第53話:爛れた美貌の代償。「生活習慣を改めない方に効く薬はありません」
大公廷から王宮の奥殿へと続く、白大理石の回廊。
天井のステンドグラスから差し込む色鮮やかな光の帯が、床に落ちたボロボロの毛布と、そこに蹲る人影を残酷なまでに鮮明に照らし出していた。
「ひ……っ!?」
背後に控えていた第一部隊長バルツが、思わず息を呑んで半歩後ずさった。歴戦の戦士として幾多の魔獣や戦場の死体を見慣れている男ですら、その異様な光景に本能的な嫌悪と戦慄を露わにしている。
副団長カイエンは眉間を深く寄せ、無言のまま手帳を握る指先に力を込めた。治癒魔術師ロディンは、鼻腔をつく異臭に優雅な顔を微かに歪め、自らのローブの裾で口元を覆っている。
毛布の下から現れたその顔面は――まさに、生ける屍のそれだった。
かつて「社交界の至宝」「白皙の美姫」と謳われ、傲慢なまでに完璧な美貌を誇っていた侯爵令嬢、ミレーヌ・フォン・サルム。
豪奢な金髪の巻き毛を揺らし、エレナを「光らない泥水しか作れぬ無能」と嘲笑い、ユルゲンにすがりついて婚約者の座を奪い取った、あの華やかな令嬢の面影は、どこを探しても欠片すら残っていなかった。
その顔面の皮膚は、まるで業火で内側から焼き焦がされたかのように、どす黒い赤紫色に変色し、ゴツゴツとしたケロイド状の瘢痕組織によって醜く引き攣れていた。
額から両頬、鼻梁、そして顎先に至るまで、無数の黄色い膿疱がびっしりと群生し、破裂した箇所からは濁った黄色い浸出液(血清)が絶え間なくジュクジュクと滲み出ている。
炎症は顔面だけにとどまっていなかった。
破れかけた真紅のドレスの胸元――かつて白磁のように滑らかだったはずのデコルテや首筋にまで、真っ赤な地図状の湿疹と亀裂が広がり、皮膚がめくれ上がって生々しい真皮の赤肉が露出していた。
そこから立ち上るのは、高価な香油の残り香と混ざり合った、腐敗した生体組織の生臭い悪臭、そして――ユルゲンのポーション特有の、鼻の粘膜をチリチリと焼くような強烈な化学薬品の刺激臭だった。
「……あ……ああ……エレナ……エレナぁぁっ……!」
ミレーヌは、血と膿で汚れた自らの両手を床につき、エレナの足元へと擦り寄ってきた。
その指先は激しい痒みに耐えかねて掻きむしったのか、爪の先が割れ、爪床には黒ずんだ血がこびりついている。
「お願い……! 助けて……助けてよエレナ! 顔が……顔が痛いの! 痒いのよ! 骨の奥まで火箸を突っ込まれて、四六時中かき回されているみたいに熱くて、痛くて、気が狂いそうなのぉぉぉっ!!」
ミレーヌはエレナの純白の外套の裾を掴もうと、必死に手を伸ばした。
だが、その指先が触れる直前、ジルヴェスタの冷徹な革ブーツが音もなく前に踏み出され、彼女の手首の数ミリ手前で床を鋭く踏み抜いた。
「……控えよ」
絶対零度の威圧。
ミレーヌの喉がヒュッと鳴り、恐怖で手を引っ込める。
だが、女の狂気はもはや止まらなかった。床に額を何度も何度も打ち付け、石畳に自らの額の膿を塗りたくりながら、泣き叫び続けた。
「エレナ! 貴女、北方の女たちに素晴らしいお薬を配っているんでしょう!? あんな田舎の芋くさい令嬢たちの肌を、見違えるような陶器肌に生まれ変わらせたって、王都でも噂になっていたわ! 貴女の作った化粧水なら……あのクリームなら、私のこの顔も治せるんでしょう!? お金ならいくらでも払うわ! 宝石だって、ドレスだって、私の持っているもの全部あげる! お願いだから……私を、元の顔に戻してぇぇぇっ!!」
その懇願には、かつてエレナを不当に追い落としたことに対する反省など、微塵も含まれていなかった。
あるのはただ、己の美貌を失ったことへの絶望と、元に戻りたいという浅ましい執着だけ。
王都を出陣する前、ユルゲンから顔面に直接「高濃度ポーション原液」を浴びせられたミレーヌ。
彼女はその後、皮膚の激甚なケミカルバーンに耐えかね、さらに強い光を求めて、残っていたポーションを朝に晩に塗り重ね続けたのだ。
その結果、顔面の全層皮膚バリアは完全に融解・壊死。
醜悪な怪異へと変わり果てた彼女を前に、実家であるサルム侯爵家は冷酷極まる決断を下した。
「我が家から化け物を出したとあっては、貴族社会での発言権を失う」
そう言い放った実父によって、ミレーヌは即座に廃嫡。戸籍を抹消され、実家の離れに幽閉されたのだ。
社交界の華から、一瞬にして存在しないものとされた日陰者への転落。
絶望した彼女は、監視の目を盗んで屋敷を這い出し、法廷から出てくるエレナの噂を聞きつけて、この回廊へと待ち伏せしていたのである。
「…………」
エレナは、足元で醜く泣き叫ぶミレーヌを、ただ静かに見つめていた。
憎悪も、嘲笑も、復讐の快感もない。
あるのは――一人の臨床薬剤師として、目の前の凄惨な病変を冷静に観察する、極めてプロフェッショナルな眼差しだけだった。
「ジルヴェスタ様、少しだけ下がっていていただけますか」
「……エレナ。その女に関わる必要はないぞ」
「分かっています。ですが……患者が目の前で苦しんでいる以上、医療従事者として、現状の病態だけは正確にお伝えしなければなりませんから」
エレナはジルヴェスタを優しく見上げ、それから静かに身をかがめた。
純白の防護外套の裾を汚さぬよう引き、ミレーヌの爛れ果てた顔面の正面へと、視線の高さを合わせる。
「ヒッ……!」
至近距離でエレナの翡翠の瞳に見据えられ、ミレーヌは思わず息を呑んだ。
かつて自分が「地味で何の価値もない」と見下していた女の瞳。そこには、王都の貴族たちが向けてくるような侮蔑や嘲弄の色は一切なく、ただ冷徹なまでに澄み切った、絶対の知性が宿っていた。
「ミレーヌ様」
エレナの声は、穏やかで、けれど微塵の揺らぎもなかった。
「主訴、ならびに局所所見を確認いたしました。……結論から申し上げます。現在の貴女の皮膚は、重篤な化学熱傷、劇症型接触皮膚炎、ならびにステロイド酒さ様皮膚炎の最悪の末期病態です」
「し、酒さ……? けみかる……何なのよそれ! 呪いなの!? 悪魔の病気なの!?」
「呪いなどではありません。純然たる生化学的破壊です」
エレナは手袋をつけた指先で、ミレーヌの顔面を指し示した。触れはしない。触れるだけで表皮がズルリと剥離してしまうほど、皮膚が脆弱化しているからだ。
「人間の皮膚の最表面にある角質層は、厚さわずか〇・〇二ミリ。ラップフィルム一枚ほどの薄さしかありません。しかし、その薄い層の中に存在する細胞間脂質――セラミドや遊離脂肪酸が、水分を抱え込み、外部の毒素や細菌の侵入を完璧に跳ね返す鉄壁のバリア機能を果たしているのです」
エレナの言葉は、淡々と、だが残酷な真実を紡ぎ出していく。
「貴女はその尊いバリアの上に、ユルゲン様の作った高濃度の強酸性ポーションを、原液のまま毎日塗りたくった。……それは、自らの顔面に濃硫酸と劇薬アルカリを交互に擦り込み続けていたのと全く同じ行為です。角質層は完全に融解し、生体バリアは粉々に破壊されました。無防備になった真皮層の毛細血管は拡張しきって鬱血し、痛覚神経は剥き出しになり、常在菌のバランスが全滅した患部には黄色ブドウ球菌が異常繁殖している……。今の貴女の肌は、火傷を負った傷口に、毎日塩と毒を塗り込んでいる状態なのですよ」
「あ……あぁ……」
ミレーヌの顔から、血の気が引いていく。
自分が「美しくなるため」と信じて行っていた行為が、自らの手で顔面の肉を溶かす自殺行為であったという事実。
「これ以上、強い光や即効性を求めて高濃度ポーションを塗り重ねれば……表皮の再生能力を持つ基底層の幹細胞まで完全に死滅します。そうなれば、不可逆的な全層壊死を起こし、顔面の筋肉が露出し、敗血症を引き起こして命を落とすことになります」
「ひっ……死ぬ……!? 私が、死ぬですって!?」
ミレーヌは絶叫し、エレナの足元に再び縋り付いた。
「嫌よ! 死にたくない! こんな顔のまま死ぬなんて絶対に嫌!! エレナ、貴女の薬なら治せるんでしょう!? さっき言ったじゃない、北方の女たちの肌を治したって! あの神薬をちょうだい! 一瞬でこの爛れを消し去る、奇跡の化粧水を今すぐ塗りなさいよォッ!!」
必死に叫ぶミレーヌ。
だが、その言葉を聞いた瞬間――エレナの翡翠の瞳から、微かな哀れみすらも完全に消え失せた。
「……ミレーヌ様」
エレナの声音が、一段と低く、厳しさを増した。
「治療法が、ないわけではありません」
「え……!? あ、あるのね!? やっぱりあるんじゃないの!!」
ミレーヌの瞳に、浅ましい希望の光がギラリと灯る。
だが、エレナは彼女の言葉を、冷ややかに遮った。
「ええ。ですが、それは貴女が夢見ているような『一瞬で元の顔に戻る奇跡の魔法薬』などでは断じてありません」
エレナは胸元に手を当て、皮膚科学における絶対の鉄則を口にした。
「壊死寸前まで破壊された角質層を再生させるために必要なのは、ただ一つ――『時間』と『地道な養生』だけです」
「じ……時間……?」
「人間の皮膚細胞が生まれ変わり、角質となって剥がれ落ちる周期――ターンオーバーには、通常でも約二十八日、貴女のように深部まで損傷した肌であれば、数ヶ月から年単位の時間が必要です。その間、あらゆる化粧品、香油、そしてポーションを完全に断ち切らなければなりません。顔をゴシゴシ擦ることは厳禁。刺激の極めて少ない精製ワセリンと生理食塩水のみで患部を保護し、感染を防ぎながら、自らの生体組織が内側からゆっくりと細胞を押し上げてくるのを、じっと待つしかないのです」
エレナは厳しい眼差しで、ミレーヌの目を真っ向から見据えた。
「それだけではありません。皮膚の再生を促すためには、生活習慣の根本的な改善が不可欠です。夜更かしをやめ、毎晩十分な睡眠をとること。酒や香辛料、甘味といった刺激物を完全に断ち、胃腸を休めること。日焼けを避け、規則正しい食事でタンパク質と微量元素を補い、ストレスを溜めず、ただひたすらに禁欲的な養生生活を何ヶ月も、何年も耐え抜くこと……。それが、貴女の肌を再生させる唯一無二の処方箋です」
エレナは静かに問いかけた。
「……ミレーヌ様。貴女は、即効性という甘い毒を捨て、自らの不摂生と傲慢に向き合い、その過酷で地味な養生を耐え抜く覚悟がありますか?」
静寂が、回廊を包み込んだ。
エレナが提示したのは、奇跡の魔法ではない。
人体の自然治癒力を信じ、己の肉体と生活を律することによってのみ達成される、医学の厳然たる真理。
――しかし。
その言葉を聞いたミレーヌの反応は、あまりにも絶望的なものだった。
「…………は?」
ミレーヌの口から、間の抜けた掠れ声が漏れた。
そして、その顔面が――醜悪な憤怒と侮蔑によって、ドス黒く歪んでいったのだ。
「な……何を言っているのよ……? 数ヶ月……? 年単位……!? お酒もドレスも夜会も全部やめて、ただ油を塗って寝ていろですって!?」
ミレーヌは立ち上がり、血走った目を剥き出しにしてエレナに掴みかからんばかりに喚き散らした。
「ふざけないでよ!! そんな地味で時間のかかること、この私ができるわけないでしょうがッ!! 私は侯爵令嬢なのよ!? 社交界の中心で、誰よりも美しく着飾って、男たちにかしずかれるべき特別な存在なのよ! そんなみすぼらしい生活に耐えられるわけがないでしょう!!」
唾を撒き散らし、自らの爛れた頬をガリガリと掻きむしりながら叫ぶミレーヌ。
その爪が皮膚を裂き、新たな鮮血と黄色い膿がドロリと流れ落ちる。
「出し惜しみしないでよ、この性悪女! 貴女、本当は一瞬で治す特効薬を隠し持っているんでしょう!? 私を元の美貌に戻したくないから、わざとそんな意地悪を言っているのね! いいから今すぐ出しなさい! 私の顔を一晩で真っ白な美肌に戻す、最高濃度の光る神薬を今すぐ塗りなさいよォォォッ!!」
どこまでも他力本願。
どこまでも即効性への盲信。
自らの美への執着と虚栄心がこの惨状を招いたというのに、彼女は最後まで、自らの生活習慣や内面と向き合うことを拒絶したのだ。
痛みを伴わず、努力もせず、ただ「魔法のような薬」を外から塗りたくるだけで、すべてを思い通りにできるという傲慢な幻想から、一歩も抜け出せていなかった。
「…………」
エレナは、深く、静かに息を吐いた。
その瞳から、最後の光彩が消え去った。
もはや、そこには一片の情けも、言葉を費やす価値すら残っていなかった。
「……そうですか」
エレナはすっと背筋を伸ばし、立ち上がった。
純白の防護外套を翻し、泥水に塗れて喚き散らすミレーヌへ、完全に背を向けた。
「ミレーヌ様。……薬とは、自ら治ろうとする患者の身体の治癒力を、ほんの少し手助けするための杖に過ぎません」
エレナの冷徹な声が、回廊の大理石に反響する。
「自らの肉体を慈しむ意志を持たず、生活習慣を改める覚悟もない患者には……この世のいかなる名医も、いかなる神薬も、効果を発揮することは不可能です」
そして、エレナは最後の一言を、絶対零度の引導として叩きつけた。
「――生活習慣を改める意志のない方に、差し上げられる薬は一滴もありません」
「な……っ!? 待ちなさいよエレナ! 待ちなさいったら!!」
ミレーヌの絶叫が背後で響き渡る。
だが、エレナは二度と振り返らなかった。
ジルヴェスタが冷酷な眼差しでミレーヌを一瞥し、近衛兵たちへ顎をしゃくると、衛兵たちが一斉に槍を交差させ、這い寄ろうとするミレーヌを完全に遮断した。
「エレナァァァッ! 助けなさいよ! 痛いのよ! 顔が……私の顔がぁぁぁっ! ああああああっっっっっ!!!!」
回廊の床に突っ伏し、自らの爪で顔面を掻きむしりながら、獣のようにのたうち回るミレーヌ。
引き裂かれた真紅のドレスの裾が、泥と自らの血で赤黒く染まっていく。
かつて他者を踏みにじり、即効性という甘い毒に溺れ続けた女の――あまりにも救いのない、あまりにも自業自得な、完全なる自滅の結末だった。
◇
狂乱の叫び声が背後へと遠ざかり、回廊に再び厳粛な静寂が戻った。
「……エレナ」
隣を歩くジルヴェスタが、低く、気遣うように声をかけてきた。
「胸が痛んだか」
「……いいえ」
エレナは前を向いたまま、小さく首を横に振った。
その翡翠の瞳は、一点の曇りもなく澄み渡っていた。
「前世でも……同じような患者さんをたくさん見てきましたから。生活習慣病の薬を飲みながら、暴飲暴食をやめず、『もっと強い薬をくれ』と怒鳴り散らす人たちを。……薬は魔法ではありません。本人が変わろうとしない限り、病気を根本から治すことなどできないのです。……私は、自分のやるべきことをしただけです」
「そうか」
ジルヴェスタは満足そうに口元を綻ばせると、エレナの小さな手を、自らの大きな手で包み込んだ。
手袋越しではない、温かな男の体温。
その力強い温もりに、エレナの胸の奥が、じんわりと温かさに満たされていく。
「お前のその揺るぎない正しさが、私は何よりも誇らしい」
「……ジルヴェスタ様ったら、またそうやって……」
エレナが照れ隠しに俯いた、その時。
「――ハーディン辺境伯閣下、ならびにエレナ・ノール男爵令嬢。王宮奥殿・謁見の間へご案内いたします」
近衛長が立ち止まり、豪奢な白樺と金の彫刻が施された重厚な扉を開け放った。
柔らかな陽光が満ちる、静謐な円形の大広間。
そこには、近衛兵も、側近の貴族たちも、誰一人として侍らせていなかった。
広間の中央に、ただ一人――。
王冠を脱ぎ、質素なガウンを纏った老国王が、静かに佇んでいた。
そして。
エレナたちが部屋へと足を踏み入れた、まさにその瞬間。
「…………っ!?」
エレナの息が、喉の奥で止まった。
信じられない光景だった。
一国の最高権力者たる帝国の老君主が――。
エレナの姿を捉えた瞬間、その両膝を床へと折り、白髪の頭を、胸元まで深く、深く折り曲げて――。
文字通りの「平身低頭」の礼をもって、一人の追放された男爵令嬢を迎えたのだ。




