第22話「ここに残りたい」
春が近い、とハインツが言った。
「蜂が騒がしくなってきた。もう少ししたら内検を始めるぞ」
冬の間、巣箱をなるべく触らないようにしていた蜂たちが、暖かい日に巣門から顔を出し始めている。偵察蜂が飛び立つ姿を見て、ああ、この子たちも春を待っていたんだと胸が緩む。
「シャルロッテ、聞いてるか」
「聞いてます。内検ですね。巣脾の状態確認と、女王蜂の産卵状況と」
「そうだ。お前の巣箱は九つある。ニクラス、手伝ってやれ」
「ああ」
ニクラスが短く応じる。冬の間もずっとそうだった。ハインツが指示を出し、ニクラスが手伝いに来る。自然な流れで、いつの間にか三人で養蜂をしているような形になっている。
内検の日、朝早くに養蜂場へ向かうと、地面に薄い霜が残っていた。踏むとさくさくと音がする。息が白い。でも日差しにはもう力があって、巣箱の木肌を温め始めている。
一つ目の巣箱を開ける。蜜蝋の匂いと、蜂たちの体温が混ざったあまい空気が立ち上る。
「女王、いますね。産卵も始まってます」
「見せろ」
ハインツが巣脾を受け取り、光に透かすように観察する。卵が整然と並んでいるのを確認して、短く頷いた。
「悪くない」
この人の「悪くない」は最上級の褒め言葉だ。半年前に同じ言葉をもらったときの嬉しさを、今もはっきり覚えている。
二つ目、三つ目と順に見ていく。ニクラスが巣箱の蓋を持ち上げ、私が巣脾を引き出し、ハインツが判断を下す。流れるような連携が心地いい。
七つ目の巣箱で問題が見つかった。
「蜂の数が少ない」
ニクラスが言った。確かに、他の巣箱と比べて明らかに蜂が減っている。巣脾を引き出すと、蜜の貯蔵も心もとない。
「冬の間に弱ったか」
ハインツが眉をひそめる。
「女王蜂がいません」
私は巣脾を一枚ずつ丁寧に確認していた。働き蜂はいるのに女王蜂の姿がない。産卵の痕跡もない。
「無王群か。厄介だな」
「隣の巣箱から王台を移しましょうか」
「この時期にか? まだ王台は——」
「第三巣箱に変成王台がありました。さっき確認したとき、二つ」
ハインツが目を見開く。私が巣脾を見ながら王台の位置まで把握していたことに驚いたらしい。
「……何枚目だ」
「外から三枚目の下端です」
ハインツが第三巣箱に戻って確認する。しばらくして戻ってきた顔は、複雑な表情をしていた。感心と悔しさが半々。
「あった。お前、いつの間にそこまで見るようになった」
「師匠に教わりましたので」
「師匠と呼ぶなと——まあいい。移すぞ。ニクラス、道具」
ニクラスが黙って道具を手渡す。その指先が私の手にかすかに触れた。
王台の移植は繊細な作業で、巣脾を傷つけないように切り出して、無王群の巣箱に移す。息を詰めて作業する私の隣で、ニクラスが風よけに立ってくれていた。
作業を終えて巣箱を閉じたとき、全身の力が抜けた。
「うまくいきますかね」
「お前の蜂だ。お前が信じなくてどうする」
ハインツの言葉が、思いのほか胸に沁みた。お前の蜂。この蜂たちは、私のものなのだ。
十一の巣箱すべての内検を終えたのは昼過ぎだった。小屋に戻ってハインツが作った野菜のスープを啜る。塩気が強くて、冬を越した根菜の甘みがある。
「今年は蜜がいい年になるぞ」
ハインツがスープを飲みながら言う。
「秋に植えた蜜源植物が春に咲く。お前が蒔いたクローバーもだ」
そうだ。秋に、ニクラスに手伝ってもらって養蜂場の周りにクローバーの種を蒔いた。まだ芽は出ていないけれど、土の中で春を待っている。
「楽しみですね」
自分の声が思ったより弾んでいて、少し恥ずかしくなる。
「シャルロッテ」
ハインツが真面目な顔をする。
「お前、このまま養蜂を続ける気はあるか」
「……え?」
「聞いているのは簡単なことだ。お前は元伯爵令嬢だろう。いつか都に戻る算段をしているのか、それともここで蜂を飼い続けるのか」
スープの湯気が顔にかかる。温かくて、少し目がにじむ。
考えたことがなかった——というのは嘘だ。何度も考えた。追放された身で都に戻る方法があるのか。戻ったとして、何をするのか。伯爵家はもうない。
でも、ここにいる理由を「戻れないから」にしたくなかった。
「私は」
言葉を探す。ニクラスがスープの皿に目を落としたまま、耳だけをこちらに向けているのが分かる。
「ここに残りたいです」
口にした瞬間、自分の中で何かが定まった。霧が晴れるように、輪郭がはっきりする。
「帰れないからじゃなくて、ここがいいんです。この養蜂場と、この村と、蜂たちが」
ハインツは黙ってスープを飲み干した。空の皿を置いて、一言。
「そうか」
短い。でも、胸のどこかにすとんと落ちた。
ニクラスは最後まで何も言わなかった。ただ、小屋を出るときに振り返って、いつもより長く私を見ていた。
蜂たちの羽音が遠くから聞こえる。春を待つ音。私もこの場所で、春を待つ。
ここが私の居場所だ。追放された先にあった、蜂蜜色の居場所。
巣箱の蜂たちが、暖かい風に誘われて飛び立っていく。私はそれを見送って、深く息を吸い込んだ。蜜蝋と枯草と、かすかな花の予感が混ざった空気。
春が来る。この場所で迎える、初めての春が。




