第2話「蜂の声が聞こえる」
村に降りたのは三日目の朝。
フリッツという村長が声をかけてきた。五十代くらいの穏やかな男の人。
「ああ、あんたが丘の上に住み着いた人か」
もう知られている。村は狭い。
名乗ると、村長はあっさり受け入れてくれた。
「蜂蜜が美味いなら何者でもいい。この村は人手が足りないからな」
王都の社交界で何年も気を遣い続けた私の苦労は一体なんだったのか。
板材の件を相談したら、東の外れの木こりグスタフを紹介された。無愛想な大男だったけれど、端材三枚と釘十本を銅貨二枚で譲ってくれる。
板を抱えて丘に戻る途中、巣箱の方から甲高い羽音が聞こえた。
普段の穏やかなブーンじゃない。せわしなくて高い音。
板を置いて走った。
三番目の巣箱。巣門から蜂がわらわら出てきて、箱の表面を覆い始めている。
巣箱に耳を近づける。
蜂の声が聞こえる。声、というのは比喩じゃない。蜂は羽の振動で合図を送る。女王蜂の低い振動、働き蜂の警戒音、巣の温度調節のための送風音。前世の私はそれを聞き分けられた。
今聞こえているのは——女王蜂の声。しかも二つ。
新しい女王が生まれて、古い女王と群れの半分が巣を出ていく。分蜂の前兆。放っておくと蜂の数が半減する。
「……今ですか」
燻煙器はまだ使えない。煙なしで対処するしかない。
方針を変えよう。分蜂を止めるんじゃなくて管理する。新女王が出たら旧女王と一緒に別の巣箱に移せば、群れが二つに増える。
昨日、藪の奥で見つけた朽ちかけの七番目の箱。あれを使う。
丘を駆け下りて古い巣箱を引きずり出し、底板に端材を当てて釘で打ちつけた。金槌がないから石で叩く。指を打った。痛い。
血が滲んだ親指を口に含みながら底板を固定して、三番目の隣に設置する。蜂蜜と花粉がついた巣枠を一枚移して誘導の準備。
あとは待つだけ。
夕方まで分蜂は始まらなかった。新女王はまだ王台の中にいる。
養蜂場の端に座り、ずきずきする親指に息を吹きかけながら巣箱を見守る。蜂の声は穏やかに戻っていて、さっきの興奮は収まっている。
――前世のお父さんが聞いたら笑うだろうな。「道具もなしに分蜂の対応をするやつがあるか」って。
風が変わって、丘の下から焼きたてパンの匂いが微かに漂ってきた。
お腹が鳴る。
――この子たちの巣が安定したら、蜂蜜パンを食べるんだ。とびきり甘いやつ。




