第29話:元同僚が、黙って訪れた夜。
「今日も美味しかったよ」常連客が、暖簾をあげて帰っていった。
「また、ご贔屓に」俺は頭を下げる。
いつもの光景だった。今日の夜は静かだった。
今日はそろそろ終いの時間かな、と思った時、一人の客が、ふらりと訪れた。
「……熱燗、もらえるかい……」
「はいよ。熱燗ですね。少々お待ちを。肴は何にします?」
「適当に見繕ってくれ……こんな時間だ。作れないものもあるだろう……」
「わかりました。お待ちください」
熱燗の準備をする。一見だが、その客の声に、俺は聞き覚えがあった。
肴を作りつつ、横目で客を見る。
憔悴しきって顔を伏せているが、その姿を見て、俺は思い出した。
総料理長時代、あのホテルで一緒に働いていた料理人だった。いわゆる、元同僚であった。
しかし、疲れ切っているからか、元同僚は、俺が誰であるか、気づいていないようだった。
熱燗と肴を、元同僚に差し出した。
「お待たせしました。熱燗と、お造りね」
「……ありがとさんよ……」
元同僚は、そういうと、お猪口に熱燗を注ぎ、一気にあおった。
俺が誰であるか気付かぬままに、元同僚は、お造りに箸を伸ばす。
一口食べては、熱燗を流し込んでいた。
酔いが回ってきたのか、元同僚は、独り言のように愚痴を漏らし始めた。
「AIのレシピの通りに作っても、客が『味が薄い』と怒鳴るんだ……」
「食材がどんどん安物に変わっていく。それを『効率だ』と言い放つ社長……あの人は料理のことを何もわかっちゃいない……」
「前の総料理長がいた頃は、あんなに厨房が輝いていたのに……俺たちの料理は輝いていたのに……それなのに、俺たちは、あの人を裏切ったんだ……」
俺は、黙って、元同僚の愚痴を聞いていた。
「……これ、サービスしときますよ」
俺は、ある一品を、元同僚に差し出した。
元同僚は、黙ってそれを口に運んだ。
次の瞬間、元同僚の目が見開かれた。
「……これは……このだし巻き卵の、この味は……どういうことだ……」
元同僚が顔を上げ、俺の顔を見た。元同僚の顔は驚愕の表情だった。
「……総料理長……総料理長が、なんでここに……」
「今の俺は、この屋台の料理人さ。総料理長なんて呼び方はやめてくれ」俺は言葉を継いだ。
「……今日の愚痴は、聞かなかったことにしとくよ」
俺は、元同僚に言った。
「明日から、また、ホテルの客に対して、真摯に向き合ってくれ。俺から言えるのは、それだけだ」
「……戻ってきてはくれないんですか、総料理長……皆、あの時の判断を後悔しています……」
元同僚の言葉を、俺は即座に否定した。
「俺は、もう、この屋台の一料理人だ。あそこに戻る気は毛頭ない」
元同僚は、俺のその言葉に、うなだれるのだった。
帰路に着く、元同僚の背中からは、寂しさのみが感じられた。あの頃の覇気はまるでなかった。
次回予告:
元・副料理長の懇願。それに対して、俺が出した答えとは――




