なって、口の中が花畑になったみたいだ。
「美味しい……」
「でしょう!? これ売れるわよ、絶対。次の市場の日に出しましょう。名前つけなきゃ。『ラベンダー蜂蜜パン』じゃ普通すぎるかしら——」
マーヤが一人で盛り上がっている。その横でニクラスが黙ってパンを食べている。表情は変わらない。でも二切れ目に手を伸ばしたから、気に入ったのだろう。
「ニクラスさん、パンもう一枚いります?」
「……もらう」
マーヤが三枚目を切って蜂蜜を塗る。私も二枚目をもらう。結局三人で焼きたてのバゲットを半分食べてしまった。
パン屋を出る。昼前の陽射しが強くなってきた。道の向こうに、ハインツの養蜂場の屋根が見える。
「午後は内検ですね」
「ああ。ラベンダーの巣箱と、東側の百花蜜の群を見る」
「私も行っていいですか」
「いつも来ているだろう」
「一応聞いてます」
「来い」
短い返事。でもその一言に、拒絶の色はない。
畦道を戻る。さっき来た道。でも帰りは陽の角度が変わって、影の形が違う。同じ道なのに、朝と昼では別の場所みたいに見える。
養蜂場が見えてきた。巣箱が並んでいる。蜂が飛んでいる。ラベンダーの紫が、畑の一角を染めている。
ニクラスが歩調を緩めた。振り向く。
「シャルロッテ」
「はい」
「秋にはそばの花を植える。そば蜜も採れるようにする」
「そば蜜。色が濃いやつですよね。黒に近い」
「味が独特だ。好き嫌いが分かれる。でもじいさんは好きだった」
「私も食べてみたいです」
「採れたら、最初に舐めるのはお前だ」
ニクラスが前を向いて歩き出した。半歩前。いつもの距離。
追いかける。草を踏む音が二つ分、重なる。
蜂の羽音が近づいてくる。ラベンダーの匂いが風に乗って流れてくる。巣箱の前でハインツが腕を組んで待っているのが見える。
春の蜂蜜が終わって、夏の蜂蜜が始まる。秋にはそば蜜。冬は蜂の越冬。そしてまた春。
季節が巡るたびに、新しい蜂蜜ができる。新しい味が生まれる。その最初のひと匙を、隣の人と分け合う。
足元のクローバーを踏まないように、少しだけ歩幅を狭くした。




