第21話「温かい沈黙」
ニクラスと二人きりでいても、沈黙が怖くなくなったのはいつからだろう。
養蜂場の小屋で蜜蝋キャンドルを作っていた。蜜蝋を湯煎で溶かし、芯糸を浸して引き上げる。それを繰り返すと少しずつ蝋が重なって太くなる。単純な作業だけれど、手を止めると形が崩れるから集中がいる。
ニクラスは向かいの作業台で巣枠の修繕をしている。木枠の釘を抜き、新しい板を当て、金槌で打ちつける。規則正しい音が小屋に響く。
コン、コン、コン。
溶けた蜜蝋のあまい匂いと、木を打つ音。それだけの空間。会話はない。でも、不思議と満ちている。
前世でも養蜂場の作業小屋にはこういう空気があった。父と並んで巣枠を組んでいた記憶。お互いに黙って手を動かしていて、必要なときだけ「そこ押さえて」と声をかける。あの沈黙は寂しくなかった。
ニクラスとの沈黙も、同じ種類のものだと思う。
「……芯が曲がってる」
「え?」
顔を上げるとニクラスが私のキャンドルを見ていた。確かに、考え事をしていた間に芯糸が傾いて蝋が偏っている。
「あ、本当だ。直しますね」
蝋がまだ柔らかいうちに芯を真っ直ぐに整える。指先に蜜蝋の温かさが残る。
「何を考えてた」
「え?」
「ぼんやりしてた」
見られていた。作業に集中しているように見えて、ちゃんとこちらに目を配っていたらしい。
「前世のことを、少し」
この村の人にはまだ前世の記憶のことを話していない。でもニクラスとハインツには伝えてある。蜂の扱いがなぜこんなに手慣れているのか、嘘をつき続けるのが難しくなったから。
ニクラスは「ふうん」とだけ言って金槌に目を戻した。前世の記憶について深く聞いてこない。信じているのか疑っているのかも分からない。ただ、私が蜂を上手に扱えるという事実だけを受け入れている。
その淡白さが心地いい。
「ニクラスさんは、なぜ養蜂を続けているんですか」
聞いてから、余計なことを言っただろうかと少し後悔する。でもニクラスは金槌を止めて、考えるように天井を見上げた。
小屋の天井は低い。梁が剥き出しで、そこに乾燥したハーブの束がいくつもぶら下がっている。ハインツが虫除けに吊るしたもので、ラベンダーとタイムの匂いがかすかに漂う。
「じいさんが好きだから」
「蜂が?」
「じいさんが、蜂を好きなのが。……分かりにくいか」
「いえ」
分かる。とても。
ニクラスは養蜂そのものが好きなのではなく、蜂を愛するハインツのそばにいたいから養蜂を続けている。両親を早くに亡くして、ハインツに育てられたニクラスにとって、養蜂場はハインツとの絆そのものなのだ。
「じいさんが蜂を見てるとき、安心する」
金槌を置いて、ニクラスが言った。こんなに長く話すのは珍しい。
「蜂を見てるじいさんは機嫌がいい。機嫌がいいと、飯がうまくなる」
「あはは、そこなんですか」
「重要だろ」
真面目な顔で言うから余計におかしい。でも、分かる。大切な人の機嫌がいいことは、何よりも重要だ。前世で父が養蜂場から上機嫌で帰ってくると、夕飯の味が変わらないはずなのに美味しく感じた。あの感覚と同じもの。
「シャルロッテは」
「はい?」
「なぜ養蜂を」
同じ質問を返された。しばらく考える。蜜蝋に芯糸を浸して引き上げ、蝋が固まるのを待つ間に。
「蜂といると、余計なことを考えなくていいからです」
追放されたこと。伯爵家を失ったこと。ヴィルヘルミーネに嵌められたこと。そういう記憶が、蜂の羽音の中では溶けていく。巣箱を開けて、蜂の状態を見て、適切な処置をする。やるべきことがはっきりしている時間は穏やかだ。
「……それと、蜂蜜が好きなので」
「知ってる。パンに塗りすぎだ」
「塗りすぎてません」
「マーヤが言ってた。瓶の減りが早いって」
マーヤ。余計なことを。でもニクラスの口元がわずかに動いている。笑っている、のだと思う。
沈黙が戻る。
蜜蝋キャンドルがだいぶ太くなってきた。きれいな飴色。光に透かすと蜂蜜みたいな金色が浮かぶ。
コン、コン。ニクラスの金槌の音が再開する。
蜜蝋の匂い。木を打つ音。それだけの空間。
でもさっきよりずっと温かい。言葉を交わしたあとの沈黙は、交わす前とは違う。知らなかったことを一つ知って、見えなかったものが一つ見えて、その分だけ隣にいる意味が増す。
キャンドルの芯に火を灯してみる。蜜蝋の炎は明るくて穏やかで、ほんのり甘い匂いを立てる。
「きれい」
思わず呟くと、ニクラスが手を止めてこちらを見た。炎が揺れて、ニクラスの瞳に小さな光が二つ灯る。
「ああ」
ニクラスは炎を見ていたのか、私を見ていたのか。
聞けなかった。聞く勇気がなかったのではなく、聞かなくてもいい気がした。この沈黙のまま、もう少しだけこの時間を壊さずにいたい。
窓の外では、冬の風が養蜂場の枯れ枝を鳴らしている。春はまだ遠いはずなのに、この小屋の中だけ季節が違う。




