第10話「表情が変わる瞬間」
ニクラスは蜂蜜を舐めるとき、目を閉じる。
これに気づいたのは、蜂蜜の味比べを始めて三日目のことだった。
「……菩提樹」
短く答えて、木のスプーンを置く。正解。今日で七連続正解。もはや外す気配がない。
「すごい。本当に全部当てるんですね」
「別に。花が違えば味も違う」
「別に」じゃない。全然「別に」じゃない。私がやったらぜんぶ「甘い」で終わる。たまに「すごく甘い」が加わるくらいで、語彙が三歳児と大差ない。
それはそうなのだけれど、私には違いがわからない蜂蜜もある。たとえば今朝ハインツさんに出された二種類、どちらもアカシアだと思ったのに片方はクローバーだった。間違えた私にハインツさんが「おまえの舌は飾りか」と言ったのが地味に効いている。飾りじゃないです。パンに蜂蜜を塗りすぎて味覚が麻痺しているだけです。
ニクラスは違う。舌の上で転がすように味わって、迷いなく花の名前を言い当てる。
「次」
催促された。蜂蜜の話になると、この人は饒舌とまでは言わないけれど、少しだけ言葉が多くなる。普段の返事が「ああ」「いい」「違う」の三語しかないことを考えれば、「次」は立派な会話の努力だ。
私は棚から三つ目の瓶を取り出した。これは先週、養蜂場の南側で採れたもの。自分でもお気に入りの一瓶で、朝のパンに塗る用に確保していたのだけれど、実験のためなら仕方がない。心の中で「ごめんね、パンに塗るのは別の瓶にするから」と蜂蜜に謝る。蜂蜜に話しかけるのは養蜂家あるあるだと信じたい。
スプーンに少量すくって差し出す。ニクラスの指が触れて、かすかに蜂蜜が垂れた。
「あ、ごめんなさい」
「いい」
ニクラスはスプーンを口に運ぶ。目を閉じる。いつもの儀式のように、三秒ほど黙って。
それから、目を開けた。
「……これ、おまえの蜂か」
「え?」
「俺のところの蜂蜜と違う。花は同じ野草の混合なのに、雑味が少ない」
その言葉に驚いた。花の種類だけじゃなく、誰の蜂が集めたものかまで味でわかるの。舌に味覚の地図が広がっているような人だ。私の舌はせいぜい「甘い」「もっと甘い」「甘すぎて幸せ」の三段階しかないのに。
「蜂との関係が出る」
「関係、ですか」
「蜂が落ち着いて集蜜すると、余計なものが混じらない。おまえのところの蜂は、落ち着いている」
私の蜂は落ち着いている。それは褒め言葉だと思っていいのだろうか。
ニクラスは空になったスプーンをじっと見ている。蜂蜜の残った光沢が、午後の日差しを反射してテーブルに小さな金色の影を落としていた。
「もう一口、いいか」
驚いた。ニクラスがおかわりを求めるなんて初めてのことだ。
「もちろん。好きなだけどうぞ」
瓶ごと渡す。ニクラスは自分でスプーンにすくって、また目を閉じた。今度は五秒。長い。
目を開けたとき。
ああ、と思った。
この人の表情が変わる瞬間を、私は初めて見た。
口元がわずかに緩んで、眉間の力が抜けて、目尻にほんの少しだけ柔らかい線が生まれる。笑顔とは違う。でも無表情でもない。蜂を見るときに似ているけれど、もう少し温かい。
「美味い」
たった三文字。でもニクラスの声は低くて穏やかで、窓の外で羽音を立てている蜂たちの声と溶け合うように響いた。
「……ありがとうございます」
なぜか声が震えた。
追放されてから、誰かに蜂蜜を褒められるのはマーヤに続いて二人目。でもマーヤの「美味しいー!」とは違う種類の嬉しさが胸の奥にじわりと広がっている。
蜂蜜の専門家に認められた。この味を、この人が「美味い」と言った。前世の父が聞いたら泣いて喜ぶだろう。父は自分の蜂蜜を褒められると三日間機嫌が良かった。私もたぶん、三日間はこの「美味い」で生きていける。
ニクラスはもう元の無表情に戻っている。さっきの柔らかい表情は蜂蜜と一緒に飲み込んでしまったみたいに、跡形もない。戻るの早すぎない? もう少し余韻というものを。
「明日も来る」
「え、味比べですか?」
「……ああ」
そう言って立ち上がり、帽子を被って出て行った。素っ気ないにもほどがある。お茶の一杯くらい飲んでいけばいいのに。
でも「明日も来る」は、ニクラスにとってはきっと、長い台詞のほうなのだろう。五文字もある。普段の三倍。大盤振る舞いだ。
瓶に蓋をしながら、さっきの表情を思い出す。
蜂蜜で人の顔があんなふうに変わるなんて、知らなかった。前世でも知らなかった。
テーブルに残った蜂蜜の雫を指ですくって舐める。甘い。野草の混合、雑味が少ない、私の蜂蜜。
明日はどの瓶を出そう。
そんなことを考えている自分に気づいて、少しだけ頬が熱くなった。蜂蜜のせいだと思っておく。
――明日、ニクラスの表情がまた変わるような蜂蜜を、出せるだろうか。




