第12話「教えてやるか」
ハインツさんの養蜂場は、私のところとは別世界だった。
巣箱の配置が違う。等間隔ではなく、微妙にずらして並んでいる。日当たり、風向き、花畑までの距離。全部計算した上での配置なのだと、見た瞬間にわかった。
「ぼんやりするな。来い」
ハインツさんが煙燻器を持ち上げる。銅製の古い型で、取っ手の革が使い込まれて黒く光っている。
「まず燃料。松の葉と乾燥した牛糞を混ぜる。煙の温度を下げるためだ」
「牛糞、ですか」
嫌な顔をした自覚はないのだけれど、たぶん眉が動いていたのだろう。元伯爵令嬢の矜持がわずかに抵抗している。前世では平気だったのに、この体はまだお嬢様仕様なのか。
「嫌な顔をするな。蜂のためだ。熱すぎる煙は蜂を怒らせる」
言われるままに燃料を詰める。松の葉のヤニっぽい匂いと、乾いた土のような牛糞の匂いが混ざって、鼻の奥がつんとした。
火を入れる。ハインツさんがふいごを二回押すと、淡い白煙がもくもくと立ち上がる。
「煙の量を見ろ。多すぎてもだめだ。蜂が巣を放棄する」
「少なすぎると?」
「蜂が落ち着かない。おまえは素手でやっていたから知らんだろうが、煙は蜂に『火事だ、蜜を食え』と伝える道具だ。腹いっぱいの蜂は刺さない」
なるほど。前世の父も煙燻器は使っていたけれど、燃料の配合までは教わらなかった。我が家の煙燻器はもっと簡素なもので、新聞紙を燃やしていた記憶がある。
「ふいごの回数は三回まで。四回以上押すと煙が出すぎる。やれ」
私がふいごを押す。一回。白煙がふわりと出る。
「弱い。もっと手首を使え」
二回目。少し強めに。
「それだ。その量を覚えろ」
巣箱に近づく。ハインツさんが煙を巣門に吹きかける。蜂がざわざわと動き始めるけれど、攻撃的にはならない。お腹に蜜を詰め込んでいるのだ。
「蓋を開けろ」
私が蓋を持ち上げると、蜂たちがのんびりと巣枠の上を歩いている。いつも私の巣箱で見る蜂たちよりも、どこか余裕がある動きに見えた。
「おまえの蜂は好かれて落ち着いている。俺の蜂は仕組みで落ち着いている。どっちがいいかわかるか」
「えっと……どちらにも良さが?」
「甘いことを言うな。両方できるのが一番いいに決まっとる」
ぐうの音も出ない。二度目。
ハインツさんは巣枠を一枚引き出して、私に持たせた。ずしりと重い。蜜がぎっしり詰まっている。
「この群の蜜は何の花だ。当ててみろ」
急に試験が始まった。巣枠を光に透かす。蜜蓋の色は薄い琥珀色。匂いを嗅ぐ。甘い。でも普通の甘さじゃない。どこか……草原の、青い匂いが混ざっている。
「ヤグルマギク?」
「六割正解。ヤグルマギクとクローバーの混合だ。おまえの鼻はまあまあだが、ニクラスには負ける」
ニクラスの名前が出た。あの人なら舐めなくても匂いだけで当てそうだと思って、少し悔しい。味覚対決をしたら私は初戦敗退だろう。養蜂家としての鼻も舌も、まだまだ修行が足りない。
「ニクラスは最初からあんなに味覚が鋭かったんですか」
「あいつは小さい頃から蜂蜜で育った。粥に蜂蜜、パンに蜂蜜、水に蜂蜜。偏食がひどくてな」
ハインツさんの口調が少し柔らかくなる。孫の話をするときだけ、眉間の皺が一本減る。
「舌だけは確かだ。五歳で産地を当てた。どうかしとる」
「五歳で……」
「俺が教えたんじゃない。勝手に覚えた。蜂蜜をぺろぺろ舐めて、これは違う、これは同じと分けていた」
ニクラスの幼い頃を想像する。無表情な顔で蜂蜜を舐めている小さな男の子。たぶん今と同じように目を閉じて、黙って味わっていたのだろう。
ハインツさんが巣枠を戻す。蓋を閉じて、煙燻器の火を消す。
「もう一つ教えてやるか」
「はい。お願いします」
「蜂は嘘をつかん」
「……はい?」
「人間は口で美味いと言って腹の中では違うことを考える。蜂はそうじゃない。いい巣箱なら残る。悪い巣箱なら逃げる。蜂に好かれているということは、おまえの巣箱がいい巣箱だということだ」
それは。
褒められている、のだろうか。
「勘違いするな。おまえを褒めとるんじゃない。おまえの蜂を褒めとる」
蜂を褒めることは、蜂を育てた人を褒めることと同じだと思うのだけれど。言わない。この人に言ったら「屁理屈を言うな」と怒られる。
「来週も来い。巣枠の組み方を教えてやる」
「はい。ありがとうございます」
帰り道、養蜂場の柵をまたぐとき、ニクラスとすれ違った。
「ハインツさんに煙燻器を教わりました」
「……そうか」
「来週は巣枠の組み方だそうです」
ニクラスが一瞬、足を止める。
「爺さんが他人に教えるのは、珍しい」
それだけ言って、養蜂場の奥へ消えていく。足音が遠ざかって、蜂の羽音に紛れて消える。
珍しい。その一言が、ハインツさんの「まあ、悪くはない」と同じくらいの重さを持っている気がする。
ハインツさんは気難しくて口が悪い。ニクラスは無口で素っ気ない。この祖父と孫は不器用が遺伝しているのだと思う。でも二人とも、蜂の話をするときだけ饒舌になる。血は争えない。
――私はたぶん、この師弟関係を大事にしたい。




