第17話「蜂を寝かせる」
初雪が降った。
窓の外が白い。養蜂場の巣箱の屋根に薄く雪が積もっている。蜂たちは巣箱の中で固まっているはずだ。冬眠ではないけれど、巣の中心に集まって体を震わせ、熱を作る。蜂球と呼ばれる塊になって、女王蜂を温める。
蜂を寝かせる季節。前世の父はそう言っていた。
「冬は蜂を寝かせる季節だ。養蜂家にできることは、布団をかけてやることくらいだ」
当時は「蜂に布団」という表現がおかしくて笑ったけれど、今は笑えない。布団をかけたい。本気でかけたい。この子たちが春に元気で出てきてくれるなら、私の毛布だって差し出す。
藁を巻く日が来た。
朝、ニクラスが約束通りやってきた。肩に藁束を担いでいる。白い息を吐きながら、柵を越えて養蜂場に入ってくる。
「多いな」
「足りないよりいいかと思って」
「……そうだな」
二人で巣箱に藁を巻いていく。底と側面を厚めに、上面は換気のために薄く。蜂は冬でも呼吸するから、密閉すると湿気で群が弱る。前世の父は「蜂に窒息されたら養蜂家の名折れだ」と言っていた。父は大げさな人だった。でもその教えは正しい。
藁を縄で固定する。私が藁を押さえて、ニクラスが縄を巻く。板切れのときと同じ分担。私が押さえて、ニクラスが仕上げる。いつの間にか役割が決まっていた。
「ニクラスさんのところの巣箱は、もう終わったんですか」
「昨日、爺さんとやった」
「お二人で? 二十箱以上あるのに」
「ああ。爺さんは速い」
七十歳で二十箱の藁巻きを一日で。ハインツさんの体力は化け物だ。いつか追いつけるだろうか。いや、追いつけない気がする。
毎年。ニクラスはこの作業を何年繰り返してきたのだろう。五歳から始めたなら二十年。同じ季節に同じ作業をして、蜂を守って、春を待つ。
三番目の巣箱に取りかかる。蜜が少し足りなかった巣箱。砂糖水は先週のうちに与えておいた。巣箱に耳を近づけると、かすかにぶうんという羽音が聞こえる。
「生きてる」
思わず声に出した。
「当たり前だ」
ニクラスが縄の端を結ぶ。指がかじかんでいるのか、いつもより動きが遅い。
「手、冷たくないですか」
「平気だ」
平気じゃないと思う。指先が赤くなっている。
「手袋、貸しましょうか。予備があります」
「いらない。縄が結べなくなる」
確かに、厚い手袋では細い縄を扱えない。前世の父も素手で作業していた。冬の養蜂場は手がひび割れる。
四番目、五番目。作業は黙々と進む。会話は少ない。でも沈黙が苦にならない。藁の乾いた匂い、縄の麻の感触、巣箱から伝わるかすかな蜂の熱。二人で同じものに触れている。
九番目、最後の巣箱。藁を巻いて、縄を締めて。
「……終わったな」
ニクラスが立ち上がる。九つの巣箱が全部、藁の布団に包まれている。雪の中でころんと膨らんで見えて、なんだか可愛らしい。大きなパンが並んでいるみたいだ。
「ありがとうございます、ニクラスさん。一人じゃ半日かかるところでした」
「ああ」
「お茶、飲んでいきませんか。今日はお昼の用意は」
「爺さんが鍋を作ると言っていた」
「じゃあ少しだけ。温まってから帰ってください」
今回は断られなかった。
台所に入って、やかんに火をかける。紅茶を淹れて、蜂蜜を垂らす。ニクラスの分は少なめにしようと思ったけれど、この人は蜂蜜が好きだから多めにした。
カップを渡す。ニクラスが両手で包むように持つ。赤くなった指がカップの温度でゆっくり戻っていく。
一口飲んで、ニクラスが窓の外を見た。
「雪の日は静かだ」
ニクラスが自分から風景の感想を言ったのは、初めてかもしれない。
「はい。蜂も静かで、村も静かで」
「嫌か」
「いいえ。好きです、こういう静けさ」
ニクラスがカップの中を覗き込む。蜂蜜が溶けて、紅茶が琥珀色に光っている。
「俺も」
二文字。でもそれは「俺もこの静けさが好きだ」という意味で、もしかしたらそれ以上の意味もあるのかもしれなくて。
考えすぎだ。蜂蜜の入れすぎで頭が甘くなっている。紅茶に蜂蜜を入れすぎる癖は、思考にも影響を及ぼすのかもしれない。そんなわけはないのだけれど。
ニクラスは紅茶を飲み干して、カップを台所の端に置いて帰っていった。「ごちそうさま」の代わりに小さくうなずいて。短い人だ。でも飲み干してくれたことが嬉しい。残されるより、ずっと。
カップを洗う。ニクラスの唇が触れた縁を指でなぞって、すぐに恥ずかしくなってごしごし洗った。何をしているのだ私は。追放された悪役令嬢がカップの縁を撫でている場合ではない。
窓の外、雪はまだ降っている。巣箱は藁に包まれて、蜂は中で身を寄せ合っている。
――春になったら、ニクラスにお礼の蜂蜜を渡そう。一番おいしいやつを。




