第11話:カサカサ肌の屈強な男たちと、癒やしの特製バーム
「……ひぃっ……!」
鍛錬場を満たしていた熱気と嬌声が、一瞬にして凍りついた。
先ほどまで「エレナ様!」「女神様!」「俺の腰にも!」と野獣のように叫び、脱いだ上着を振り回していた屈強な男たちが、まるで石化の魔術でも受けたかのように直立不動で硬直している。
大剣を構えて現場監督気取りだった第一部隊長バルツにいたっては、背中に貼られた湿布の冷たさとは比較にならないほどの冷汗をダラダラと顎から滴らせ、喉仏をひくつかせていた。
大階段の中腹に佇むのは、漆黒の毛皮外套を羽織った北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。
死線を潜り抜けたばかりとは思えない、大地を揺るがすような濃密な覇気。
そして何より――その端麗な面輪に浮かんだ、獲物を瞬時に凍結せしめる絶対零度の殺気。
「私の城で、我が命の恩人に……一体誰の許可を得て、そのように群がっている?」
ゴゴゴ、と地鳴りのような低音が空気を震わせる。
紫の双眸は細められ、エレナの周囲を取り囲む半裸の騎士たちを一人ひとり、まな板の上の魚を品定めするように睨みつけていた。
あまりの恐怖に、何名かの新兵は膝をガクガクと震わせ、今にも雪の上に頽れそうになっている。
「か、閣下……! これはその、決してエレナ様に無礼を働こうとしたわけでは……!」
バルツが必死に弁明しようと一歩前に出た。
だが、ジルヴェスタの冷徹な眼光がバルツの胸元を射抜いた瞬間、バルツは「ぐへっ」と短い悲鳴を上げて口を噤んだ。視線だけで人間を圧殺できそうな威圧感だった。
静寂の中、ジルヴェスタは階段を一段、また一段とゆっくり降りてくる。
その足取りは音もなく、雪を踏みしめる重々しい気配だけが広場を支配していた。
――だが。
そんな歴戦の騎士たちが震え上がるような一触即発の空気の中、まったく異なる方向から、凛とした甲高い声が飛んだ。
「ジルヴェスタ様ッ!!」
全員の視線が、声の主――エレナへと集まる。
エレナは両手を腰に当て、眉を吊り上げて仁王立ちになっていた。
そして、近づいてくる天下の辺境伯に向かって、臆することなくずかずかと大股で歩み寄ったのだ。
「誰が寝所から出てきていいと言いましたか!? 『絶食明けの患者は、最低でも半日はベッドで安静にしていること』――そうカルテに明記したはずです! 冷たい外気に急に触れれば、末梢血管が急激に収縮して血圧が跳ね上がり、せっかく落ち着いた胃粘膜に再び虚血性ダメージが入るのですよ! 今すぐ部屋にお戻りなさい!」
鍛錬場にいた全員の呼吸が止まった。
あの絶対零度の狂犬に向かって、真っ向から「部屋へ戻れ」と叱り飛ばす男爵令嬢。
オットー侍医が「ぎゃああっ、師匠、命知らずにも程がありますぞ!」と頭を抱えてしゃがみ込む。
しかし――。
エレナの怒声を受けたジルヴェスタは、歩みをピタリと止めると、気まずそうに視線を泳がせた。
先ほどまでの凍てつくような殺気はどこへやら、わずかに眉尻を下げ、言い訳をするように口を開く。
「……部屋にいたのだが、鍛錬場から騒がしい叫び声が聞こえた。お前が屈強な男たちに囲まれて、危害を加えられているのではないかと……心配で、見に来ただけだ」
「危害など加えられていません! 私は医療従事者として、患者たちの愁訴に対応していただけです!」
「……服を脱ぎ散らかした男どもに囲まれる必要が、どこにある」
ジルヴェスタが不服そうに唇を尖らせ、背後の騎士たちをジロリと睨みつける。騎士たちは揃って「ヒィッ」と縮こまった。
完全に、愛しい獲物を囲い込もうとする猛獣の嫉妬そのものだった。
だが、当のエレナはといえば、ジルヴェスタのその露骨な独占欲に気付く気配すら微塵もなかった。
それどころか、エレナの視線はすでに、直立不動で凍りついている騎士たちの「ある部位」へと釘付けになっていたのだ。
「……あ」
エレナが小さく声を漏らした。
その眼差しは、先ほどまでの怒りから一転、臨床薬剤師特有の、鋭く深い観察の光へと切り替わっていた。
「エレナ……?」
ジルヴェスタが訝しげに名を呼ぶが、エレナは返事もせず、最前列にいた若い騎士の前へと歩み寄った。
その騎士は、二十代前半とおぼしき純朴そうな青年だった。脱ぎかけた革の上着を抱え、エレナが近づいてきただけで耳まで真っ赤にして直立している。
「動かないでくださいね。……ちょっと手元と首元を見せていただけますか?」
「は、はひっ!?」
裏返った声を上げる青年の手首を、エレナは躊躇なくそっと持ち上げた。
至近距離で観察したその皮膚の状態に、エレナは痛ましげに眉をひそめた。
「やっぱり……。湿布で筋肉痛が和らいだからと浮かれていましたが、皆さん、皮膚の状態が限界を超えています」
青年の手首から手の甲にかけての皮膚は、まるで干からびた大地のように細かくひび割れ、白く粉を吹いていた。
それどころか、関節の屈曲部には赤黒い亀裂が何筋も走り、じわりと血が滲んでいる。
首元に視線を移せば、重い金属鎧の襟ぐりが擦れ続けたせいで、皮膚の表面がずる剥けになり、赤くただれた湿疹と化していた。
「手首の高度な亀裂性湿疹、首周囲の摩擦性接触皮膚炎……。角質層が完全に剥離して、真皮層が剥き出しになっています。これ、鎧を着るたびに激痛が走っていたでしょう?」
「う……あ、はい……。痛えのは痛えんですが、北方の寒風と重い甲冑を着てりゃ、誰だってこうなりますから……。血が出たら、傷口を塞ぐためにポーションの残りをちょっと塗ったりして誤魔化してました……」
青年騎士が申し訳なさそうに俯く。
その言葉を聞いた瞬間、エレナは「はぁぁぁ……」と、今日一番の深いため息を天に向かって吐き出した。
「やっぱり、それです……! 傷口に直接、高濃度の液体ポーションを塗りたくるなんて、最悪の処置ですよ!」
「えっ!? だ、駄目なんですか!? 傷を治す薬なのに!?」
周囲の騎士たちもざわめいた。彼らにとって、擦り傷やひび割れにポーションを垂らすのは、常識中の常識だったからだ。
「駄目に決まっています! いいですか、高濃度の魔力ポーションには、品質を保つためのアルコールや、過剰な浸透圧を持つ魔力成分が含まれています。それを、角質層のバリアが壊れて無防備になった傷口に直接ぶちまければ、どうなると思いますか? 激痛が走るのはもちろんのこと、生き残っていたわずかな皮脂膜や細胞間脂質まで根こそぎ溶かし去り、患部を極度の乾燥状態に叩き落とすのです!」
エレナは青年騎士の手の甲を優しく掲げ、周囲の男たちに見えるように示した。
「傷を塞ぐことと、皮膚の健康を保つことは全く別問題です。皮膚の最表面にある角質層は、厚さわずか〇・〇二ミリ――ラップ一枚分しかありません。ですがその薄い膜が、体内の水分の蒸散を防ぎ、外部からの雑菌や寒風、アレルゲンの侵入をシャットアウトする『最強の生体バリア』なのです!」
エレナの専門的な解説に、オットーが素早く懐から手帳を取り出し、カリカリとペンを走らせる。
「極寒の冷たい乾燥した空気、連日の金属鎧による物理的摩擦、そして間違ったポーション塗布による皮脂の剥奪……。皆さんの皮膚バリア機能は、今まさに『完全崩壊』しています! バリアが壊れているから、ちょっと擦れただけで皮膚が裂け、細菌が入り込んで化膿し、治りかけた傷がまた割れるという地獄の無限ループに陥っているのです! 今必要なのは、傷口を魔力で無理やり塞ぐことではありません。失われた油分を補い、皮膚に『人工の防壁』を張ることです!」
「じ、人工の防壁……!?」
青年騎士が目を丸くする。
バルツも背中の湿布を気にしながら、「おいおい、皮膚に防壁って……そんな魔法の盾みたいなもんがあるのかよ?」と身を乗り出してきた。
「あります。前世……いえ、私の研究室秘伝の『保護軟膏』です」
エレナはきびすを返し、調剤トランクの元へと駆け寄った。
中から取り出したのは、陶器の小壺、ガラスの攪拌棒、そして金属製の小さな手鍋だった。
「カイエン副団長! 鍛錬場の隅にある焚き火をお借りします! それから、大きめの鍋にお湯を沸かしてください!」
「あ、ああ、すぐに手配しよう!」
カイエンがテキパキと部下に指示を出し、鍛錬場の風下に即席の「野外調剤スペース」が設営された。
湯気を立てる湯釜の上に、エレナは小さな金属鍋を浮かべる。直火ではなく、穏やかに熱を伝える「湯煎」の技法だ。
エレナはトランクから、透き通った黄金色の固形物を取り出した。
「これは、丁寧に不純物を取り除いた純度の高い『精製蜜蝋』です。融点はおよそ六十度。常温では固形ですが、体温でじんわりと溶け、皮膚の上に強固でしなやかな被膜を形成します」
刻んだ蜜蝋を鍋に投入すると、甘い蜂蜜の香りがふわりと立ち上り、みるみるうちに透明な液体へと溶けていく。
そこへ、エレナは琥珀色の油を慎重に注ぎ入れた。
「次に、オリーブ果実に類似した植物油。人の皮脂に極めて近い『オレイン酸』やスクワラン様成分を豊富に含み、角質層の隙間へと素早く浸透して、硬くなった皮膚をふっくらと柔軟にします」
ガラス棒でリズミカルに攪拌しながら、二つの油脂を完全に均一な液状へと融和させる。
そして――最後にエレナが取り出したのは、深い藍色をした小さな遮光瓶だった。
「そして仕上げです。北方の原生林に自生するカモミール――マトリカリア類似の薬草から低温抽出した、アズレン様消炎成分。強い抗炎症作用と組織修復促進作用を持ちながら、皮膚への刺激性は極限までゼロに近い、究極の鎮静エキスです」
スポイトで吸い上げた青みがかった薬液を、黄金色の油の中へ数滴、ポタリと落とす。
ジュワリ、と微かな音とともに、甘やかなハーブと青リンゴを思わせる清冽な香りが、鍛錬場の冷たい空気を一瞬にして満たした。
汗と泥の臭いにまみれていた男たちが、思わず「おお……」「なんだか、すげえいい匂いがする……」と鼻をひくつかせる。
エレナは鍋を湯から引き上げ、冷水に浸しながら手早く攪拌を続けた。
粗熱が取れるにつれて、透明だった液体は淡いクリーム色へと変化し、とろりとした滑らかなテクスチャーへと固まっていく。
「……よし。完成です!」
エレナが掲げて見せたのは、陶器の壺いっぱいに満たされた、艶やかな「特製保湿・消炎バーム」だった。
光など放たない。だが、そこには現代薬学における皮膚科学の粋――「湿潤療法」と「ワセリン製剤」の理念が、完璧な形で凝縮されていた。
「傷口を乾燥させて無理やり塞ぐ時代は終わりです。患部を適切な油分で密閉し、生体が自ら分泌する成長因子を閉じ込めることで、細胞の再生を劇的に早める。これが、私の処方する『皮膚の鎧』です!」
エレナは壺を手に取り、先ほどの手首を痛めていた青年騎士の前に戻った。
「さあ、手を出してください」
「は、はいっ!」
青年が恐る恐る、赤黒くひび割れた右手を差し出す。
エレナは人差し指の腹で、壺の中から小豆大ほどのバームをすくい取った。
そして――。
青年の荒れ果てた大きな手を、自らの両手で優しく包み込んだ。
「ひゃ……っ!?」
青年の身体が、感電したようにビクンと跳ねた。
目の前にいるのは、王都からやってきた可憐な男爵令嬢。
その白く柔らかな温かい掌が、無骨で泥臭い自分の手を、慈しむようにしっかりと握りしめているのだ。
女人禁制に近い北方の前線で、武骨な訓練だけに明け暮れてきた純情な騎士にとって、それは致死量を超える精神的衝撃だった。
「エ、エレナ様……!? お、俺の手、汚ねえですから……!」
「汚くなんてありません。国を守るために戦ってきた、立派な戦士の手です。……でも、これからは大切にケアしてくださいね」
エレナは微笑みながら、指先のバームを青年のひび割れた皮膚へと置いた。
体温で瞬く間にオイル状にとろけたバームが、滑らかに伸びていく。
「ゴシゴシ擦っては駄目ですよ。皮膚の繊維を傷つけないように……こうして、手のひら全体のぬくもりを使って、優しく、円を描くようにすり込んでいくのです」
くるくると、エレナの指先が青年の手の甲を、指の節々を、手首の亀裂を、丁寧にマッサージしながら撫でていく。
蜜蝋の被膜が荒れ果てた角質層をピタリと覆い、植物油が乾ききった細胞の間へと吸い込まれていく。
そして、アズレンの抗炎症成分が、赤く腫れ上がっていた真皮の毛細血管へと優しく浸透していった。
「……あ……」
青年騎士の口から、魂が抜けたような間抜けな声が漏れた。
先ほどまで、風が当たるだけでピリピリと針で刺されるように痛んでいた手首の亀裂。
その痛みが――まるで魔法の霧が晴れるように、すぅっと消え去っていったのだ。
突っ張っていた皮膚がふんわりと柔らかくなり、何年ぶりかも分からない、しっとりとした潤いが手全体を包み込んでいる。
「……すげえ……。痛く、ねえ……? 突っ張らねえぞ……? 指が、曲がる……!」
青年が自らの掌を開閉させ、驚愕に目を見張る。
白く粉を吹いて赤黒く爛れていた手の甲は、滑らかな艶を帯び、痛々しい赤みが劇的に引いていた。
「はい、反対の手も同じようにご自身で塗ってくださいね。首元の鎧擦れにも、薄く塗り広げておけば、甲冑の摩擦から皮膚を完璧に守ってくれますよ」
「あ、ありがとうございます……! 一生、この手を洗いません……!!」
「いえ、衛生上ちゃんと洗ってください。洗ったらまた塗ればいいんですから」
エレナがカラカラと笑った瞬間。
周囲を取り囲んでいた騎士たちの理性が、再び完全に崩壊した。
「おい、見たかよ……! あいつの手、赤みが一瞬で消えたぞ!」
「肌が……すべすべになってやがる……!」
「エレナ様! 俺の首も擦れて血が出てるんです! 塗ってください!」
「俺の手も! 俺の手もひび割れまくりですエレナ様ぁぁっ!」
「エレナ様に手を握ってもらいたいだけだろテメエ! どけ、俺の肘を見ろ!」
「「「俺にも塗ってくださいィィィッッッ!!!!」」」
怒号のような懇願とともに、大男たちが一斉に両手を突き出して殺到してきた。
湿布の時以上の熱狂。
それもそのはず、痛みが消えるだけでなく、「可憐なエレナ様に優しく手を握られてマッサージしてもらえる」という、前線の男たちにとっては天国のようなオプションが付いているのだ。命がけで群がるのも当然だった。
「わっ、ちょっと、押し合わないでください! バームはたっぷりありますから、容器に小分けして配ります! 自分で塗ってください、自分で!!」
エレナが必死に叫ぶが、男たちの突進は止まらない。
騎士団宿舎の方向からも、「おい、中庭でエレナ様が神のハンドクリームを配ってるぞ!」「塗ってもらうと手がすべすべになってエレナ様に手を握ってもらえるらしい!」「ダッシュだ野郎どもッ!」と、非番の騎士たちが雪崩を打って走ってくるのが見えた。
鍛錬場は完全に、前代未聞の「スキンケア・パニック」の様相を呈していた。
――だが。
広場の一角で、何人かの騎士たちが、自らのすべすべになった手の甲をうっとりと眺め、頬を染めてスリスリと頬擦りしているシュールすぎる光景の、その背後で。
ミシミシ……ッ。
大気が、物理的な音を立てて軋んでいた。
エレナの周囲の気温が、ぐんぐんと低下していく。
先ほどまでの「神薬の奇跡」に湧く空気とは真逆の、ドス黒い、底知れないプレッシャー。
「…………」
立ち尽くしていたのは、ジルヴェスタだった。
その額には――ピキピキと、鮮やかな青筋が幾重にも浮き上がっていた。
紫の双眸は完全に据わり、エレナが無自覚に騎士たちの手を握り、慈しむようにバームを塗り広げるその一挙手一投足を、瞬き一つせずに凝視している。
(……握ったな)
(今、あいつの手を両手で包み込んだな)
(しかも、あんな愛らしい笑みを浮かべて、優しくすり込んで……)
ジルヴェスタの手袋をはめた拳が、ギリギリと音を立てて握り締められる。
周囲の雪が、彼の放つ魔力の奔流によって、蒸発することすら許されず、サラサラとした氷の粉へと昇華していく。
副団長カイエンが、サーッと血の気を引かせながら後退りした。
「ま、まずい……閣下の周囲の魔素濃度が、魔獣スタンピードの時を超えている……! おい、貴様ら、いい加減にしろ、命が惜しくないのか……!」
カイエンの警告など、エレナの温もりに飢えた男たちには届かない。
そして――ジルヴェスタの忍耐の限界を告げる鐘が、ついに鳴り響いた。
「――そこまでだ」
ドォォォォンッッ!!!!
突風のような覇気が炸裂した。
エレナの前に群がっていた大男たち十数名が、まるで巨大な見えない盾で薙ぎ払われたかのように、雪の上をゴロゴロとまとめて十メートルほど吹き飛ばされた。
「ぎゃあああっ!?」
「な、何だぁぁっ!?」
泥の上に転がった男たちが顔を上げると、そこには――。
エレナの前に立ちはだかり、背中で彼女を完全に遮断するように庇い立てした、漆黒の猛獣の姿があった。
「か……閣下……!?」
吹き飛ばされた騎士たちが恐怖に竦み上がる。
ジルヴェスタは冷酷無比な瞳で配下の男たちを見下ろし、絶対零度の声音で宣告した。
「バームはオットーに預けさせる。以後は各自で塗れ。……エレナに一歩でも近づき、その手を握らせようとした者は、敵前逃亡と同等の軍規違反とみなし――貴様らのその自慢の筋肉ごと、両腕を切り落とす」
「「「ヒィィィィィッッッ!!!!」」」
悲鳴を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げ出す騎士たち。
宿舎から走ってきていた非番の連中も、閣下の本気度百パーセントの殺気を感じ取るや否や、直角にターンして全速力で逃げ去っていった。
あれほどの大混乱だった鍛錬場が、わずか五秒で静まり返る。
「もう……! ジルヴェスタ様、せっかくの服薬指導……じゃなくて、スキンケア指導だったのに、何を乱暴なことをなさるのですか!」
エレナがジルヴェスタの背中をぷりぷりと叩いて抗議した。
だが、ジルヴェスタは怒るどころか、ゆっくりとエレナの方へと振り返った。
その表情は、先ほどまでの冷酷な鬼神のそれとは、完全に別物だった。
わずかに眉を寄せ、どこか拗ねたような、それでいて切実な光を宿した瞳。
ジルヴェスタは無言のまま、自らの右手を持ち上げた。
そして――。
はめていた黒革の騎士手袋の留め具を、歯で噛んで外し、ゆっくりと引き抜いた。
露わになったのは、歴戦の戦士にふさわしい、傷だらけの巨大な掌。
分厚いタコと無数の刀傷。
そして、北方の極寒の風に晒され続けた結果、白く粉を吹き、関節のあちこちが痛々しくあかぎれを起こしてひび割れた――酷く荒れた皮膚だった。
「ジルヴェスタ様……?」
エレナが見上げる中。
ジルヴェスタは、その大きな傷だらけの手を、エレナの胸の高さへと、真っ直ぐに差し出してきた。
そして――普段の威厳ある声音からは想像もつかないほど、低く、微かにかすれた声で告げたのだ。
「……エレナ。次は、私だ」
「え……?」
「私の手も……酷く荒れている。あいつらばかり診ていないで、私にも……その、バームを塗れ」
不器用すぎる要求。
見れば、天下の「氷血の辺境伯」の、鋭くとがった耳の先端が――。
冷たい北風のせいばかりではない、明らかな熱を帯びて、林檎のように真っ赤に染まっていた。




