第54話:玉座からの謝罪。王立薬草院院長のポストをあなたに
豪奢な大理石の回廊の先に待っていたのは、煌びやかな謁見の間でも、威圧的な近衛兵の銃列でもなかった。
案内された王宮奥殿の私室――柔らかな午後の陽光が円窓から差し込むその静謐な円形の間には、豪奢な毛皮も、黄金の冠も、権威を誇示するためのあらゆる装飾が取り払われていた。
部屋の空気を満たしていたのは、高価な香油ではなく、どこか薬草の煮詰まったような、そして長年患った内臓の病が醸し出す、重く湿った沈鬱な気配。
その部屋の中央に、ただ一人佇んでいたのは、グランゼル帝国の頂点に君臨する老君主その人であった。
だが、私とジルヴェスタ様が敷居を跨いだ瞬間、その老王が取った行動は、帝国の千年の歴史のいかなる記録官も予想し得ないものだった。
「…………っ!?」
私の喉から、引き攣った息が漏れた。
老王は、自らの身体を支えていた豪奢な杖を従者にも預けず床に置き、震える両膝を絨毯へと折り曲げたのだ。
白髪の頭が、床すれすれまで深く、深く折り曲げられる。
王冠を脱ぎ捨て、一国の主が、臣下であるはずの男爵令嬢に対して見せた、文字通りの「平身低頭」の平伏。
「へ、陛下……!? 頭をお上げください! い、いけません、一国の国王陛下が、私のような者にそのような礼をなさっては……!」
私が思わず駆け寄ろうとすると、老王は低く、掠れた声でそれを制した。
「……動かないでおくれ、エレナ嬢。この老骨に、言わせてほしいのだ」
老王の肩が、激しい咳き込みとともに小さく痙攣した。
床に額を擦り付けたまま、男の唇から紡ぎ出されたのは、絞り出すような痛恨の悔恨だった。
「エレナ・ノール男爵令嬢。……中央の蒙昧なる者たちの専横を許し、其方の類まれなる才覚を見抜けず、あまつさえ『無能』の汚名を着せて極寒の死地へと不当な追放を強いたこと……一国の主として、いや、民の命を預かる者として、心より……心より詫びる。本当に、すまなかった……」
言葉の一つ一つが、重い鉛のように静かな部屋に落ちていく。
その謝罪には、政治的な打算やポーズなど微塵も感じられなかった。
ただ、自らの無知と盲目によって、国の至宝を泥に投げ捨て、多くの兵士を死の淵に追いやりかけたことに対する、純粋な恥辱と痛恨の涙が、絨毯にポタリと小さな染みを作っていた。
「陛下……」
私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
怒りは、なかった。
追放されたあの日、王都の調合室でユルゲンから辞令を投げつけられた時の惨めさや悔しさは、確かに私の胸の奥に黒い棘として残っていたはずだった。
けれど、目の前で老いた身を震わせて頭を下げる国王の姿を見て、私の中の「臨床薬剤師の目」が、別の事実を痛烈に捉えていたのだ。
(……酷い……。この方もまた、被害者だったんだ……)
私の固有スキル「成分鑑定」と、前世から培ってきた病態鑑別のアンテナが、老王の全身から発せられる微細な生体シグナルを冷徹に読み取っていた。
平伏する王の首筋は痩せこけ、耳朶の血色は浅黒く濁っている。
呼吸のたびに喉の奥から聞こえる、ヒュー、ゼイ、という微かなラ音。
手首の細い血管は浮き上がり、爪の先はチアノーゼで紫色に変色し、皮膚には慢性的な腎血流不全と肝機能低下を示す、特有の黄色くくすんだ黄疸の兆候が浮き出ていた。
服の上からでも分かる、腹部の異常な膨満――おそらく、低アルブミン血症による軽度の腹水貯留。
この国王自身もまた、長年にわたり王立薬草院から献上される「光り輝く高濃度ポーション」を、病を治す霊薬だと信じ込まされ、毎日のように胃に流し込まされ続けてきたのだ。
ユルゲンの功名心と、中央貴族たちの利権の犠牲者。
内臓を内側から劇薬で苛まれ、思考力を奪われ、死の恐怖に怯えさせられていた一人の「重篤な慢性患者」の姿が、そこにはあった。
「……陛下。お顔をお上げください」
私は静かに歩み寄り、老王の震える右手を、両手でそっと包み込んだ。
薄い皮膚、冷え切った指先。
脈をそっと取ると、心拍数は毎分九十五回。不整脈の気配がある。
私が優しく力を込めると、老王は恐る恐る顔を上げ、涙に濡れた濁った瞳で私を見上げた。
「エレナ嬢……其方は、私を恨んではおらんのか……?」
「恨むなど、滅相もございません」
私は首を横に振り、白衣のポケットから清潔な麻のハンカチを取り出して、王の額に浮いた冷や汗をそっと拭った。
「医療従事者は、病に苦しむ患者さんを恨んだりいたしません。……陛下がお苦しみになられていたのは、背後で毒を薬と偽って囁き続けた者たちの罪です。陛下もまた、その間違った薬理学によって内臓を痛めつけられてこられた被害者のお一人。……どうか、ご自分を責めないでください」
「あ……ああ……」
老王の瞳から、大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
自らの権威を振りかざすこともなく、ただ一人の患者として自分を労わり、手を握ってくれる少女の温もり。
王は自らの袖で涙を拭い、ジルヴェスタ様の手助けを受けて、ようやく近くの安楽椅子へと腰を下ろした。
「……ジルヴェスタ卿。其方にも、多大なる苦労をかけた。……良き主治医を、良き伴侶を得たな」
老王の言葉に、私の背後に控えていたジルヴェスタ様は、漆黒の外套をわずかに揺らし、恭しく胸に手を当てた。
「勿体なきお言葉にございます、陛下。……エレナは、我が領のすべての民の命を繋ぐ大黒柱。彼女の存在なくして、今のハーディン領の繁栄はあり得ませんでした」
ジルヴェスタ様の紫の瞳には、国王に対する過度なへりくだりも、不遜な敵意もなかった。
ただ、自らの誇るべき至宝を、誰の前であっても堂々と誇る、揺るぎない絶対の愛と敬意だけが宿っていた。
息を整えた国王は、椅子の脇の小机の上に置かれていた、一枚の豪奢な羊皮紙へと手を伸ばした。
純白の最高級羊皮紙に、金泥のインクで流麗な紋様が描かれ、末尾には帝国の最高機密を示す紫の封蝋と、皇帝直々の玉璽が燦然と輝いている。
正式な、国家最高等級の勅許状。
「エレナ嬢。……いや、エレナ卿」
国王は居住まいを正し、重々しい、だが心からの敬意を込めた声音で語りかけた。
「其方が白竜峡谷において成し遂げた奇跡――一万の討伐軍が劇毒に倒れ、魔獣の大スタンピードが雪崩れ込む極限の戦場において、迅速なるトリアージと解毒処置を施し、敵味方合わせて『死者ゼロ』という前代未聞の生還劇を成し遂げたこと。……軍医部、ならびに生還した将兵たちからの報告書を読み、私は己の蒙昧を恥じるとともに、其方が天から帝国に遣わされた真の英才であることを確信した」
国王は、その黄金の勅許状を、両手で私へと差し出した。
「其方に、国家としての最大の栄誉と、最大限の償いを与えたい。……ユルゲン・フォン・ブラントの永久追放に伴い、空席となった『王立薬草院・総院長』の座に、其方を直々に任命する」
「……っ!?」
私の息が止まった。
王立薬草院、総院長。
帝国の全土から集まるあらゆる生薬、薬草、鉱石の研究を統括し、王宮医師団や学術院すらも指導下に置く、国家医療・調合部門の絶対的な頂点。
かつて私が下級調合師としてこき使われ、書類の山と下処理を押し付けられていた、あの組織の最高責任者の椅子。
だが、国王の言葉はそれだけに留まらなかった。
「さらに、其方のこれまでの不遇と功績を鑑み、男爵家の令嬢たる其方に、独立した一代限りの『伯爵位』を授爵する。……帝国内におけるすべての医薬品の許認可権、新薬の研究開発予算の決定権、ならびに国立医官学校の教授推薦権――そのすべてを、其方一人の裁量に委ねよう」
「は、伯爵位……!? 全土の予算決定権……!?」
私の頭の中で、カチカチと計算機の弾けるような音が鳴り響いた。
男爵令嬢から、三階級特進の伯爵への昇爵。
しかも、お飾りの名誉貴族ではない。国家予算の莫大な医療枠を自由に動かし、帝国の医療制度そのものを己の理想通りに再構築できる、絶大な行政権力の委譲。
普通の貴族令嬢であれば、あるいは出世を望む学者であれば、歓喜のあまりその場で失神してもおかしくないほどの、破格中の破格の待遇だった。
「エレナ卿」
国王は身を乗り出し、懇願するように私の翡翠の瞳を覗き込んできた。
「見ての通り、この王都の医療は腐敗しきっておる。即効性という見せかけの光に眩み、患者の身体を内側から焼き尽くす悪徳錬金術師どもが跋扈し、民も兵も苦しんでおるのだ。……私自身のこの病も、もはや余命幾ばくもない。どうか……どうか王都に戻り、総院長として我が国の医療を根底から立て直してはくれまいか。其方のその類まれなる知識と技術で、帝国を……この国を救ってほしいのだ」
静まり返る私室。
部屋の空気が、ピンと張り詰めた。
差し出された黄金の勅許状。
名誉。地位。莫大な富。そして、国家を動かす絶対的な権力。
かつて私を「無能」と切り捨て、泥水と嘲笑った王都の貴族社会に対する、これ以上ない完全なる名誉回復と、究極の勝利の証が、今まさに私の目の前に差し出されていた。
「…………」
私は、差し出された羊皮紙を見つめた。
胸の奥で、前世からの記憶と、薬剤師としての魂が、静かに波打っていた。
――国家レベルの公衆衛生行政。
――そして、ベッドサイドの臨床医療。
近代医学において、この二つは車の両輪でありながら、決定的に異なる二つの領域だ。
総院長というポストに就けば、確かにできることは膨大だ。
いわゆる「ポピュレーション・アプローチ(集団全体への介入)」。
悪質な劇薬ポーションの製造を一元的に禁止し、医薬品の製造管理および品質管理基準(GMP)を法制化し、安全域の狭い薬物に厳格なレギュラトリーサイエンスを適用する。国家予算を動かして上下水道を整備し、感染症の流行を防ぎ、公衆衛生のインフラを整える……。
それは、何十万、何百万という国民の平均寿命を押し上げるための、極めて崇高で、偉大な仕事に違いなかった。
けれど――。
(……私は、そのために生まれ変わったのかしら?)
私の心の中に、ふわりと、静かな問いかけが浮かび上がった。
前世の総合病院時代。
私は、書類仕事と予算管理に追われ、数字のデータだけを見て会議室で議論を重ねる偉い薬局長や役人たちを、たくさん見てきた。
彼らの仕事も尊い。けれど、彼らの視線は常に「統計の数字」に向いていて、ベッドの上で実際に苦しんでいる一人の患者の顔を見てはいなかった。
私が薬剤師として最も誇りを感じ、胸を熱く焦がしたのは、いつだったか。
会議室で予算書にハンコを押した時ではない。
夜遅くの病棟で、抗がん剤の吐き気に涙を流す患者の手を握り、「大丈夫ですよ、制吐剤の点滴を変えましょうね」と声をかけた時。
門前薬局の窓口で、飲み合わせに悩むおばあちゃんのお薬手帳を一緒にめくり、「この薬とこの薬は一緒に飲んじゃダメですよ」と笑顔で伝えた時。
薬を飲んで、痛みが和らぎ、ふっと患者さんの顔にこぼれた――あの、小さな小さな安堵の笑顔を見た瞬間だったはずだ。
そして――この異世界に来てからの日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡った。
吹雪の辺境伯城で、多臓器不全に苦しんでいたジルヴェスタ様にスプーンでお粥を運んだ、あの朝。
筋肉痛と鎧擦れでカサカサだった大男たちが、「神の布だ!」と湿布を奪い合って笑い転げていた、あの鍛錬場。
咳が止まらず泣き叫んでいたトビー君が、甘いオレンジシロップをちゅるちゅると飲み干し、「お薬おいしい!」と見せてくれた、あの満面の笑顔。
手帳を胸ポケットに大事にしまい、「エレナ様に健康を管理されている証だ」と誇らしげに自慢し合っていた、北方の騎士たち。
森の奥から、誇らしげにしっぽを振って伝説の月光花を咥えて戻ってきた、甘えん坊なテオの温もり。
そこにあったのは、冷たい権力闘争や書類の山ではない。
一人ひとりの息遣いを感じ、一人ひとりのバイタルを測り、お互いの顔を見て笑い合える――温かで、泥臭くて、かけがえのない「現場」の命の手触りだった。
(王都の総院長室に閉じこもって、貴族たちの顔色を伺いながら、印鑑を押すだけの毎日……? そんな生活のために、私は薬剤師をやってきたんじゃない)
私の心は、最初から決まっていた。
どれほど豪奢な肩書きを積まれようと、どれほど莫大な予算を提示されようと、私の居場所は、ここではない。
私を信じ、私の処方箋を忠実に守り、私のために命がけで剣を抜いてくれた――あの、雪深き北方の愛する人たちの隣にこそ、私の命を燃やすべき場所があるのだ。
「…………」
私は深く息を吸い込み、胸元の聴診筒をそっと指先で撫でた。
そして、顔を上げ、国王の差し出す黄金の勅許状に対して、静かに唇を開いた。
「――陛下。身に余る光栄なお言葉、心より感謝申し上げます。ですが、私の答えは――」
私が、その揺るぎない決断を告げようとした――まさに、その刹那だった。
――ドォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
部屋の空気が、突風のような衝撃波によって爆発した。
豪奢な白樺の扉が、まるで巨人の体当たりを受けたかのように激しい音を立てて左右へと弾け飛び、壁の大理石を激しく打ち鳴らしたのだ。
「な……何事だッ!?」
老王が驚愕に目を見張り、腰を浮かせた。
砂煙と冷涼な突風が渦巻く入り口の向こうから、部屋の中へと雪崩れ込んできたのは――。
絶対零度の漆黒の殺気を全身から立ち昇らせた、一人の「氷の猛獣」の姿だった。




