第13話「師匠の蜂は厳しい」
ハインツさんの蜂に嫌われた。
正確に言うと、嫌われたというより「歓迎されなかった」。私の蜂は手を差し出せば指に止まるし、巣箱を開けても攻撃してこない。蜂に好かれる体質は前世からの贈り物だ。どこの蜂でも仲良くなれると、正直、少し自信があった。
でもハインツさんの蜂は違う。私の手に止まらない。避ける。近づくと羽音が一段高くなって、威嚇とまではいかないけれど、明らかに「あんた誰?」という空気が漂う。蜂に人見知りされるとは思わなかった。
「当たり前だ。蜂は巣ごとに性格が違う。おまえの蜂に好かれても、うちの蜂に好かれるとは限らん」
ハインツさんが鼻を鳴らす。今日の課題は巣枠の組み立て。木枠に蜜蝋シートを張る作業で、蜂に触る必要はないはずだった。
なのに。
「実際に入れてみろ。新しい巣枠を嫌がるかどうかは蜂が決める」
巣箱を開ける。煙燻器を使う。先週教わった通り、ふいごを三回。白煙が巣門を覆う。
蜂が落ち着いたのを確認して、新しい巣枠を差し込む。
ぶん、と一匹が私の手首をかすめた。
「っ」
刺されてはいない。でも体が固まった。刺されない体質だからこそ、蜂が威嚇する感覚を久しぶりに味わって、背筋に冷たいものが走る。
「びびるな。刺されてないだろう」
「は、はい……」
「おまえは自分の蜂に甘やかされとる。蜂は群によって違う。うちの蜂は気が強い。だからいい蜜を集める」
「気が強い蜂のほうが蜜がいいんですか?」
「縄張り意識が強い蜂は、巣の防衛に優れる。害虫を寄せつけない。結果、蜜の質が上がる」
知らなかった。前世の父の蜂はおとなしい品種ばかりだった。気が強い蜂を扱う経験がない。
ハインツさんが私の手から巣枠を取り上げる。同じ巣枠を、同じ場所に差し込む。蜂は騒がない。ハインツさんの動きは蜂にとって日常の一部で、脅威ではないのだ。
「違いがわかるか」
「……速さ、ですか?」
「遅さだ。おまえは緊張して手が速くなった。蜂は急な動きを嫌う」
言われてみれば、確かに私の手は震えていた。自分の蜂相手なら緊張しないから気づかなかっただけで、基本の動作が雑になっていたのだ。
「もう一回やれ」
巣枠を引き出す。ゆっくり。蜂の動きを見ながら、巣枠を傾ける角度を調整する。差し込む。今度はぶつからないように。
蜂が一匹、巣枠の上に乗った。威嚇ではない。偵察。新しい巣枠の蜜蝋を触角で確認している。
「……よし」
ハインツさんの「よし」を聞いたのは初めてだった。嘘だ、聞き間違いかもしれない。振り返ると、もう次の巣箱へ歩いていっている。
「次。五番の巣箱。あそこの群はもっと気が荒い」
もっと。
午前中いっぱい、ハインツさんの蜂と格闘する。五番は確かに気が荒くて、煙燻器を二回使った。七番は逆におとなしくて、私の蜂に似た穏やかさ。群ごとに対応を変える。煙の量、手の速度、巣枠を入れる角度。
一つとして同じやり方では通用しない。前世の知識が万能だと思っていた自分が恥ずかしい。養蜂は奥が深い。深すぎて底が見えない。
昼過ぎ、へとへとになってハインツさんの家の前に座り込んでいると、奥からニクラスが水の入ったコップを持ってきた。呼んでもいないのに現れるあたり、実はずっと見ていたのではないだろうか。
「……飲め」
「ありがとうございます」
水が喉を通る。冷たくて、井戸水の鉄っぽいかすかな味がする。美味しい。体中から力が抜けた。
「爺さんの蜂、きつかっただろう」
「きつかったです。私の蜂しか知らなかったから」
「俺も子供の頃、七番以外全部刺された」
「七番は優しいですよね」
「……ああ」
ニクラスも刺されたのか。この無表情な人が蜂に刺されて「痛い」と言っている姿を想像すると、少し微笑ましい。たぶん痛くても無表情だったのだろうけれど。
ニクラスが隣に座る。距離がある。腕二本分くらい。でも同じ壁に背をもたせかけて、同じ方向を見ている。養蜂場の向こうに広がる花畑。黄色と紫の野草が風に揺れている。
「ニクラスさんは、何歳のときからここで?」
「……五つ」
「ずっとここに?」
「ああ」
短い返事。でも嫌がっている感じはしない。ただ、それ以上の言葉を持っていないだけ。
風が花畑の匂いを運んでくる。甘い。でも蜂蜜の甘さとは違って、もっと青くて、生きている匂い。
ハインツさんの声が養蜂場から飛んでくる。
「休憩は終わりだ! 午後は蜜蝋の精製をやるぞ!」
立ち上がる。足がふらつく。ニクラスが空のコップを受け取って、何も言わずに家の中に消えた。「がんばれ」とも「無理するな」とも言わない。でも水を持ってきたこと自体が、この人なりの応援なのだと思う。
立ち上がる。膝が笑っている。午後の蜜蝋精製は座り作業だから、なんとかなる。たぶん。
――明日は筋肉痛だろうな。でも、ハインツさんの「よし」をもう一度聞きたくて、来週もここに来るのだろう。




