第59話:月光花の咲く庭で。一生の主治医になってくれないか
研究所の前庭で繰り広げられていた大祝宴の喧騒が、歩みを進めるごとに、心地よい微かなざわめきとなって遠ざかっていく。
篝火の爆ぜる音も、バルツ隊長の豪快な笑い声も、オットー先生が若者たちに講義を垂れる熱弁も、初夏の夜風にさらわれて、やがて梢を揺らす葉擦れの音へと溶け込んでいった。
私の手を包み込むジルヴェスタ様の手は、驚くほど温かかった。
かつて初めて出会った日――死の淵でチアノーゼを起こし、氷のように冷え切っていたあの指先とは、まるで別人のようだった。
皮膚の奥を力強く巡る豊かな血流。手袋越しではない、素肌と素肌が触れ合う確かな熱。男の大きな歩幅は、私の歩調に合わせて自然と緩められ、石畳の小道に落ちる二つの影が、寄り添うように重なり合っていた。
「……ジルヴェスタ様、どこへ向かっているのですか? もう城の居住区を通り過ぎて、奥庭の立ち入り制限区域に入っていますよ」
私が尋ねると、前を歩くジルヴェスタ様は足を止めずに、首だけでわずかに振り返った。
月明かりを浴びた男の横顔は、夜空の彫像のように端正で、その紫の双眸には、どこか悪戯っぽく、けれど深い緊張を孕んだ光が宿っていた。
「言ったはずだ。お前に見せたいものがある、と」
「見せたいもの……?」
「ああ。……テオが案内してくれた、あの場所だ」
その言葉に応えるように、私たちの少し前を軽快な足取りで走っていた聖獣の仔テオが、ふわりと振り返り、「わふっ」と短く喉を鳴らした。銀色の毛並みが、夜の帳の中で自ら発光するかのように淡く輝いている。
テオが小さな鼻先で押し開けたのは、城の最奥――かつては険しい岩壁と氷雪に閉ざされていた、古い石造りのアーチ門だった。
門をくぐり抜けた瞬間。
「…………っ!」
私の息が、完全に止まった。
視界を満たしたのは――息を呑むほどに美しく、幻想的な、青白い「光の海」だった。
城の奥庭、すり鉢状の静謐な谷間に広がっていたのは、見渡す限りの花の群生地。
頭上にぽっかりと浮かぶ満月の銀光を浴びて、無数の花々が一面に咲き乱れていた。
透き通るような白磁の花弁。その中心から、まるで夜空の星屑を溶かし込んだかのような、淡く、清らかな青白色の燐光が、呼吸するかのようにゆっくりと明滅している。
風が吹き抜けるたび、無数の光の花びらが波打ち、庭園全体が淡い光の波紋となって揺らめく。
鼻腔をくすぐったのは、ユルゲンの作った劇薬ポーションのようなツンとした刺激臭では断じてなかった。
ペパーミントの清涼感と、カモミールの林檎のような甘美さ、そして雪解け水のように澄み渡る、どこまでも優しく、心を芯から解きほぐす奇跡のアロマ。
「これ……『月光花』……!?」
私は思わず、繋がれていた手を離し、夢遊病者のように数歩前へと歩み出た。
白衣の裾が、淡く光る花弁に触れてサワサワと音を立てる。
「テオが見つけてくれた原生林の群生地から、株分けして移植したのだ」
背後から、ジルヴェスタ様の静かな声が降ってきた。
「お前が研究所に籠もりきりになっていたこの数ヶ月、領内の庭師たちとロディン総出で、土壌の魔素濃度と水質を徹底的に管理させた。……お前が愛したこの奇跡の花を、お前がいつでも見られる場所で咲かせたかった」
「ジルヴェスタ様が……私のために……?」
私はしゃがみ込み、目の前の一輪の花にそっと指先を伸ばした。
花弁に触れた瞬間、私の固有スキル「成分鑑定」が、その生化学的構造を網膜の奥に鮮やかに描き出す。
――完全なる、生体内適合性。
青白く光ってはいる。けれど、ユルゲンのポーションのように魔力エネルギーが周囲を破壊しながら乱反射しているのではない。
分子の結合軌道が極めて安定しており、光そのものが、生体の細胞膜を保護するための安定した抗酸化フラボノイドの結晶として機能しているのだ。
魔力毒性、ゼロ。
腎毒性、肝毒性、ゼロ。
人体の受容体に鍵と鍵穴のように寸分の狂いもなく適合し、疲弊した細胞のミトコンドリアを内側から優しく賦活化させる、天然の至宝。
「……綺麗……。本当に、息を呑むほど美しいわ……」
私の呟きは、夜風に乗ってふわりと夜空へ溶けていった。
前世の狭い調剤室で、蛍光灯の冷たい明かりの下、無機質な錠剤のヒートシートをプチプチと押し出していた日々。
あの頃の私には、薬がこれほどまでに生命力にあふれ、これほどまでに美しい光を放つものだとは、想像すらできなかった。
「エレナ」
低く、掠れた男の声が、私の名を呼んだ。
私が立ち上がり、振り返った、その瞬間――。
「え……?」
私の心臓が、大きく跳ね上がった。
月光花の青白い光の海の中。
帝国最強の猛将と恐れられ、一国の皇帝の前でさえ傲然と立ち塞がったあの「氷血の辺境伯」が――。
私の目の前で、音もなく、静かに右の片膝を大地へと突いていたのだ。
黒鉄の甲冑が、カチャリと小さな金属音を立てる。
漆黒の毛皮外套の裾が、光る花弁の絨毯の上へと優雅に広がっていた。
見上げる私の瞳を、ジルヴェスタ様の紫の双眸が、下から真っ直ぐに射抜いてくる。
その瞳には、かつて戦場で見せた冷酷な光など欠片もなかった。
あるのは――世界でたった一人の女性を前にした、一人の男としての、息苦しいほどの真剣さと、熱い熱い情熱。
「ジ、ジルヴェスタ様……? 何を……どうして、膝などを……」
私が動揺して声を震わせると、ジルヴェスタ様は懐から、手のひらに収まるほどの豪奢な小箱を取り出した。
夜空の闇を切り取ったような、深い濃紺のビロード張りの小箱。
男の硬い、タコのある指先が、わずかに震えながらその蓋をパチンと押し開けた。
「…………っ!」
小箱の中から放たれた輝きに、私の視界が奪われた。
そこに収められていたのは――息を呑むほどに純粋で、深く澄み渡る、一粒の巨大なサファイアの指輪だった。
満月の光と、足元の月光花の燐光を吸い込んで、宝石の奥底で青い星雲が渦巻いているかのように神秘的な輝きを放っている。
だが、私の目を最も強く惹きつけたのは、その石を支える台座の細工だった。
ミスリルの白銀の台座。
そこに施されていた彫刻は、王侯貴族が好むような派手な王冠や猛獣の紋章ではなかった。
それは――繊細極まる職人技によって彫り込まれた、小さな「薬瓶」の輪郭。
そして、その薬瓶を包み込むようにして優しく巻き付く、二枚の瑞々しい「薬草の葉」。
「これは……」
「王都最高の宝飾ギルドに、私の特注として作らせた」
ジルヴェスタ様の声は、低く、けれど静まり返った夜の庭園に、一語一語が魂を刻むように響き渡った。
「世界に一つしかない。……お前という、唯一無二の薬師に捧げるための指輪だ」
男はサファイアの指輪を箱から取り出すと、両手で恭しく掲げた。
その紫の瞳が、月光花よりも青く、熱く燃え上がっている。
「エレナ。……お前がこの北方の城にやって来たあの日、私の命は、あと三日の猶予すら残されていなかった」
ジルヴェスタ様の唇から紡ぎ出されたのは、二人が出会ったあの暗黒の日の記憶だった。
「度重なる劇薬ポーションに内臓を焼き尽くされ、胃は穴が開き、吐血を繰り返し、視界は濁り……私はただ、北の防壁を守るための盾として、無様に野垂れ死ぬことだけを待っていた。……生きる意味も、未来も、温もりも、すべてを諦めていたのだ」
男の胸元が、激しく上下する。
「だが――お前が現れた」
ジルヴェスタ様の口元が、愛おしさに震えるように微かに緩んだ。
「お前は、城中の騎士たちが抜剣して威嚇する中、怯むどころか烈火のごとく怒鳴り散らし、高価なポーションを叩き割ったな。『全員、その毒を捨てなさい!』と。『治療は戦いではありません、胃を休めなさい』と。……あの瞬間、私の凍りついていた世界に、雷が落ちたのだ」
ジルヴェスタ様の言葉は、前世からの私のすべての歩みを肯定するように、温かく降り注ぐ。
「お前は三日三晩、不眠不休で私の手を握り、冷えた額を拭い、一滴の命の水を口に運んでくれた。何年ぶりかに味わったお粥の温もりを、私は一生忘れない。……お前が私の身体から毒を抜き、痛みを消し去り、再び剣を振るう力を与えてくれた。……だが、お前が救ってくれたのは、私の肉体だけではなかったのだ」
ジルヴェスタ様は深く息を吸い込み、私の翡翠の瞳を真っ向から見つめた。
「お前が来てから、城内に笑い声が満ちた。兵たちが己の肉体を慈しみ、民が笑顔を取り戻し、この北方の寒冷の地が、世界で最も温かな希望の都へと生まれ変わった。……お前が、私に生きる意味をくれたのだ。お前が、私に未来という光をくれた。……お前のいない世界など、私にはもう、息を吸うことすら耐えられん」
ジルヴェスタ様は私の右手をそっと取り、自らの胸板――心臓の真上へと、押し当てた。
ドクン、ドクン、ドクン――。
掌を通じて伝わってくる、驚くほど力強く、驚くほど規則正しい、熱い心音。
かつて死にかけていた男の心臓が、今、私の手のひらの下で、一刻の狂いもなく力強く命を刻んでいる。
――「終末期(Terminal Care)から、完全寛解(Complete Remission)、そして生涯の健康維持(Lifelong Health Maintenance)へ」。
私の脳裏に、臨床薬理学における究極の到達点が浮かび上がった。
死を待つだけだった終末期の患者が、正しい医療と休薬によって病魔を完全に克服し、健康を取り戻し、社会へ復帰する。
そして――病を治して終わりではない。
その先の何十年という長い人生を、共に健やかに、笑顔で歩み続けるための「生涯の健康管理」。
医療とは、死を遠ざけるためだけのものではない。
愛する人と共に生きる時間を、より豊かに、より幸福にするためにこそ存在するのだと。
今、目の前にいる男の胸の鼓動が、何千の医学論文よりも雄弁に、その真理を証明していた。
「エレナ」
ジルヴェスタ様が、私の左手を自らの両手で包み込んだ。
至近距離で見つめ合う。
男の紫の瞳には、一切の迷いも、打算もなかった。
ただ、自らの魂のすべてを私に差し出す、究極の誓い。
「私の命も、この広大なハーディン領のすべて心も、この心臓が打つ鼓動の一つまで……すべてお前の処方箋通りに捧げる」
男の唇が、震えながら、世界で一番美しい愛の言葉を紡ぎ出した。
「――私の妻として。生涯の主治医として。……ずっと、私の隣にいてくれないか」
「…………っ!」
その瞬間、私の視界が、一気に滲んだ。
胸の奥が熱くて、苦しくて、息ができないほどに感情が溢れ出してくる。
不器用で、傲慢で、過保護で、独占欲の塊のような男。
けれど、その愛はどこまでも誠実で、どこまでも深く、私のすべてを――薬剤師としての誇りも、女性としての心も、まるごと丸ごと受け止め、抱きしめてくれていた。
前世の記憶が、走馬灯のように駆け巡る。
誰からも顧みられず、冷たい部屋で一人きりで息を引き取った、あの寂しかった夜。
今世で、元婚約者に無能と切り捨てられ、雪山へ捨てられた、あの絶望の朝。
ずっと、居場所を探していた。
ずっと、私の知識と心が、誰かの役に立ち、誰かに愛される日を夢見ていた。
その答えが、今、ここにあった。
「……ジルヴェスタ様」
私の目から、ポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
けれど、その顔には、満開の月光花よりも眩しい、満面の笑顔が咲いていた。
私は泣き笑いの表情のまま、男の胸板に自らの額をトンと預け、そして――力強く、はっきりと頷いた。
「……はい。喜んで」
私の唇から紡ぎ出されたのは、世界で一番甘く、そして世界で一番厳格な、愛の処方箋だった。
「ジルヴェスタ様の健康も、人生も……この心臓の鼓動一つまで、私が一生、責任を持って管理いたします」
「……エレナ……!」
ジルヴェスタ様の喉から、掠れた歓喜の息が漏れた。
男の大きな手が、私の左手の薬指をそっと取る。
満月の光と、青白い燐光が降り注ぐ中――。
薬瓶と薬草の葉を象ったミスリルの台座に抱かれた、深い蒼のサファイアが、私の細い薬指へと、滑り込むように嵌められた。
カチリ、と。
まるで運命のパズルの最後のピースが填まったかのような、完璧な感触。
私の左手の薬指に、永遠の青い誓いが灯った。
「っ……あ……」
指輪が嵌められた次の瞬間、私の身体は、嵐のような力強さで抱き上げられていた。
立ち上がったジルヴェスタ様が、私を軽々と抱き寄せ、自らの逞しい腕の中に閉じ込めたのだ。
私の足が宙に浮き、純白の白衣の裾が、月光花の海の上でふわりと舞い散る。
「エレナ……私のエレナ……!」
男の熱い唇が、私の濡れた目尻に、頬に、そして――震える唇の上へと、狂おしいほどの愛おしさを込めて重ねられた。
優しく、けれど絶対に離さないという、熱く深い口づけ。
男の温かな体温と、甘い吐息が、私の口内を満たしていく。
私の両腕は自然とジルヴェスタ様の首筋へと回り、その広い背中を、ぎゅっと力いっぱいに抱きしめ返していた。
足元では、満開の月光花が、二人の抱擁を祝福するように、一段と眩い青白色の光を放って揺れていた。
テオが誇らしげに空を見上げ、「ワオォォォォンッ!」と、清らかな遠吠えを夜空へと響かせる。
満天の星々と、満月の光。
そして、命の奇跡を象徴する光の花園の真ん中で。
冷徹だった氷血の辺境伯と、追放された元薬剤師の魂は――ここに、永遠の愛をもって、完璧に一つへと結ばれたのだった。
◇
――そして、数ヶ月の時が巡り。
北方の冬の厳しさが完全に去り、大地が色鮮やかな百花繚乱の絨毯へと覆われた、抜けるような快晴の朝。
ハーディン辺境伯領の城下町は、帝国の歴史上かつてないほどの熱狂と歓喜の渦に包まれていた。
領民数万人だけでなく、近隣諸侯、王都からの来賓、そして研究所の教え子たち数千人が詰めかけ、街中の広場には酒樽と祝宴の料理が所狭しと並べられている。
大聖堂の鐘が、朝からけたたましく、喜びに満ちた音色を鳴り響かせていた。




