第30話:「戻ってきてください」――その一言を、俺は聞かなかったことにした。
その日の夜更け。行列もなくなった頃。
常連客と入れ替わりに、男が入ってきた。
「……お久しぶりです。総料理長」
そいつは、俺をあのホテルから放逐した連中の一人、元・副料理長。今のあのホテルの総料理長だった。
「今の俺は、総料理長じゃないよ。お客さん、何にしますか」
俺は、冷静を装って問いかけた。そう、今日のこいつは、ただの一見の客。追い払う理由はなかった。
「おまかせで」
「お酒はどうします?日本酒?ビール?」
「……おつまみに合うお酒を……」
「はい。おまかせね。少々お待ちください」
そうして、俺は、元・副料理長に、日本酒の冷やと、煮込みを出したのだった。
そいつは、俺が差し出した簡単な『煮込み』を一口食べ、震えていた。
「……どうして、安物のモツで、これほどの深みが出るんですか。AIが算出した最高効率の配合よりも、ずっと……」
奴の目は、もはや料理人のそれではなく、敗北者のものだった。
俺は次の料理の仕込みの手を止めずに答えた。
「お前たちが『古臭い』『非効率だ』と言って捨てた手間暇だよ。それは、数字には表れない。教えなかったか?」
「……総料理長、ホテルに、あの厨房に、戻ってきてくれませんか」
元・副料理長が、俺に懇願した。
「お前には、あの当時の俺の全てを教えた。今更、戻って教えることなんて、何もない。戻る理由もない」
沈黙が流れた。
「社長はなんて言ってるんだ?」
俺は、元・副料理長に聞いた。
「数値が上がらないのはお前の無能のせいだ、と毎日、罵倒されています……」
まぁ、あいつなら、そう言うだろう。俺は、妙に納得していた。あの弟らしい言葉であった。
肴を食べ終わった元・副料理長は、なかなか帰ろうとしなかった。
俺は、元・副料理長に言い放った。
「そんなとこに居座られちゃ、お客さんの邪魔なんだが。これ以上、用がないなら、帰ってくれ」
元・副料理長は、涙目になっていた。
しかし、俺にとっては、どうでもいいことだった。
「……総料理長、私は間違っていました。どうか、もう一度だけ指導を……」
「それは、俺の知った事じゃない」
奴が選んだ道。自分でその道を選んだのなら、自分で決着をつけろ。俺は、お前の尻拭いのためにいるんじゃない。
俺のその言葉の圧に気圧されたのか、元・副料理長は、代金を払うと、黙って店を去っていった。
その日の客は、それが最後だった。俺は、屋台を静かに畳むのだった。
次回予告:
ホテルの総支配人が現れた。破格の雇用条件に、俺は驚いた。




