第60話:誓いのキスの前に胃薬を! 薬剤師の幸せな処方箋
カラァン、コォォォン……!
雲一つない真っ青な天空を突き破るように、白亜の大聖堂の尖塔から、澄み渡る鐘の音が幾重にも鳴り響いていた。
初夏の柔らかな陽光が、色鮮やかなステンドグラスを通して石造りの聖堂内へと降り注ぎ、深紅のバージンロードの上に幻想的な万華鏡の光の絨毯を描き出している。
大聖堂を埋め尽くしていたのは、着飾った数千人もの参列者たちだった。
北方守護騎士団の精鋭たちは、ピカピカに磨き上げられた黒鉄の礼装甲冑に身を包んで直立し、近隣諸侯の領主やその夫人たちは、かつてエレナが処方したスキンケアによって手に入れたプルプルの陶器肌を誇らしげに輝かせている。王都からの視察団も、研究所の教え子たちも、城下町の領民たちも、誰もが祝福の熱気で頬を紅潮させ、今か今かとその瞬間を待ちわびていた。
「……はぁ。まさか、私が本当にこんな豪奢なドレスを着ることになるなんてね」
聖堂の重厚な扉の向こう、控室の大きな姿見の前で、私――エレナ・ノールは、深々と息を吐き出した。
鏡の中に映っていたのは、自分でも見惚れてしまうほど豪奢で、繊細な純白のウェディングドレスを纏った自分の姿だった。
生地には、北方特産の極光氷蚕の絹が惜しみなく使われ、歩くたびにオーロラのような淡い虹色の光彩を放っている。胸元から裾にかけては、幻の生薬『月光花』の花びらと薬瓶の紋様を模した、銀糸と極小の真珠による緻密なレース刺繍。ベールは朝露に濡れた蜘蛛の巣のように軽やかで、翡翠の瞳を優しく縁取っていた。
「何を仰っているのですか、エレナ様。世界一お美しゅうございますよ」
後ろからベールの乱れを優しく直してくれたのは、辺境伯家の総家政婦長マルグリットさんだった。
普段は冷静沈着な彼女が、目頭をハンカチで押さえ、今にも涙をこぼしそうになっている。
「あの頑なで、自らの命を投げ出すことしか知らなかった閣下が……こうして生涯の伴侶を迎えられる日が来るなんて。すべて、エレナ様がこの城に来てくださったおかげです。……ですが、エレナ様?」
マルグリットさんの感動の声音が、ふいにピタリと止まり、その視線が私の腰元へとスッと落とされた。
そして、盛大なため息が漏らされた。
「……その、引き締まった美しいウエストラインに燦然と輝く『それ』は……一体何でございましょう?」
「え? これですか?」
私がパッと手を当てたのは、純白のドレスの腰骨のあたり――シルクリボンの奥に、寸分の狂いもなくガッシリと革ベルトで固定された、年季の入った革製の「救急ポーチ」だった。
中には、滅菌ガーゼ、弾性包帯、各種粉末生薬の包み紙、スポイト、そして何本ものアンプルと聴診筒が、隙間なくぎっしりと詰め込まれている。
「何って……救急ポーチですけど?」
「存じております! 私が伺いたいのは、なぜ花嫁がウェディングドレスの下に救急ポーチをフル装備で帯刀(?)しているのか、という理由でございます!」
「だってマルグリットさん、大聖堂には数千人もの参列者が集まっているんですよ!? 熱中症で脱水を起こす人が出るかもしれないし、興奮して迷走神経反射で失神するご老人がいるかもしれないじゃないですか! 何が起きても最初の『ゴールデンアワー』に適切なトリアージと初期介入ができるよう、医療従事者が救急セットを常時携帯するのは、リスクマネジメントの基本中の基本です!」
「結婚式くらい、ご自分の命の危険だけを心配なさいませ……! 新郎に抱きしめられた時、腰の注射器が刺さったらどうなさるおつもりですか!」
「大丈夫です、針先には安全キャップを三重にしてありますから!」
胸を張って答える私に、マルグリットさんは額を押さえて天を仰ぎ、それから堪えきれずに吹き出した。
「ふふっ……本当に、あなた様というお方は。……ですが、そんなお仕事熱心で、どこまでも優しいエレナ様だからこそ、城中の者たちが、そして閣下が、命懸けでお慕いしているのでしょうね」
マルグリットさんは温かな手で私の肩を抱きしめてくれた。
その温もりに、私の胸の奥がじんわりと熱くなる。
前世の冷たい調剤室で、一人寂しく過労死していった私。
追放され、凍える雪山へ捨てられたあの日。
それが今、こんなにも温かな人々に囲まれ、祝福され、愛されている。
「さあ、お時間です、エレナ様。……世界で一番お幸せな花嫁になっていらしてください」
「……はい!」
ギギギ……と、重厚な扉が左右へと押し開かれた。
◇
大聖堂内に、パイプオルガンの荘厳な旋律が鳴り響いた。
参列者全員が一斉に起立し、振り返る。
光あふれる入り口から、バージンロードへと足を踏み入れた私の横を、誇らしげに胸を張って歩き出したのは――首元に真っ赤な蝶ネクタイを結ばれた、聖獣の仔テオだった。
テオは銀色の毛並みを誇らしげに揺らし、「わふっ」と短く号令を鳴らしながら、まるで名誉ある露払いのように私の前をトコトコと先導してくれる。
「おお……!」「なんて美しいんだ……!」「本物の聖女様だ……!」
左右から漏れ聞こえる、感嘆と祝福の溜息。
ハーブの花びらが宙を舞い、私の足元を甘い香りで満たしていく。
だが、私の視線は――バージンロードの最奥、祭壇の階段の上に立つ、一人の男の姿だけに吸い寄せられていた。
ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。
普段の黒鉄の甲冑ではなく、純白と濃紺を基調とした最高格式の礼装外套に身を包んだその姿は、息を呑むほどに完璧な美丈夫だった。
鍛え抜かれた逞しい長身。夜空を凝縮したような黒髪が清冽に撫で付けられ、深い紫の双眸は、バージンロードを歩む私だけを、熱く、熱く、射抜くように見つめている。
神話の軍神が、自らの魂の片割れを迎え入れるかのような、圧倒的な存在感。
――けれど。
(……ん?)
祭壇の階段を一歩、また一歩と登り、ジルヴェスタ様との距離が縮まるにつれて。
私の脳内に備わった、筋金入りの「臨床薬剤師レーダー」が、不穏な生体アラートをけたたましく鳴らし始めた。
(……待って。何かがおかしいわ)
私の翡翠の瞳が、ジルヴェスタ様のバイタルサインをミリ単位でスキャンしていく。
遠目には完璧な美男子に見える。
だが――至近距離に立った瞬間、私の嗅覚が捉えたのは、香水の奥からかすかに漂う、微量のアセトアルデヒドの甘酸っぱい代謝臭。
そして、男の精悍な顔立ち。
眉間が、ほんのわずか――コンマ数ミリだけ、痛みに耐えるように険しく寄せられている。
首筋の頸動脈の拍動は、安静時としては明らかに速い。毎分九十回前後の頻脈。
さらに、唇の粘膜がわずかに乾燥し、喉仏が時折、胃から込み上げてくる酸っぱいものを飲み下すように不自然に上下している。
(……これは……脱水、交感神経の過剰興奮、アルコール性胃粘膜刺激……! 間違いない、二日酔いと急性胃酸過多の初期症状だわ!!)
私の頭の中で、カチリと職業病のスイッチが入った。
祭壇の前で向かい合い、神父様が厳かに愛の誓約を読み上げる。
神聖なる祈りの言葉。
だが、私の耳には、ジルヴェスタ様の胃壁が「チクチク痛む……」と悲鳴を上げている音しか聞こえていなかった。
「――汝、ジルヴェスタ・フォン・ハーディンは、エレナ・ノールを妻とし、健やかなるときも、病めるときも、愛し敬い、生涯を共にすることを誓いますか」
「誓う。……我が命の尽きるその瞬間まで」
ジルヴェスタ様の、低く掠れた重低音。
その声の響きはどこまでも誠実で、私の胸を熱く震わせる。
「――汝、エレナ・ノールは、ジルヴェスタ・フォン・ハーディンを夫とし、健やかなるときも、病めるときも、愛し慈しみ、生涯を共にすることを誓いますか」
「誓います。……彼の健康を、この命ある限り管理し続けることを」
私の返答に、神父様が一瞬「ん?」と小首を傾げたが、咳払いをして式を進行させた。
「では、誓いの印として、指輪の交換を」
ジルヴェスタ様の手によって、あの月光花の庭園で捧げられたサファイアの指輪が、私の左手薬指へと滑り込む。
続いて、私が用意した、同じく薬瓶の細工が施されたミスリルの指輪を、ジルヴェスタ様の硬い指へと嵌めた。
指先が触れ合った瞬間、男の手のひらが、わずかに熱を持っているのが分かった。末梢血管の拡張。典型的なアルコール代謝時の循環動態だ。
「――これより、神の御前において、誓いのキスを」
神父様の厳かな宣言とともに、大聖堂内の空気が一段と甘やかに張り詰めた。
参列者たちが固唾を呑んで見守る中、ジルヴェスタ様が優しく私の前に歩み寄り、大きな手を私のベールへと伸ばした。
ふわりと、白いレースの帳が上げられる。
露わになった私の顔。
ジルヴェスタ様の紫の瞳が、狂おしいほどの愛おしさと情熱を湛えて揺らめいた。
男の顔が、ゆっくりと、私の唇目掛けて近づいてくる。
吐息が触れ合うほどの至近距離。
誰もが、ロマンチックな世紀の誓いのキスを確信した――まさに、その刹那だった。
――スッ。
私の右手のひらが、ジルヴェスタ様の分厚い胸板の真ん中へと、音もなく、けれど寸分の狂いもなく垂直に押し当てられた。
「…………っ?」
男の動きが、ピタリと止まった。
唇が触れ合う直前、わずか数センチの距離で、ジルヴェスタ様が目を丸くして固まる。
「……エレナ?」
大聖堂が、静まり返った。
参列者たちから「えっ?」「破談!?」「なぜ止めたんだ!?」と、動揺のざわめきが波のように広がっていく。
神父様も聖書を落としかけて口を半開きにしていた。
しかし、私は周囲の動揺など意に介さず、翡翠の瞳をキッと細め、至近距離からジルヴェスタ様の顔面を凝視した。
そして、静寂の大聖堂に、凛とした通る声で告げたのだ。
「――お待ちください、ジルヴェスタ様」
「な、何だ、エレナ……? 誓いのキスの最中なのだが……」
「問診を開始します」
「……は?」
ジルヴェスタ様が呆気に取られた声を漏らす。
私は容赦なく、臨床薬剤師の鋭い指摘を突きつけた。
「ジルヴェスタ様。……昨晩、騎士団の皆さんとの前祝いでお酒を飲みすぎましたね?」
「ぐっ……!?」
図星を突かれたジルヴェスタ様の喉が、ヒュッと鳴った。
「安静時心拍数、毎分九十二回。軽度の頻脈! 呼気には微量のアセトアルデヒド臭! 強がって背筋を伸ばしていますが、先ほどから鳩尾を庇うように横隔膜が浅くしか動いていません! 胃酸が食道下部へ逆流して、喉元がチリチリと焼けるように痛んでいるはずです! 違いますか!?」
「そ、それは……だな……」
天下の猛将が、花嫁の前で目を泳がせ、気まずそうに視線を逸らした。
「昨晩……バルツやカイエンたちが、お前との婚礼を祝うのだと樽酒を何十杯も持ち込んできてだな……。領主として、そして男として、あいつらの注ぐ祝い酒を断るわけにはいかなかったのだ……」
「言い訳は受け付けません!!」
私の怒声が、厳粛な大聖堂の天井に木霊した。
客席の最前列で、二日酔いで頭に氷嚢を乗せていたバルツとカイエンが「ヒッ……!?」と背筋を凍らせて直立不動になる。
「アルコールは体内でアルコール脱水素酵素(ADH)によって有毒なアセトアルデヒドへと分解され、さらにアルデヒド脱水素酵素(ALDH)によって酢酸へと代謝されます! しかし許容量を超えた暴飲は、この代謝回路をオーバーフローさせ、全身の細胞をアセトアルデヒドの毒性で痛めつけるのです! さらに、過剰なアルコール刺激は胃粘膜のバリアを直接融解させ、急性胃粘膜病変(AGML)を誘発する最大の危険因子なんですよ!?」
私は純白のドレスの腰元へと手を伸ばした。
パチン、と金具を外し、救急ポーチのチャックを一気に引き開ける。
手際よく取り出されたのは――銀色のスプーン、清潔な硝子瓶に入った琥珀色の水薬、そして丁寧に薬包紙で包まれた粉末生薬の包みだった。
「二日酔いで胃液が上がってきている状態で誓いのキスを交わすなんて、衛生管理上も、用法用量の観点からも、明確なコンプライアンス違反です!」
私は薬包紙をシャッと器用に開いた。
中に入っていたのは、鮮やかな黄金色の粉末。
「はい! 高純度クルクミン類似生薬と、肝機能改善のタウリン様アミノ酸合剤! そして、荒れた胃粘膜にピタリと張り付いて保護膜を作る、スクラルファート類似の粘液生薬シロップです! 今すぐこれを飲んで、胃壁を保護しなさい!」
差し出された薬とスプーン。
大聖堂の中が、完全に静まり返っていた。
世紀のロマンチックな結婚式の、誓いのキスのまさにその瞬間に。
花嫁がドレスから救急ポーチを開け、新郎に胃薬を突きつけて説教を垂れている。
あまりにも前代未聞。
あまりにもシュールで、けれど――あまりにも、この二人らしい光景。
「…………」
ジルヴェスタ様は、目の前に差し出された黄金の薬の包みと、怒りながらも心底から自分の体調を案じてくれている私の翡翠の瞳を、まじまじと見つめた。
一秒。
二秒。
やがて――。
「……クッ……フハッ……!」
男の喉から、堪えきれない笑いが漏れ出した。
肩が激しく揺れ、ジルヴェスタ様は自らの額に手を当てて、天を仰いで大笑いしたのだ。
「あっははははははっ! 全くだ……! 全くだな、エレナ!」
「な、何がおかしいんですか! 私は真面目に患者さんのバイタルを心配しているんですよ!」
私が頬を膨らませて抗議すると、ジルヴェスタ様は愛おしさに目を細め、溢れるような情愛の光を紫の双眸に湛えて、私を真っ直ぐに見つめ返した。
「おかしくて笑っているのではない。……嬉しいのだ。結婚式の誓いの瞬間にまで、私の胃袋と肝臓の心配をしてくれる花嫁など、世界中を探してもお前しかおるまい」
ジルヴェスタ様はスプーンを手に取ると、差し出された水薬と黄金の粉末生薬を、躊躇うことなく一気に口の中へと放り込んだ。
ゴクリ、と力強く喉が鳴る。
「……苦いな。だが、胃の奥がスーッと冷えて、焼けるような痛みが消えていくのが分かる」
薬を飲み干したジルヴェスタ様は、空になったスプーンを神父の持つ盆の上へと無造作に置いた。
そして、私の腰を引き寄せ、逃げ場を塞ぐようにしっかりと自らの胸元へと抱きしめたのだ。
至近距離で交わる視線。
男の唇が、私の耳元へと寄せられ、低く、甘く、熱い誓いの言葉が囁かれた。
「……ああ、誓おう。一生、お前の処方に従おう、私の可愛い主治医殿」
「ジルヴェスタ……様……っ」
「私の胃袋も、肝臓も、この心臓が打つ鼓動の一つまで……すべてお前の言いつけ通りに管理させてやる。……だから、もう待てんぞ」
次の瞬間。
――んっ……!
私の唇は、熱く、力強い感触によって、完全に塞がれていた。
今度こそ、寸分の躊躇いもない、深く、情熱的な誓いのキス。
男の逞しい腕が私の背中を抱きしめ、身体ごと持ち上げられるような熱い抱擁。
薬草の清涼な香りと、男の温かな体温が、私の全身を満たしていく。
私の手は自然とジルヴェスタ様の広い肩へと回り、その首筋をぎゅっと抱きしめ返していた。
その瞬間――。
「「「うおおおおおおおおっっっ!!!!」」」
ドォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
大聖堂のステンドグラスがビリビリと震えるほどの、割れんばかりの大歓声と拍手の嵐が爆発した。
「ヒューッ! 旦那、最高だァッ!」
第一部隊長バルツが、二日酔いの頭痛を忘れて指笛をけたたましく吹き鳴らした。
「胃薬を飲んでからの誓いのキス! これぞ北方守護騎士団の総長と、俺たちの聖女様の婚礼だァッ!」
「まったく……式次第を台無しにしてくれましたが、素晴らしい処方でしたね」
カイエン副団長が、ハンカチで眼鏡の奥の涙を拭いながら、満面の笑みで拍手を送っている。
「これにて、辺境伯領の医療安全管理体制は永久に安泰です」
「師匠ォォォッ! 万歳! エレナ師匠、万歳ィィィッ!」
老侍医オットーが両手を突き上げて万歳三唱を叫び、ロディンが魔導杖を振るって、聖堂の天井いっぱいに色とりどりの光る花びらを降らせる。
そして、二人の足元で――。
聖獣の仔テオが、空を見上げて誇らしげに胸を張り、「ワオォォォォォンッ!」と、清らかな祝福の遠吠えを天へと轟かせた。
降り注ぐ花吹雪。
地鳴りのような歓声。
唇を離したジルヴェスタ様が、息を弾ませながら私を見つめ、蕩けるような甘い笑みを浮かべた。
「愛している、エレナ」
「……私もです、ジルヴェスタ様。心から……愛しています」
二人の瞳が交わり、再び温かな笑い声が聖堂を満たしていった。
◇
『用法・用量を守らない高濃度ポーションは、ただの猛毒です!』
かつて、この世界の誰もが信じて疑わなかった、間違った常識。
痛みに耐え、吐血しながら戦うことが美徳とされ、即効性という甘い毒に内臓を焼き尽くされていた世界。
けれど、その理不尽な常識は、もうどこにも存在しない。
大聖堂の外に出ると、抜けるような初夏の青空の下、何万人もの領民たちが笑顔で私たちを迎えてくれた。
子どもたちが駆け寄り、花輪を掲げ、大人たちが歓杯の声を上げる。
誰もが自分の身体を慈しみ、正しく薬を飲み、日々の食事と睡眠を大切にしながら、生き生きとした笑顔で未来を見つめている。
薬とは、奇跡の魔法ではない。
人が人を慈しみ、命の痛みに寄り添い、共に手を取り合って歩むための――小さくて温かな、希望の杖。
そして――。
私の隣で、世界で一番誇らしげに私の手を握りしめる、不器用で愛おしい私の旦那様。
彼から注がれる、この底知れぬほど深くて熱い愛だけは。
どれだけ過剰に摂取しても――副作用、永久にゼロ。
パレードの馬車のステップに足をかけながら、私はふと、ドレスの救急ポーチから一冊の真新しい手帳を取り出した。
まだ真っ白な、新しいカルテの表紙。
ペンを執り、青空の下で振り返ると、そこには私を呼ぶ、愛する騎士たちと、笑顔の領民たち、そしてジルヴェスタ様の優しい眼差しがあった。
「エレナ、何をしている? 行くぞ」
「はいっ、今行きます!」
私は新しいカルテを胸に抱きしめ、太陽のような満面の笑顔を咲かせた。
元激務臨床薬剤師エレナ・ノールの、最高に健やかで、最高に愛に満ちた処方箋の日々は――ここから、どこまでも、どこまでも続いていくのだから。




