第19話「ひとりで育った」
ハインツさんが風邪を引いた。
七十歳の身体に辺境の冬は厳しい。マーヤが知らせに来て、私は蜂蜜湯を瓶に詰めて、ハインツさんの家を訪ねた。
扉を開けたのはニクラスだった。
「……入れ」
家の中は薄暗い。暖炉に火が入っているけれど、部屋全体を温めるには足りない。奥の寝台でハインツさんが毛布に包まれて咳をしている。
「ハインツさん、蜂蜜湯を持ってきました」
「ゲホ……いらん。誰が頼んだ」
「喉にいいですから。飲んでください」
「おまえの蜂蜜か」
「はい。たっぷり入れました」
「入れすぎだ、甘い。……まあいい」
文句を言いながら飲む。この人は文句を言わないと何も受け取れない体質なのだろう。
口では嫌がりながら、蜂蜜湯を受け取って飲む。しわがれた喉がごくりと動く。
「……悪くはない」
病床でもその台詞は変わらない。少し安心する。
ニクラスが台所で何か作っている。鍋の蓋が鳴る音、野菜を切る音。覗くと、ジャガイモと玉ねぎのスープを煮ていた。
「手伝いましょうか」
「いい。座っていろ」
ニクラスの台所さばきは手慣れている。玉ねぎを薄切りにする手つきに無駄がない。
「ニクラスさん、料理できるんですね」
「爺さんが寝込むと俺が作る。昔からそうだ」
昔から。
ハインツさんの咳が奥から聞こえる。ニクラスはスープを味見して、塩を少し足した。
「ハインツさん、よく寝込むんですか」
「冬に一回。毎年だ」
「毎年……」
「昔はもっと丈夫だった。俺が小さい頃は、冬でも巣箱を見に行っていた」
ニクラスが珍しく、聞いてもいないことを話す。スープの鍋を見つめながら。
「両親が死んだのは俺が三つのときだ」
心臓がどくりと鳴った。
「流行り病だった。村の半分が寝込んで、何人か死んだ。父と母もそのうちの二人だ」
淡々としている。感情を込めないのではなく、何度も反芻した記憶を話すときの平坦さ。
「爺さんが引き取った。養蜂場で育った。蜂が遊び相手だった」
スープが煮立つ。ニクラスが火を弱める。
「人と話す必要がなかった。爺さんは俺が黙っていても怒らない。蜂は言葉がなくても通じる。だから」
だから、言葉が少ないのだ。必要がなかったから。
「村の子供と遊ばなかったんですか?」
「遊び方がわからなかった。マーヤが話しかけてきたが、何を返せばいいかわからなくて、逃げた」
マーヤから逃げるニクラス少年を想像して、少し笑ってしまった。マーヤは追いかけそうだ。
「笑うな」
「ごめんなさい。でもマーヤなら追いかけそうだなと思って」
「……追いかけてきた。三日間」
「やっぱり」
あの子は昔からそういう子なのだ。諦めが悪くて、明るくて、人懐っこい。パン屋の娘は村の太陽みたいな存在なのだろう。
ニクラスの口元が、ほんのかすかに動いた。笑ったのかもしれない。わからない。このくらいの表情の変化を読み取れるようになったのは、蜂蜜の味比べを始めてからだ。表情鑑定士としての腕が上がっている。需要はないけれど。
スープを器によそう。ニクラスがハインツさんのもとへ運ぶ。私は台所で待つ。
壁に古い絵が一枚かかっている。若い夫婦と、小さな子供。赤ん坊を抱いている女性は目元がニクラスに似ている。
「母だ」
いつの間にかニクラスが戻ってきて、私の視線の先を見ている。
「爺さんが描かせた。俺が生まれた年だ」
「綺麗な方ですね」
「……知らない。覚えていない」
三歳で両親を失ったのだから、記憶がないのは当然だ。でも「知らない」と「覚えていない」を並べたニクラスの声には、二十年分の空白が詰まっていた。
何か言わなければ。でも何を言えばいいのかわからない。「かわいそう」は違う。「大変でしたね」も違う。この人はそういう言葉を求めていない。
「ニクラスさんの蜂蜜、美味しいです」
自分でも何を言っているのかわからなかった。でもそれしか出てこなかった。
ニクラスが私を見る。
「……急だな」
「すみません、変なこと言って」
「いい。変じゃない」
変じゃないと言ってくれた。
ニクラスがスープの鍋に蓋をする。湯気が蓋の隙間から漏れて、白く揺れる。
「おまえも食え。余っている」
「いいんですか」
「座れ」
ニクラスが器を二つ出した。一つは私の分。スープは塩気がちょうどよくて、ジャガイモがほくほくしていて、体の芯が温まる。
向かい合って黙ってスープを飲む。奥でハインツさんの寝息が聞こえる。暖炉の薪が爆ぜる。
ニクラスは一人で育った。蜂と、ハインツさんと、この家で。言葉が少ないのは性格ではなく環境だった。
でも今、私の前にスープを出してくれた。
言葉にならないものを、別の形で差し出す人。蜂蜜の味で花を語り、藁で巣箱を守り、スープで「食え」と言う人。
――この人のことを、もっと知りたいと思った。それが何を意味するのか、まだ名前をつけられないけれど。




