第10話:冷感ショックで悶絶! 騎士団の「湿布」争奪戦
「ひゃあああああああああっっっっっ冷たぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!?!?!?」
鍛錬場の中央、凍てつく空気を切り裂いて響き渡ったのは、地獄の底から響くような断末魔の叫びだった。
身長百九十センチを超える巨漢、第一部隊長バルツ・ケルドが、まるで落雷でも直撃したかのようにその場で跳ね上がったのだ。
ペタァン、と貼り付けられたリネン布――冷感消炎湿布の接触面から、急激な冷気とメントールの芳香が爆発的に解き放たれる。
「な、何だこれぇぇぇっ!? 氷か!? 氷の魔獣の爪か!? 背中に氷柱を突き刺されたのかッ!? 呪いだ、暗殺の呪詛だぁぁぁぁぁっ!!」
バルツは分厚い胸板を抱え、泥まみれの地面をゴロゴロとのたうち回った。
大剣を放り出し、手足をバタバタと暴れさせ、背中を雪山に擦り付けようと必死にもがく姿は、巨大な熊が蜂の巣に突っ込んで大パニックを起こしている光景そのものだった。
「た、隊長ォォォッ!!」
「貴様、我が隊長に何をお見舞いしたッ!?」
「氷属性の劇薬か!? 暗殺者め、隊長を殺す気かッ!」
周囲を取り囲んでいた数十名の屈強な騎士たちが、一斉に殺気立って剣や槍の柄を握りしめた。
王都から来た小娘が、怪しげな布切れを背中に貼り付けた瞬間、歴戦の豪傑が泡を吹きそうな勢いで転がり回ったのだ。敵襲と判断してもおかしくない状況だった。
だが、切っ先を向けられかけた私の表情筋は、ピクリとも動かなかった。
むしろ、呆れ果てた視線で泥まみれのバルツを見下ろし、持参した調剤バインダーの端でトントンと二の腕を叩く。
「大の大人がみっともなく転がり回らないの! 氷でも呪いでもありません。ただの生薬由来の冷感刺激です!」
「う、嘘をつけぇぇっ! 背中が凍りついて肉が削げ落ちそうだぞコラァッ!!」
「削げ落ちるわけがないでしょう! いいですか、人間の皮膚には『TRPM8』――冷感受容体という、温度の低下を感知する特殊なセンサーが存在するのです! この湿布に配合されたメントール成分がその受容体をダイレクトに刺激し、中枢神経に対して『冷たい!』という強烈なシグナルを送り込んでいるだけです! 実際の組織温度が極端に低下しているわけではありません!」
「ち、ちーあーる……なんたらぁぁ!? 呪文を唱えるなぁぁっ!!」
バルツは背中を丸め、泥を跳ね上げながら叫び続ける。
医学用語を理解できる脳細胞など、この筋肉の塊のどこを探しても見当たらないようだった。
だが、私の解説は止まらない。背後でオットーが「ほ、ほう……皮膚の感覚器官を欺く調剤……!」と熱心に羊皮紙にメモを取っているのを横目に、私は地面に蹲るバルツの背中に向かって、凛とした声で事実を叩きつけた。
「騒ぐのをやめて、三十秒だけじっとしていなさい! 冷感刺激によって痛覚の伝達をブロックする『ゲートコントロール説』の作用が働き、さらにヤナギ科樹皮から抽出したサリチル酸誘導体が、皮下組織から筋膜へと浸透するまでの時間です! 男なら、たったの三十秒くらい我慢なさい!」
「ぎ、ぎぎぎ……三十秒……!? 一、二、さん……くそっ、冷た……死ぬ……じゅう……」
怒鳴られ慣れていない大男が、私の気迫に圧されて必死に指を折って数え始めた。
殺気立っていた周囲の騎士たちも、そのあまりにシュールな光景に毒気を抜かれたのか、剣の切っ先を微かに揺らして立ち尽くしている。
――十秒。
バルツの荒い息遣いとともに、背中に貼られた湿布から、ふわりと爽快なハーブの香りが立ち上る。
メントールの揮発成分が毛穴を引き締め、局所の異常な熱感を急速に奪い去っていく。
――二十秒。
皮膚の角質層を突破した消炎成分が、打撲と過負荷によって微小断裂を起こしていた筋線維の間隙へと浸透していく。
発痛物質であるプロスタグランジンの合成酵素(COX)を阻害し、炎症反応の連鎖を根元から断ち切る。同時に、過緊張で収縮しきっていた毛細血管が反射的に拡張を始め、鬱血していた疲労物質が洗い流されていく。
そして――三十秒。
「……にじゅうきゅう……さんじゅ……」
叫び声を上げながら泥の上で丸まっていたバルツの声が、ふっと途切れた。
バタバタと暴れていた手足の動きが、ピタリと止まる。
「……おい、隊長?」
「た、息絶えたのか……!?」
部下たちが息を呑んで駆け寄ろうとした、その時だった。
スッ……と。
バルツが、ゆっくりと泥だらけの顔を上げた。
その瞳は、先ほどまでの怒りと激痛に血走った色ではなく、まるで未知の天変地異に遭遇したかのように、まん丸に見開かれていた。
「……あれ……?」
バルツが、恐る恐る自らの右肩に手を伸ばした。
そして、信じられないものを見るように、首を左右に傾げる。
「……おい……何だこれ……?」
「隊長!? 大丈夫ですか、どこが痛みますか!?」
「いや……違う……」
バルツは地面に手をつき、のっそりと立ち上がった。
先ほどまで、大剣を振るうたびに「ぐっ」と顔を歪め、鉛でも埋め込まれたかのように強張っていた背中。その背筋が――ギシギシとした軋みを一切立てることなく、信じられないほど滑らかに、ピンと真っ直ぐに伸びたのだ。
「……痛く、ねえ……?」
バルツが呟いた。
恐る恐る、右の腕をぐるりと回す。
ブン、と風を切る鋭い音。
いつもなら「ギャッ」と悲鳴を上げていたはずの肩甲骨の奥底が、嘘のように軽く、何の引っかかりもなく旋回した。
「嘘だろ……? 肩が……回る……? 腰を捻っても……あの、背骨を万力で締め付けられるような激痛が……消えてやがる……!?」
「ええ、消えたのではなく、炎症が抑えられて痛覚が鎮まったのです」
私が腕を組んで涼しい顔で告げると、バルツはハッと我に返り、自らの背中に手を当てた。
そこには、冷たく湿ったリネン布が、ピタリと筋肉の隆起に沿って張り付いている。
じんわりと、氷水の中に浸かっているかのような心地よい清涼感と、奥底からポカポカと血が巡るような不思議な温感が同居していた。
「な、なんだこれ……!? 冷てえのに、奥が温けえ……! 重たかった鉄板が、背中からベリベリ剥がれ落ちたみてえだ……! 身体が、羽が生えたみてえに軽えぇぇぇっ!!」
バルツは狂喜乱舞し、その場で大剣を拾い上げると、風車のようにブンブンと振り回し始めた。
ヴンッ、ヴンッ、と空気を切り裂く轟音。
先ほどまでのぎこちないフォームはどこへやら、完璧な体重移動と鋭い踏み込みで、木剣の軌道が何倍もの速度へと跳ね上がっている。
「すげえええええっ! 動く! 動くぞオラァッ! 胃袋も全然焼け付かねえ! 頭もクラクラしねえ! ただこの布を貼っただけで、痛みが消え失せやがった!! なんだこの布、神の布か!? 天国かここはァッ!!」
大剣を掲げて雄叫びを上げる第一部隊長。
その背中には、真っ白な四角い布が一枚、ペタリと誇らしげに張り付いている。
そのあまりに劇的な変貌を、息を呑んで凝視していた数十名の騎士たちの表情が――一瞬にして、凍りついた。
「……おい、見たか……?」
「隊長のあのガチガチだった肩が、一瞬で直ったぞ……?」
「ポーションを飲んだ時みたいに吐き気も催してねえ……!」
「なんだあの奇跡の布は……!?」
ザワ……と、鍛錬場全体に広がるどよめき。
彼らは全員、北方の最前線で戦い続けてきた戦士たちだった。
重い甲冑の摩擦、極寒による筋肉の萎縮、連日の激しい訓練と魔獣迎撃。
肩こり、腰痛、肉離れ、関節炎、打撲、腱鞘炎――彼らの身体は、誰もが「痛みのデパート」と呼ぶべき満身創痍の塊だったのだ。
それを、胃を痛める毒ポーションを煽ることなく、ただ「貼るだけ」で解決できる神の布が存在する。
その事実を理解した瞬間。
ゴクリ、と。
数十個の喉仏が、同時に激しく上下した。
屈強な男たちの濁っていた瞳の奥に――飢えた野獣のような、ギラギラとした熱狂の炎が点火された。
「……あ」
私が後退りしようとした、まさにその刹那だった。
「お、俺にも貼ってくれぇぇぇぇぇっっっっ!!!!」
地鳴りのような咆哮が炸裂した。
先頭を切ったのは、三十代半ばのベテラン槍兵だった。男は槍を放り出すなり、着ていた鎖帷子の上着をバリバリと音を立てて引きちぎるように脱ぎ捨て、泥を蹴立てて私へと突進してきた。
「エレナ様! 俺の左肩を! 先週の魔獣の体当たりで肩が上がらねえんです! その神の布を俺の肩にもォォッ!」
「馬鹿野郎、俺が先だ! 俺の腰を見ろ! ギックリやってから三日三晩、便所に行くのも這いずり回ってんだぞ! エレナ様、どうか俺の腰に愛の布をぉぉっ!」
「どけ筋肉ダルマども! 俺の膝だ! 水が溜まってパツパツなんだよ! エレナ様ぁぁっ、私の膝頭をお救いください!!」
「服を脱げ! 脱げば貼ってもらえるぞ!」
「俺の背中も空いてるぜ!」
「エレナ様!」「女神様!」「聖女様ァァッ!!」
ドバババババッ! と土煙を上げながら、上半身裸の大男たちが、我先にと雪崩を打って押し寄せてきた。
脱ぎ捨てられた鎧や革ベストが宙を舞い、露出した汗臭い筋肉の壁が、四方八方から私を押し潰さんばかりに迫ってくる。
先ほどまでの「王都の小娘を警戒していた歴戦の戦士たち」の姿など、跡形もなかった。
そこにいるのは、ただ痛みのない身体を求めて理性を吹き飛ばした、哀れで切実な患者たちの群れだった。
「ちょっ……!? 待ちなさい! 服を着なさい! 筋肉を見せびらかしながら突進してくるんじゃないわよッ!!」
私はトランクを盾のように構え、後ずさりながら叫んだ。
だが、痛みに飢えた男たちの勢いは止まらない。
何十本もの太い腕が、すがるように私へと伸ばされる。もみくちゃにされかけた、その時だった。
「――てめえらッッッ!! エレナ様に何群がってやがるッッッ!!!!」
ドゴォォォォンッッ!!!!
凄まじい地響きとともに、先頭の男たち三名が、まとめて真横へと吹き飛ばされた。
泥の上に叩きつけられた騎士たちの上に立ちはだかったのは――背中に湿布を貼ったまま、大剣の腹を構えて仁王立ちになったバルツだった。
「が……隊長!? 何すんですか!」
「うるせえええええっ! エレナ様は俺の恩人だ! この神の布の最初の一枚を授かった俺が、エレナ様専属の筆頭護衛隊長だコラァッ! 汚ねえ筋肉を晒してエレナ様に近づくんじゃねえ! 触ろうとした奴は全員叩き斬るぞッ!!」
バルツは全身の毛を逆立てた大型犬のように牙を剥き、私を背中に庇いながら周囲を威嚇した。
完全なる忠犬化。
先ほどまで「小娘」と罵っていた男が、たった一枚の湿布の恩恵によって、世界で最も過保護で狂暴な番犬へとジョブチェンジを遂げていた。
「バルツ、ナイスセーブです! でも剣を振り回さないで!」
私はバルツの背中越しに顔を出し、殺到する男たちに向かって、声を張り上げた。
「全員、静粛に!! 痛みを治したいなら、医療従事者の指示に従いなさい! 服を脱ぎ散らかさない! 押し合わない! 怪我の重い者から順に、あそこのベンチに一列に並びなさい! 問診と触診を行ってから、適切な部位に適切な枚数を処方します!」
私の凛とした統率の声に、屈強な男たちがビクリと直立不動になった。
そして――。
「「「は、はいっっっ!!!」」」
地鳴りのような返答とともに、あれほど獰猛だった騎士たちが、まるで幼稚園の児童のように大人しく、お互いに譲り合いながらベンチの前へと整列し始めたのだ。
手にはそれぞれ、脱ぎ捨てた自分の服を申し訳なさそうに抱えている。
「ふぅ……。オットー先生、木箱から予備の湿布を出しなさい! それから、ハサミとアルコール綿の用意を!」
「ハッ! かしこまりました師匠! 不肖オットー、湿布の剥離紙剥がし係として粉骨砕身いたしますぞ!」
老侍医が目を輝かせながら助手を務め、前代未聞の「青空・筋肉痛外来」が幕を開けた。
肩にペタリ。
腰にペタリ。
膝の裏にペタリ。
「ひゃあぁぁ冷たいっ……! あ、でも痛くねえ……!」
「うおおぉ……腰が……腰が曲がる……!」
「エレナ様、ありがとうございます! 一生ついていきます!」
湿布を貼られるたびに、屈強な男たちが悶絶し、次の瞬間には至福の表情を浮かべて涙を流す。
感謝の言葉とともに、私の足元にはなぜか彼らが大切にしていた干し肉や、珍しい木の実、果ては手入れされたダガーナイフなどが「お礼の供物」として山積みにされていった。
警戒心など完全に消滅し、私はこの第一鍛錬場において、一瞬にして「痛みを消し去ってくれる絶対の天使」として祀り上げられていた。
バルツはといえば、私の隣で腕を組み、「ほら次! エレナ様に失礼のないように背中を差し出せ!」と、完全に頼れる現場監督気取りで胸を張っている。
「エレナ様、あんたマジで神だぜ。俺、これまでの人生でこんなに身体が軽くなったことねえよ。王都の奴らは節穴だな、あんたを追放するなんてよ。一生この城にいてくれよな!」
「ふふ、喜んでもらえて何よりです。でもバルツ隊長、湿布は対症療法ですからね。今夜はしっかり温かい湯に浸かって、ストレッチをして、早く寝るんですよ」
「おう! エレナ様の言うことなら何でも聞くぜ!」
大型犬のように無邪気に笑うバルツ。
周囲の騎士たちも、すっかり痛みが和らいだ身体を確かめ合いながら、笑顔で私を取り囲んでいた。
厳しい冬の寒さの中、鍛錬場はまるで春が訪れたかのような、温かく和やかな熱気に包まれていた。
――だが。
その甘やかな幸福の空間を、一瞬にして凍てつかせる「異変」が起きた。
ピキ……ッ。
空気の密度が、急激に変質した。
暖炉の火が吹き消されたかのように、鍛錬場の気温が数秒で氷点下へと叩き落とされる。
ざわめいていた騎士たちが、一斉に言葉を失い、喉を詰まらせた。
バルツの顔から笑みが消え、背筋の毛が逆立つ。
(……え? 何……この、凄まじい威圧感……?)
私が肌を粟立たせて振り返った、その視線の先。
城の主館へと続く大階段の最上段に――一人の男が立っていた。
漆黒の毛皮の外套を羽織り、乱れた黒髪を北風になびかせた偉丈夫。
鍛え抜かれた鋼の肉体には、先ほどまでの死の気配など微塵も残っていない。
万全の体調を取り戻し、全身から濃密すぎる覇気と魔力を立ち上らせた――北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯その人だった。
しかし。
その彫刻のように整った美貌は――この世のあらゆる生者を凍死させるかのような、絶対零度の冷気で覆い尽くされていた。
吹雪の後の夜空のように澄んでいたはずの紫の双眸が、ドス黒い炎を宿し、鍛錬場に群がる男たちを一人残らず射抜いている。
「…………」
ジルヴェスタが一歩、階段を踏み降ろした。
コツン、と革靴が石を打つ乾いた音が、静まり返った広場に雷鳴のように響く。
その足取りには、病み上がりのふらつきなど欠片もない。獲物を屠るために間合いを詰める、完全無欠の捕食者の足取りだった。
階段の中腹で立ち止まったジルヴェスタは、上半身裸でエレナを取り囲んでいる騎士たちと、エレナのすぐ隣で得意げに胸を張っていたバルツの姿を、冷え切った視線で見下ろした。
そして――地脈を揺るがすような、低く、ドスの利いた声音が放たれた。
「……貴様ら」
ヒュッ、と騎士たちの喉が鳴る。
ジルヴェスタの視線が、エレナの白衣の袖を握りしめそうになっていた騎士の手元へ、ナイフのように突き刺さった。
「私の城で、我が命の恩人に……一体誰の許可を得て、そのように群がっている?」
絶対零度の殺気が、鍛錬場全体を余すことなく圧殺した。
主寝室から抜け出してきたスパダリ辺境伯の、重すぎる独占欲の嵐が――今まさに吹き荒れようとしていた。




