3章 5話 本物
「鬼が……いる」
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
千景が在校生の顔を見つめる。
「鬼役のことですか?」
在校生は苦しそうに首を振った。
「違う……本物だ」
「本物って……そんなわけないでしょ」
宗介の顔から血の気が引いていく。
ここは入校試験のために用意された演習地だ。
本物の鬼が出るような場所へ、受験生を送り込むはずがない。
けれど、目の前の傷を見れば、簡単には否定できなかった。
大きく裂けた制服の下から、今も血が流れ続けている。
千景が我に返ったように荷物を下ろした。
「布を貸して。まず傷の手当てをするわ」
宗介が慌てて鞄を探り始める。
僕は周囲を見回した。
本当に鬼がいるなら、いつ戻ってきてもおかしくない。
「ここから離れた方が――」
枝を踏み折る音がした。
在校生の目が大きく見開かれる。
「来る……」
千景が立ち上がり、刀を抜いた。
「宗介はこの人のそばにいて。小夜は後ろから援護して」
いつものように指示を出している。
けれど、刀を握る手には力が入りすぎていた。
僕も腰の刀へ手をかける。
落ち葉を踏む音が近づいてくる。
木々の間に黒い影が現れた。
最初に見えたのは、額から伸びた一本の角だった。
太い腕の先には長い爪が伸び、その表面には赤黒い血がこびりついている。
――鬼だ。
宗介の槍先がガタガタと震え始めた。
小夜も矢をつがえているが、弓を引くところまではいかない。
額から流れた汗が、頬をゆっくり伝っていく。
千景は刀を構えた。
「だ、大丈夫。訓練通りにやればいいわ」
声は震えていた。
それでも一歩前へ出る。
「私と桃矢が前。小夜は隙を見て射って。宗介は負傷者を守りなさい」
言葉だけなら、いつもの千景だった。
けれど肩は固く、切っ先もわずかに揺れている。
鬼が僕たちを見回した。
次の瞬間、地面を蹴る。
千景の身体がびくりと強張った。
一気に距離が縮まる。
「っ!」
刀を振ろうとする。
けれど、踏み込むはずの足が動かなかった。
鬼の爪が千景へ迫る。
僕は横から飛び込み、刀を差し込んだ。
刃を傾けて爪を外へ流し、そのまま千景との間へ身体を入れる。
「下がって!」
千景が数歩後ろへ離れた。
鬼は止まらない。
反対の腕が横から飛んでくる。
身体を沈めると、爪が頭のすぐ上を通過した。
立ち上がりざまに刀を返す。
刃が脇腹を浅く裂き、鬼の低い唸り声が響いた。
赤い目が僕を睨む。
それでも、身体は固まらなかった。
迫ってくる爪をかわしながら後ろを見る。
「小夜、今なら狙える!」
弓が軋む。
けれど、矢は飛んでこない。
小夜は鬼へ狙いを定めたまま固まっていた。
「小夜!」
その声に押されるように、ようやく指が離れた。
矢は鬼から大きく外れ、木の幹へ突き刺さる。
さっきまでの鬼役が相手なら、外すような距離じゃない。
宗介は負傷者の前で槍を構えていた。
震えは止まらず、鬼が少し近づくだけで足が後ろへ下がる。
千景も刀を握り直した。
「わ、私も……」
前へ出ようとする。
その瞬間、鬼が千景へ顔を向けた。
それだけで、足が止まった。
さっきまで在校生を一人で倒していた千景とは思えない。
三人とも訓練なら戦える。
でも、本当に命を奪いにくる相手を前にしたのは初めてなんだ。
鬼の爪が横薙ぎに振られる。
僕は後ろへ逃げず、懐へ入った。
刀を振り上げると、鬼が腕で受ける。
刃が肉へ食い込み、怒声が森に響いた。
暴れるように振られた腕を避けながら、三人との距離を取る。
このままじゃ、三人まで気にしながら戦うことになる。
「もういい! 三人とも、その人のそばにいろ!」
千景がこちらを見る。
「でも、一人じゃ――」
「邪魔になるだけだ!」
鬼が間へ割り込むように踏み込んできた。
それ以上、話している余裕はなかった。
三人が負傷者のそばへ下がったのを確認し、僕は鬼だけを見る。
低く腰を落とした。
次に何をするのか分かる。
人間とは違う身体の使い方。
里では嫌になるほど見てきた。
鬼が飛びかかってくる。
速い。
でも、紅羽さんよりは遅い。
毎日の稽古に比べれば、目の前の動きには余裕があった。
鬼が大きく口を開く。
噛みつくつもりだ。
ぎりぎりまで引きつけてから、身体を横へずらす。
牙が肩のすぐそばを通り過ぎた。
振り返られる前に踏み込み、刀を振り抜く。
刃が背中から肩へ深く入った。
血が散る。
鬼の身体が大きく傾いた。
二歩、三歩とよろめき、そのまま地面へ倒れる。
刀を構えたまま様子を見た。
もう動かない。
振り返る。
三人とも、その場に立ち尽くしていた。
宗介は槍を抱えたまま目を見開いている。さっきまで震えていた穂先も、今はぴたりと止まっていた。
小夜も弓を下ろしたまま、僕から目を離さない。
千景は何か言おうとして口を開いた。
けれど、声にはならなかった。
倒れた鬼と僕を、ただ交互に見ている。
その反応の意味が分からず、僕は刀についた血を振り払った。
※
僕たちは少し離れた岩場で野営することにした。
負傷した在校生は、意識を失う前に他にも鬼を見たと言っていた。緊急用の信号も上げたけれど、教官は現れない。
怪我人を連れて暗い山道を進むのは危険なため、今夜はここで過ごすことになった。
背後を大きな岩壁に守られた場所で、小さな火を囲む。
それでも、昼間までの空気には戻らなかった。
宗介は槍を抱えたまま黙り込み、小夜は在校生の傷を見ている。
千景は地図を広げていたけれど、さっきから同じ場所ばかり眺めていた。
見張りは二人ずつ交代することになり、最初は僕と小夜になった。
火から少し離れた岩に腰を下ろす。
小夜は弓を膝に置き、暗い森を見ていた。
しばらくして、ぽつりと口を開く。
「なんで、あんなに冷静でいられたの?」
「鬼が出たとき?」
「私たちはほとんど動けなかったのに、桃矢だけ違った」
「慣れてるからかな」
「鬼に?」
「うん」
小夜がこちらを見る。
理由まで聞かれたら困ると思ったけれど、それ以上は追及してこなかった。
少し間を置いて、別のことを聞く。
「怖くないの?」
僕は森の奥へ目を向けた。
「怖いよ。でも、それ以上に憎い」
小夜は黙って続きを待っている。
「僕は鬼が嫌いなんだ」
姉さんが死んだあの日を思い出す。
あれから、この気持ちだけは変わっていない。
「鬼を殺すために、鬼狩りになりたい」
少しして、小夜が言った。
「そっか」
それだけだった。
理由を聞こうとも、何かを言い聞かせようともしない。
僕には、その方がありがたかった。
再び二人で森を見る。
しばらくして、野営地へ目を向けた。
宗介は横になっていたけれど、千景は火から少し離れたところに一人で座っている。
「千景、寝ないのかな」
「たぶん寝られない」
「今日のこと?」
「うん」
少し迷ってから聞いた。
「僕が邪魔って言ったから?」
小夜は首を横に振る。
「違うと思う。怒ってるなら、自分に」
「自分に?」
「千景は、できない自分が嫌いだから」
小夜はそれ以上話さず、暗い森へ視線を戻した。
僕も千景を見る。
昼間まで誰より先を歩いていた班長は、今は僕たちに背を向けたまま、一人で火を見つめていた。




