第9話:筋肉痛にポーションは不要! 大型犬騎士バルツへの処方箋
主寝室での大騒動が一段落し、ジルヴェスタ様が二度目の消化薬入り重湯を大人しく平らげて、心地よさそうに再び微睡みへと落ちていった頃。
私はといえば、ベッドサイドの丸椅子から立ち上がり、手首をポキリと鳴らしていた。
「エレナ師匠! いえ、エレナ大御尊師! お召し物の上着をお持ちいたしましたぞ! それから、この重たい調剤トランクは不肖の弟子であるこのオットーめが全身全霊をもってお運びいたしますので!」
「オットー先生、お願いですから普通に『エレナさん』と呼んでください……。あと、腰を痛めますからトランクは自分で持ちます」
「滅相もない! 師の荷を持たずして何が弟子でありましょうか! ぬぐぐ……お、重い……しかしこの重みこそが知の重み、真理の結晶……!」
白髪を振り乱した老侍医が、私のトランクを両腕で抱え込み、プルプルと生まれたての子鹿のように膝を震わせている。
あの傲慢で頑固一徹だった老侍医の変わり身の早さには頭痛が痛くなりそうだったが、邪険にして再び土下座されても困る。私はやむを得ず、軽い薬草ポーチと水筒だけを肩にかけ、深くため息をついた。
「エレナ殿、本当に今から向かわれるのですか?」
主寝室の外の廊下で待機していたカイエン副団長が、銀縁の眼鏡を押し上げながら心配そうに声をかけてくる。その手には、先ほどまで彼を苛んでいた胸焼けを抑えるための、薄荷と甘草の白湯が入った水筒がしっかりと握られていた。すっかり私の処方箋を忠実に守ってくれているようだ。
「閣下の容態が落ち着いたとはいえ、あなたご自身も三日三晩不眠不休だったはずです。一度客室で泥のように眠られた方が……」
「お気遣いありがとうございます、カイエン副団長。でも、アドレナリンが出ている今のうちに片付けてしまいたい案件があるのです。先ほど窓から見下ろした鍛錬場の様子……あれは放置できません。筋肉の損傷を『気合い』と『ポーションの乱用』で誤魔化し続ければ、いずれ肉離れどころか腱の断裂、果ては横紋筋融解症で部隊が丸ごと壊滅します」
「う……そ、それは騎士団長代理たる私としても背筋が凍る話ですが……」
「医療において、一番コストがかかるのは『手遅れになってからの集中治療』です。軽症の段階で適切な初期介入を行い、慢性化を防ぐ。いわゆるプライマリ・ケアこそが、組織の健康寿命を延ばす最短ルートなんですよ」
私が早口で言い切ると、カイエンは気圧されたように目を瞬かせ、やがて深々と頭を下げた。
「……承知いたしました。第一部隊の者たちには、すでに私から通達を出してあります。しかし……連中は閣下直属の切り込み隊長を筆頭に、頭まで筋肉でできているような荒くれ者ばかりです。王都の調合師と聞けば、反発するかもしれませんが……」
「問題ありません。言うことを聞かない患者の扱いには、前世……コホン、昔から慣れていますから」
私は白衣代わりに羽織った作業用の上着の袖をぐいっと肘までまくり上げ、極寒の屋外へと続く階段を一歩一歩踏みしめて降りていった。
◇
城の中庭に広がる第一鍛錬場。
雪が止んだばかりの灰色の空の下、そこは男たちの熱気と荒い呼気、そして鉄と木が激突する鈍い音に包まれていた。
周囲の石壁には除雪された雪がうず高く積まれているが、広場の地面は激しく踏み荒らされ、凍てついた泥が飛び散っている。上半身裸、あるいは薄手の革ベスト一枚という、見ているこちらが鳥肌の立ちそうな格好の大男たちが、湯気を立ち上らせながら木剣を振るい合っていた。
だが――その勇猛な光景の裏側を、私の薬剤師としての視針は冷徹に見抜いていた。
(右肩の可動域が狭い……。あっちの槍兵は踏み込みの瞬間に左膝を庇っているわね。そっちの大剣使いは腰方形筋がガチガチに攣縮して、骨盤が歪んでいる……)
誰も彼もが、痛みを隠すように奥歯を噛み締め、ぎこちないフォームで身体を苛め抜いていた。
そして、その鍛錬場の中央で、ひときわ異様な存在感を放ちながら暴れ回っていたのが――。
「オラァッ! 腰が入ってねえぞ新兵ども! 寒さなんざ気合いでねじ伏せろ! 魔獣が来たら凍えて死にましたじゃ済まされねえんだよッ!!」
ドゴォォン! と大気を揺らすような轟音とともに、巨大な木製の練習用大剣が、丸太で作られた訓練用ダミーを一撃で両断した。
木片が粉々に飛び散る中、仁王立ちになって吠えたのは、金髪の短髪を逆立てた一人の偉丈夫だった。
第一部隊長、バルツ・ケルド。二十二歳。
熊のように分厚い胸板と、丸太のように太い腕。全身に無数の古傷を刻み込んだその肉体は、まさに戦場を駆ける野生の猛獣そのものだった。
だが、ダミーを叩き割った直後――バルツの動きが、ピキリと不自然に凍りついた。
「ぐっ……、が……ッ!?」
大剣を取り落としそうになりながら、バルツは背中を丸め、脂汗の浮かぶ額を右手で押さえた。
左手が、無意識のうちに自らの右肩から背部――僧帽筋と肩甲挙筋のあたりを、爪が食い込むほどの力で鷲掴みにしている。
「くそっ……! 昨日の迎撃戦の打ち身が……背中全体が鉛みてえに重え……! 関節の節々が軋みやがる……!」
「た、隊長、大丈夫ですか!? 無理なさらないでください!」
駆け寄ってきた部下の若い騎士に、バルツは血走った目を剥いて怒鳴り散らした。
「うるせえ! 痛えなら痛えで、やることは一つしかねえだろうが! おい、俺の腰袋から『あれ』を出せ!」
「えっ……ま、また飲むんですか!? 隊長、今週だけでもう五本目ですよ!? 胃が痛いって朝飯も吐いてたじゃありませんか!」
「四の五の言うな! 騎士が痛みに日和ってどうすんだ! ポーションを一気飲みして、体内に魔力をぶち込めば、筋肉痛なんざ一発で吹き飛ぶんだよッ! 気合いだ気合い!!」
バルツは制止する部下の手を振り払い、腰の革ホルダーから乱暴に一本の硝子瓶を引き抜いた。
青白い光を激しく明滅させる、高濃度の鎮痛・修復ポーション。
瓶の蓋を歯で噛みちぎり、一気にその猛毒を喉へと煽り込もうと――バルツが顎を跳ね上げた、まさにその刹那だった。
「――ストップッッッ!!!!」
鍛錬場の冷たい空気を切り裂く、鋭い金切り声。
バシィィィッ! と小気味のいい破裂音が響き渡った。
「ぶふぇっ!?」
バルツの唇に触れる寸前だった硝子瓶が、真横から飛んできた木製の調剤ヘラによって的確に弾き飛ばされた。
くるくると宙を舞ったポーション瓶を、私は落下地点に滑り込ませたトランクの蓋の上で、スポンジを敷いた布ごとお手玉のように受け止め、そのまま白衣のポケットへと回収する。
「な、何だぁぁッ!? 誰だテメエ、俺のポーションに何しやがるッ!!」
獲物を横取りされた肉食獣のように、バルツが全身の筋肉を怒張させて振り返った。
身長百九十センチを超える筋骨隆々の巨漢が、凶悪な形相で眼下を睨みつける。
そこに立っていたのは、腕まくりをしたエプロン姿の私――身長百六十センチに満たない、華奢な男爵令嬢だった。
「筋肉の微小断裂と筋膜炎に、そんな高濃度ポーションを流し込むのは、火事にガソリンを注ぐようなものです! この大馬鹿者!!」
「は……あぁん!?」
鍛錬場が一瞬にして静まり返った。
新兵たちが息を呑み、槍を持ったベテラン騎士たちが青ざめる。
あの短気で喧嘩っ早い第一部隊長に向かって、正面から「大馬鹿者」と言い放った人間など、辺境伯ジルヴェスタ閣下以外にこの城には存在しなかったからだ。
「誰だこのちんちくりんの小娘は……! 王都から来た調合師だと? あぁ!? 俺の邪魔すんなら、女だろうが容赦なく吹っ飛ばすぞゴラァッ!」
バルツが威嚇するように一歩踏み込み、鍛え上げられた分厚い胸板で私を押し潰さんばかりに見下ろしてくる。獣のような濃密な威圧感。並の令嬢なら腰を抜かして失禁しているところだろう。
だが、私にとっては――。
(はいはい、総合病院の救急外来に夜間泥酔して担ぎ込まれて、看護師に悪態をつくタイプの典型的なタチの悪い患者ね)
恐怖など微塵も湧かなかった。あるのは、呆れ果てた医療従事者としての義務感だけだ。
「威嚇している暇があるなら、自分の身体の悲鳴を聞きなさい。あなたのその痛み、筋肉痛だけではありませんね? 鎧の擦れによる接触性皮膚炎、打撲による皮下出血、そして何より――度重なる高濃度ポーションの濫用による、胃粘膜のびらんと消化不良。朝食を吐いたのでしょう? 舌苔が真っ白で、口臭にアセトン臭が混ざっていますよ」
「な……っ!? な、何でそれを……!?」
バルツの凶悪な表情が、一瞬で狼狽へと崩れた。
図星を突かれて後退りしようとする巨漢。だが、私は逃がさなかった。
「ちょっと背中を失礼しますね」
「あ? おい、触るな――」
私はバルツの巨体の横へと電光石火のスピードで回り込み、彼が先ほど無意識に押さえていた右の背部――肩甲骨の内側縁、菱形筋と起立筋が交差する「トリガーポイント(筋膜性疼痛の最大圧痛点)」へと、人差し指と中指の二本を揃え、体重を乗せてグッと真円を描くように垂直に押し込んだ。
経穴で言うところの「膏肓」および「天宗」の直撃。
「ぎゃああああああああっっっっっっっっっっ!?!?!?」
鍛錬場の屋根を吹き飛ばすような、凄まじい絶叫が木霊した。
あの熊のような大男が、白目を剥いてその場に両膝をつき、泥の上に突っ伏してガタガタと痙攣し始めたのだ。
周囲の騎士たちが「た、隊長ォォッ!?」「暗殺術か!? 指一本で隊長を仕留めただと!?」と腰の剣に手を伸ばしかける。
「誰も仕留めていません! ただの触診です!」
私は叫び、膝をついたバルツの分厚い背中を指先でトントンと叩いた。
「はい、典型的な重度の筋筋膜性疼痛症候群(MPS)ですね。過度の負荷による筋線維の微小損傷、微小循環不全による虚血、そして発痛物質であるプロスタグランジンやブラジキニンの局所蓄積! 筋肉が酸欠を起こして悲鳴を上げているのよ!」
「つ……痛え……! 死ぬ……! 背中を槍で抉られたかと思ったぞチクショウ……!」
バルツは泥まみれになりながら、涙目で私を睨み上げてきた。
その姿は、先ほどの獰猛な猛獣から一転、大型犬が尻尾を踏まれてキャンキャン鳴いているのと完全に一致していた。
「バルツ隊長、よく聞きなさい」
私は腰に手を当て、地面に蹲る巨漢を見下ろした。
「あなたがやろうとしていたのは、筋肉痛を治すことではありません。全身性の劇薬ポーションを胃に流し込み、全身の神経を無理やり麻痺させて、痛みのシグナルを脳から遮断しようとしていただけです。そんなことを繰り返せば、胃壁はただれ、肝臓は壊死し、肝心の筋肉線維は硬化して柔軟性を失い、最後には腱が骨からベリッと剥がれ落ちますよ」
「け、腱が剥がれる……!?」
バルツの顔から血の気が引いていく。脳筋とはいえ、戦士にとって「二度と剣が握れなくなる」という宣告は、死よりも恐ろしい脅威だった。
「治すべき患部はどこですか? あなたの胃ですか? 違いますよね。痛んでいるのは、その凝り固まった背中と腰の筋肉そのものです! ならば、薬は患部に直接届けるべきでしょう!」
「患部に……直接……? どうやってだよ、背中にポーションをぶっかけるのか!?」
「いいえ。液体をただかけただけでは、皮膚の角質層という鉄壁のバリアに弾かれて蒸発するだけです。……そこで登場するのが、これです」
私は足元のトランクをパチンと開けた。
オットーが「ほ、本日の師匠の奇跡の調剤ですぞ!」と鼻息荒く見守る中、私が取り出したのは――平たい木箱だった。
蓋を開けると、中には手のひらサイズの長方形の布が、規則正しく重ねられて収められていた。
その瞬間、周囲の空気が一変した。
ツンと鼻を抜けるような、どこまでも清涼で、澄み切ったハーブの香り。
メントール――ハッカに似た北方特産の芳香生薬と、消炎鎮痛作用を持つサリチル酸誘導体に酷似したヤナギ科の樹皮エキスを、純度の高い植物油と蜜蝋、そして微量の精製水とともに黄金比で練り合わせ、通気性の良いリネン布に均一に塗り広げた、私の特製生薬製剤。
「これは……布、なのか……? 妙な匂いがするが……」
バルツが怪訝そうに鼻をひくつかせる。
「現代薬学における至高の技術の一つ――DDS、すなわち『局所標的化経皮吸収パッチ』。……分かりやすく言えば、『冷感消炎湿布』です!」
「れ、れいかん……しっぷ……?」
「ええ。内服薬のように胃や肝臓を通すことなく、皮膚から直接、毛細血管と筋膜へ消炎鎮痛成分をじわじわと長時間にわたって浸透させます。患部の熱を奪い、炎症物質の産生をピンポイントでブロックするのです。内臓への副作用はゼロ、効果は患部だけにダイレクト!」
私は木箱から、湿布を一枚引き抜いた。
裏面に貼られた保護用のパラフィン紙を、指先でシャッとしなやかに剥がし取る。
布の表面には、プルプルとした瑞々しい生薬ペーストが、冷たい光をかすかに反射していた。
「さあ、バルツ隊長。大人しくその革ベストを脱いで、背中を出しなさい」
「は、はぁぁ!? 脱げって……こんな大勢の前で、女の前で脱げるかよ!」
「患者が性別を気にしている場合ですか! 処置の邪魔です、さっさと脱ぎなさい! 脱がないならハサミで切り裂きますよ!」
「ヒィッ!? わ、分かった、脱ぐ! 脱ぐからハサミを構えるな!」
私の有無を言わさぬ迫力に完全に屈服したバルツは、慌てて革ベストを脱ぎ捨て、分厚い筋肉に覆われた背中を露わにした。
肩甲骨から脊柱にかけて、赤黒く腫れ上がった打撲痕と、ガチガチに強張った筋肉の束。過酷な防衛戦を戦い抜いてきた証拠であり、同時に、限界を超えて悲鳴を上げている痛々しい肉体だった。
「……よくここまで耐えて戦ってきましたね。でも、もう無理な我慢は終わりです」
私の声のトーンが、わずかに柔らかくなったのを、バルツは感じ取っただろうか。
私は両手で湿布の両端をピンと張り、狙いを定めた。
目標は、右の菱形筋と僧帽筋が激しく炎症を起こし、熱を帯びている患部の中央。
「いきますよ」
「お、おう……! どんな激痛でも耐えてみせ――」
構えるバルツの分厚い背骨の横へ。
私の手によって、冷たく湿った未知の布が――。
ペタァァァンッッ!!!!
鍛錬場の隅々まで響き渡るような、小気味よくも凄まじい炸裂音とともに、容赦なく貼り付けられたのだった。




