第11話「まあ、悪くはない」
ハインツさんに呼び出された。
朝一番、養蜂場の柵の向こうからしわがれた声が飛んできて、私は寝起きのままエプロンを引っかけて走った。
「おい、嬢ちゃん。おまえの巣箱を見せろ」
「え、今からですか」
「今からだ。さっさとしろ」
ハインツさんは腕を組んで柵に寄りかかっている。白髪まじりの髭がもごもごと動いていて、不機嫌なのか普通なのか判断がつかない。この人はいつだって不機嫌に見える。笑顔を見たことがない。ニクラスの無表情は静かだけれど、ハインツさんの無表情は圧が強い。
髪も整えていないのに来てしまった。寝癖がひどいことに気づいたけれど、もう遅い。
巣箱まで案内すると、ハインツさんは黙って蓋を開けた。素手で。七十歳の養蜂家は防護服なんて着ない。
蜂がわっと舞い上がる。でもハインツさんの手を刺す蜂はいない。動作が正確で、巣枠を引き出す角度にも迷いがなくて、蜂が怒る隙を与えていなかった。
私も素手で扱えるけれど、それは蜂に好かれる体質のおかげ。ハインツさんは体質ではなく技術で蜂を従えている。五十年の経験が手の動きに染みついているのだ。
「……ふん」
巣枠を光に透かしている。蜜蓋の状態、蜂の密度、女王蜂の産卵パターン。全部見ている。
長い沈黙のあと、巣枠を戻して蓋を閉めた。
「まあ、悪くはない」
心臓が跳ねた。
ハインツさんが褒めた。いや、褒めたのかこれは。「悪くはない」は褒め言葉なのか。この人の辞書で「悪くはない」は最上級の賛辞なのか、それとも本当に「まあまあ」という意味なのか。判断がつかない。
でも「ひどい」とか「話にならん」ではなかった。それだけで手のひらが汗ばむ。
「巣箱の向きが東に三度ずれとる。朝日の入り方が変わる。直せ」
「は、はい」
「蜜蓋の厚さが均一すぎる。採蜜のタイミングをもう二日遅らせろ。蜂に任せる時間が足りん」
「二日、ですか」
「おまえは手を出しすぎだ。蜂は勝手にやる生き物だ。おまえが管理しなくても蜜は溜まる」
矢継ぎ早に指摘が飛んでくる。巣箱の角度、採蜜の周期、給餌の量。一つ一つが具体的で、前世の知識では足りなかった部分を正確に突いてくる。
前世の私は養蜂家の娘だったけれど、ハインツさんほどの名人に教わったことはない。父は独学で、本と試行錯誤で養蜂を覚えた人だった。
「メモ、取ってもいいですか」
「勝手にしろ」
ポケットから紙片を出して、走り書きする。インクが指につく。ハインツさんは待たない。書き終わる前にもう歩いている。この人に「もう少しゆっくり」は通用しない。養蜂家は七十歳でもこんなに速いのか。
次の巣箱へ移動して、また蓋を開けている。
三番目の巣箱で、ハインツさんの手が止まった。
「この群は強い」
「はい。一番元気な群です」
「女王が若いな。今年生まれか」
「春に分蜂して、新しい女王が立ちました」
ハインツさんが振り返る。目が鋭い。
「分蜂を自分でやったのか」
「はい。巣箱が手狭になっていたので」
分蜂管理は養蜂の中でもかなり難しい技術だ。群れが二つに分かれるタイミングを見極めて、新しい女王蜂を確保して、別の巣箱に誘導する。失敗すれば蜂が逃げる。
ハインツさんは長い間、私を見ていた。
「……何者だ、おまえ」
「追放された悪役令嬢です」
つい正直に答えてしまった。ハインツさんの眉間の皺がさらに深くなる。
「そんなことは聞いとらん。その腕は誰に教わった」
父に、と言いたかった。前世の、養蜂が好きで好きでたまらなかった父に。でもこの世界では説明できない。
「……独学です。本を読んで」
「嘘をつけ。本だけでこの分蜂管理はできん」
ぐうの音も出ない。
ハインツさんは鼻を鳴らして、それ以上追及しなかった。
「明後日、うちに来い」
「え?」
「煙燻器の使い方を教えてやる。おまえは素手でやりすぎだ。蜂に好かれているからといって甘えるな」
「あ……ありがとうございます」
「礼はいらん。下手な養蜂家が隣にいると俺の蜂に悪影響が出る。自分のためだ」
全然素直じゃない。このお爺さんは「人のために何かをした」と認めたら負けだとでも思っているのだろうか。でもハインツさんの背中が柵を越えて帰っていくのを見送りながら、目頭が熱くなった。
こっそりと紙片の端に「師匠」と書く。口に出したら怒られそうだから、紙の上だけの秘密にしておく。
認められた。この人に「悪くはない」と言われた。
紙片を見返す。走り書きがにじんでいる。巣箱の角度、採蜜の周期、給餌の量。全部、私の蜂蜜をもっと良くするための言葉。
隣から聞こえてくるハインツさんの作業音。巣箱を叩く乾いた音と、低い鼻歌。
不機嫌な人の鼻歌は、不思議と耳に心地いい。
――明後日が待ち遠しい。こんな気持ちになるのは、この村に来て初めてかもしれない。




