第20話「蜂を見る目だけ」
ニクラスは蜂を見るとき、別人になる。
冬の養蜂場で巣箱の点検をしていたときに気づいた。巣箱の蓋をそっと持ち上げる手つき、蜂の動きを追う視線、わずかに緩む口元。普段は何を考えているのか読めない横顔が、蜂の前では柔らかくなる。
私が見惚れていることに本人は気づいていない。
「今日は静かだな」
ニクラスが言う。巣箱の中を覗き込み、蜂たちの塊——冬の間は寄り集まって体温を保つのだ——を確認している。
「蜂球の温度、安定してますか?」
「ああ。いい状態だ」
会話はいつもこの調子で、必要なことだけ。余計な言葉をニクラスは使わない。
最初のころは戸惑った。何を話しても返事が短くて、嫌われているのかと本気で思い悩んだ時期もある。でも今は分かる。ニクラスにとって言葉は、息をするように出てくるものではない。選んで、考えて、必要だと判断してから口に出すもの。
だから、ニクラスの言葉には嘘がない。
「シャルロッテ」
「はい」
「手袋」
見ると、私の右手が素手のまま巣箱に触れていた。冬場の木は冷える。かじかんだ指先を慌てて引っ込めると、ニクラスが自分の手袋を片方外して差し出してきた。
「いえ、大丈夫です。自分のがポケットに——」
「いいから」
押し付けるように渡された手袋は大きくて、指が余る。使い込まれた革の匂いがした。手のひらに残る温もりが、じんわりと指先を溶かしていく。
「……ありがとうございます」
ニクラスは何も言わず、素手になった右手を上着のポケットに突っ込んで巣箱に視線を戻していた。
こういうところだ。言葉は足りないのに、行動で全部伝えてくる。ずるい。
巣箱の点検を終えて養蜂場の小屋に戻ると、ハインツが薪ストーブの前で茶を淹れていた。小屋の中には蜜蝋の甘い匂いと、樫の薪が爆ぜる乾いた音が入り混じっている。
「どうだった」
「問題ありません。全部の巣箱、蜂球がしっかりしてました」
「ふん」
ハインツの「ふん」は、満足しているときの「ふん」だ。半年以上この人の弟子をしていれば、鼻息の種類くらい聞き分けられる。
渡されたカップに口をつける。番茶に似た、素朴な味。冷えた身体に熱い液体が染みて、思わず目を閉じる。
「ニクラス、お前もだ」
ハインツがもう一つのカップを孫に押しやる。ニクラスは黙って受け取り、立ったまま一口飲んだ。
「座れ、行儀が悪い」
「…………」
ニクラスは椅子を引いて座った。祖父には逆らわない。逆らわないというより、逆らう理由がないのだと思う。ハインツの言うことはだいたい正しいから。
「シャルロッテ」
「はい」
「お前の蜂、春まで持つぞ。今年の蜜は期待できる」
その言葉に胸が跳ねた。ハインツは世辞を言わない。この人が「期待できる」と口にするなら、本当に期待していいのだ。
「ありがとうございます、師匠」
「師匠と呼ぶな。気持ち悪い」
「でも師匠ですし」
「うるさい」
ハインツが眉間にしわを寄せる。でも口元は怒っていない。この人も表情と感情が一致しないところがある。祖父と孫で似ているのだろう。
ふとニクラスを見ると、カップの縁に口をつけたまま、こちらを見ていた。
目が合う。
ニクラスは視線を逸らさなかった。逸らさないくせに、何も言わない。いつもの無表情——ではなくて、少しだけ目が細まっている。蜂を見るときの、あの目に似ていた。
心臓がうるさくなる。
蜂を見るときの目。大切なものを見るときの目。あの目を私に向けているのだとしたら。
「な、何ですか」
「別に」
ニクラスは茶に視線を落とした。「別に」は、ニクラスの語彙の中でもっとも信用できない言葉だ。
ハインツが薪ストーブに木をくべながら、何か呟いた。聞き取れなかったけれど、笑っているように見えた。
手袋を返そうとしたら「明日でいい」と言われた。
帰り道、片手だけ大きな手袋をはめたまま歩く。革の匂いと、消えかけの温もり。冬の空気が頬を刺すのに、指先だけがずっと温かい。
蜂を見る目だけ、と思っていた。
でもさっき、あの目は私に向けられていた。
考えすぎだと思いたい。でも革手袋の温もりが、考えすぎだと片付けることを許してくれない。指先に残ったぬくもりを握り締めて、私は冬の道を歩いた。
明日、手袋を返すときに何を言えばいいのか。
それだけで、夜が眠れなくなりそうだった。




