第52話:即効性至上主義の末路。鎮痛薬なき過酷な鉱山刑
大公廷を満たしていたのは、もはや裁判の場に漂うべきざわめきですらなかった。
それは、巨大な断頭台の刃がギギギと巻き上げられ、処刑の時を待つ広場のような、重苦しく息の詰まる静寂だった。
玉座の前で立ち上がった老国王の手には、純金の笏が固く握りしめられている。
長年の病魔と衰弱によって落ち窪んでいたその眼窩の奥には、今や帝国の最高主権者としての、怒りと峻厳たる威厳が燃え盛っていた。
国王は、証言台に凛として立つエレナ・ノールを見つめ、微かにその顎を引いた。次いで、その視線を冷酷な刃のように研ぎ澄ませ、床に這いつくばる二人の被告人――ヴァルター卿とユルゲン・フォン・ブラントへと叩きつけた。
「……判決を言い渡す」
老王の低く、濁りを帯びた声が、石造りの大公廷の隅々にまで染み渡る。
書記官のペン先が止まり、最高司法卿が深々と頭を垂れる。
「中央騎士団長ヴァルター・フォン・ゼルバッハ。其方は軍の最高司令官たる地位にありながら、現場軍医たちの正当な警告を握りつぶし、不当に拘束した。さらに、有効性と安全性が検証されていない劇薬を兵に強要し、自滅の危機を招いた上、戦場において部下数千名を遺棄して敵前逃亡を図った。その罪、軍律刑法第一二条における最高刑に値する」
ヴァルター卿の顔面から、ボトボトと冷や汗が落ち、石畳を濡らす。
「よって、ヴァルター卿を中央騎士団長より即刻解任。騎士位の剥奪、ならびに帝国南端・孤島収容所における終身禁錮刑に処す。二度と日の光を拝むことは叶わぬものと心得よ」
「な……そ、そんな……! 陛下、ご慈悲を! 私は帝国のために――」
ヴァルター卿が悲鳴を上げようとした瞬間、近衛兵の鋭い槍の柄が男の背中を強打した。
ドサリと床に打ち倒され、猿轡を噛まされて口を塞がれる元騎士団長。
そして――。
老王の視線が、最後に、折れた手首を抱えて失禁し、泥に塗れて震えるユルゲンへと落とされた。
その瞳に宿ったのは、一国の君主としての怒りだけではない。一人の「病に苦しむ患者」として、医療という神聖なる行為を己の虚栄心のために弄んだ悪徳研究者に対する、底知れぬ嫌悪と侮蔑だった。
「――そして、ユルゲン・フォン・ブラント」
「ひっ……! へ、陛下……!」
ユルゲンの喉が、悲鳴のように引き攣った。
「其方は王立薬草院筆頭錬金術師の地位を濫用し、生化学的根拠のなき劇毒を『奇跡の神薬』と偽って軍へ納入した。度重なる副作用の隠蔽、データの改ざん、さらには自らの医療過誤を隠滅せんとして、北方の守護者たるハーディン領を逆賊と誣告し、国家を未曾有の内乱の危機へと陥れた。その大罪、万死に値する」
「ち、違います! 私は天才です! 私の調合は完全無欠だったのです! 私を殺せば、帝国の薬学は百年遅れますぞ!!」
ユルゲンは泥まみれの膝で前へ進み出ようとし、戒具の鎖をジャラジャラと激しく鳴らした。
だが、国王はその見苦しい叫びを一言のもとに切り捨てた。
「黙れ、ペテン師が。其方が撒き散らしたのは学問ではない。ただの破滅だ」
玉座の笏が、床へと重々しく打ち鳴らされた。
カァァァンッ! と甲高い金属音が法廷を震撼させる。
「判決を下す! ユルゲン・フォン・ブラント! 其方の王立薬草院筆頭錬金術師の資格を永久に剥奪! ブラント侯爵家の嫡男としての身分、貴族籍の剥奪! 平民への降格、ならびに全財産の没収! ――さらに!!」
老王の声音が、絶対零度の氷壁となって宣告された。
「……帝国最北端、永久凍土の地下に穿たれた『フロスト・ヘル極寒鉱山』における――無期限の強制労働刑に処す!!」
「「「――――ッッッ!!!!」」」
法廷全体が、息を呑んで凍りついた。
フロスト・ヘル極寒鉱山。
それは、太陽の光が一年中射し込むことのない、地下数百メートルの永久凍土層。
気温は常に氷点下二十度を下回り、落盤と極冷の地下水、そして硬質なミスリル鉱石の粉塵が舞い散る、帝国内で最も過酷にして生還不能とされる絶望の流刑地だった。
かつて栄華の限りを尽くし、絹の衣服と高価な香油に浸りきっていた温室育ちの貴族にとって、それは死刑以上の、生き地獄の宣告に他ならなかった。
「う……う、嘘だ……! 嘘だぁぁぁっ!!」
ユルゲンは自らの髪を狂ったように掻きむしり、床に額を打ち付けながら絶叫した。
「お待ちください! 私は天才錬金術師ユルゲン・フォン・ブラントだぞ! 王都最高学府を首席で卒業したこの私が、なぜ泥を掘らねばならんのだ! なぜツルハシなど持たねばならんのだ! 父上! 父上、助けてください! 私を弁護してくださいッ!!」
ユルゲンは傍聴席の前列に座る実父、ブラント侯爵へと向けて必死に手を伸ばした。
だが――。
ブラント侯爵は、我が子のその無様な姿を一瞥すると、心底汚らわしいものを見るように眉をひそめ、冷酷に顔を背けた。
侯爵家としても、国家反逆と一万の軍勢に対する薬害テロの主犯を出した以上、家門の取り潰しを免れるためには、ユルゲンを完全にトカゲの尻尾切りとして切り捨てるしかなかったのだ。
「父上ぇぇぇっ! 見捨てるのですか!? 私の才能を愛していたはずではないですかァッ!!」
「連れて行け」
最高司法卿の冷たい手が振り下ろされた。
直ちに、屈強な法廷衛兵四名が歩み寄り、泥と汚水にまみれたユルゲンの両脇を抱え上げた。
ガシャガシャと擦れ合う重い鉄枷。
引きずられていくユルゲンの足元が、石畳に無様な泥の筋を描いていく。
――その時だった。
「――が、ぎゃあああっ!? う、腕が……腕が痛いぃぃぃっ!!」
衛兵に手荒く腕を掴まれた瞬間、ジルヴェスタによって叩き折られていたユルゲンの右手首が激しく揺すぶられた。
橈骨遠位端の完全骨折。
整復もされず、添え木で雑に縛られただけの患部の中で、砕けた骨片が周囲の痛覚神経と毛細血管を容赦なく擦り上げたのだ。
ユルゲンの額から、脂汗が滝のように噴き出す。
男は白目を剥き、激痛に身悶えながら、必死の形相で顔を上げた。
そして――。
証言台の脇、漆黒の外套を羽織ったジルヴェスタの隣に立つ、純白の防護外套を纏ったエレナの姿を、その濁った瞳に捉えたのだ。
「あ……エ、エレナ……!」
ユルゲンは、自らを掴む衛兵の腕を狂ったような力で振りほどこうともがき、床へと転がり落ちた。
泥まみれの腹を擦りつけ、まるで足をもがれた芋虫のように、エレナの足元目掛けて這いずり寄ってくる。
「エレナ! エレナ、頼む! 助けてくれ! 昔の情を思い出してくれぇぇっ!」
ユルゲンはエレナの足元に額を擦り付け、折れた右手首を左手で抱え込みながら、涙と鼻水を撒き散らして懇願した。
「痛いんだ! 手首が……骨の奥が燃えるように熱くて、ズキズキと頭に響いて気が狂いそうなんだ! あんな極寒の鉱山へ送られたら、私は死んでしまう! 頼む、せめて……せめて痛みを止める薬だけでも持たせてくれ! お前の作った、あの痛みを消す塗り薬や、湿布をくれ! 痛みを止めてくれエレナァッ!!」
かつて、エレナが調合していた地味なハーブバームや冷感湿布を「泥水」「光りもしないゴミ」と嘲笑い、足蹴にしてゴミ箱へ叩き捨てていた男が。
今や、自らの身体を苛む激痛に耐えかねて、その「泥水」を恵んでくれと、涙を流して足元に這いつくばっている。
あまりにも無様で、あまりにも滑稽な、自業自得の極致。
大公廷にいた貴族たちも、将校たちも、誰一人として同情の声を上げる者はいなかった。
ただ、冷え切った軽蔑の眼差しが、転がる元天才錬金術師へと突き刺さる。
「…………」
エレナは、足元で震えるユルゲンを、静かに見下ろした。
その翡翠の双眸には、憎しみも、復讐の歓喜も浮かんでいなかった。
ただ、生命の理を冒涜し、自ら破滅の穴へと飛び込んだ愚者を見つめる、絶対零度の哀れみと、臨床薬剤師としての厳格なる正論だけが宿っていた。
「……ユルゲン様」
エレナの声が、静まり返った法廷に、澄み切った鐘の音のように響いた。
「手首の骨折、そして神経への過剰刺激……。お辛いでしょうね。骨膜には無数の痛覚受容器が密集しています。固定もされず、冷気刺激に晒されれば、局所のプロスタグランジン産生は跳ね上がり、痛みの閾値は限界まで低下します。夜も眠れず、わずかに腕を動かすだけで、脳を万力で締め上げられるような激痛が走るはずです」
「そ、そうだ! そうなのだエレナ! 分かってくれるのか!? なら早く、早くその痛みを消す薬を――」
すがるように顔を上げたユルゲンの言葉を、エレナは冷ややかに遮った。
「――ですが、お断りします」
「……え?」
ユルゲンの表情が凍りつく。
エレナは白衣のポケットに両手を滑り込ませたまま、一歩も動かず、淡々と告げた。
「ユルゲン様。あなたご自身が、かつて私に仰ったのですよ。……王立薬草院の調合室で、私が兵士たちの内臓と痛みを案じて鎮痛生薬の配合を提案した時、あなたは嘲笑いながら何と言いましたか?」
エレナの言葉が、過去の記憶のナイフとなって、ユルゲンの脳裏を抉り出す。
『痛みに耐えてこそ一人前だ』
『即効性の魔力で無理やり肉体を動かせばいい』
『痛覚などという軟弱な甘えを薬で消そうとするから、兵が腑抜けになるのだ』
「……あ……」
ユルゲンの喉が、カチカチと音を立てて痙攣した。
「ご自分の掲げた崇高なる理論です」
エレナの声には、一片の容赦もなかった。
「どうか、その身をもって、ご自分の理論を証明してきてください」
「ひ……っ!?」
「医学において、適切な疼痛管理を怠ることが、人体にどのような破滅をもたらすか……。近代薬理学を修めた者なら、誰もが知っています。持続的な劇痛は、交感神経を慢性的に異常興奮させ、末梢血管を収縮させて組織の虚血を悪化させます。食欲は失われ、免疫機能は急降下し、睡眠を奪われた脳は不可逆的な精神疲弊へと追い詰められていく」
エレナは手元のカルテ帳を指先でトンと叩いた。
「痛みとは、生体が発する最大の警告シグナルであり、それを適切にコントロールすることこそが、人間が尊厳を保って生きるための絶対の前提条件なのです。……あなたは、その痛覚管理のすべてを『軟弱なゴミ』と切り捨て、兵士たちに激痛を耐えることを強要し、麻痺薬で無理やり身体を動かさせ、内臓を溶かして使い潰した」
エレナの視線が、絶対の審判の刃となってユルゲンを射抜く。
「他人の痛みを嘲笑い、他人の苦痛を軽視し続けた人間に、痛みを止める権利などありません。……極寒鉱山へ行きなさい、ユルゲン・フォン・ブラント。あそこには、あなたが馬鹿にした『地味な湿布』も、『副作用のない痛み止め』も――あなたを救う薬など、一滴たりとも存在しませんから」
「――――ッッッ!!!!」
絶望。
完全無欠の、逃れられぬ医学的因果応報。
自らが他者に強いてきた「根性論と激痛の世界」へ、今度は自分自身が、鎮痛薬の一欠片すら許されずに放り込まれるのだ。
これから彼を待っているのは、永久凍土の暗闇の中で、折れた手首の激痛に毎秒苛まれ、骨を軋ませながら、一生ツルハシを振るい続けるという、終わりのない地獄。
「い、嫌だ……! 嫌だぁぁぁっ! 助けてくれ! エレナ! 頼む、嘘だと言ってくれぇぇぇっ!!」
ユルゲンは狂乱し、泥水を撒き散らしながらエレナの白衣の裾へ飛びつこうとした。
――その、刹那。
ズンッ……!
大公廷の大理石の床が、目に見えるほどの衝撃波で鳴動した。
エレナの前に音もなく立ちはだかったのは――漆黒の正装を纏ったジルヴェスタだった。
男の紫の双眸から放たれた絶対零度の殺気は、ユルゲンの全身の毛穴を一瞬にして凍結させるほどの密度を誇っていた。
「……これ以上、我が妻(予定)の前にその薄汚いツラを晒すな」
ジルヴェスタの地を這うような低音。
男の手が、腰の佩剣の鍔へとわずかに触れただけで、ユルゲンは恐怖のあまり喉を詰まらせ、床にへたり込んだ。
「衛兵。この汚物を今すぐ我が視界から叩き出せ。……北方の極寒の地へ運ぶ際、いかなる毛布も、いかなる湯も与えるな。『根性で耐えろ』とな」
「ハッ!」
屈強な衛兵たちが、今度こそユルゲンの襟首を力任せに掴み上げた。
泥水の中に引きずられていく元天才錬金術師。
「エレナァァァッ! エレナァッ! 痛い! 手首が痛いぃぃぃっ! 助けてくれ! 薬を……痛み止めをくれぇぇぇぇぇぇっっっっっっ!!!!」
大公廷の重厚な扉が開かれ、ユルゲンの絶叫が廊下の奥へと引きずり出されていく。
遠ざかる悲鳴。
やがて、バタン! と重い鉄の扉が閉ざされ、その見苦しい断末魔は、永遠に法廷から遮断されたのだった。
◇
静寂が戻った大公廷。
傍聴席の貴族たち、軍部の将校たち、そして医師組合の長老たちが、誰からともなく立ち上がり始めた。
そして――。
パチ、パチ、パチ……。
誰かの小さな拍手が、瞬く間に法廷全体を巻き込む、割れんばかりの万雷の拍手と歓声の嵐へと爆発した。
「見事だ……! これぞ真の医療の勝利だ!」
「エレナ・ノール男爵令嬢万歳! ハーディン辺境伯万歳!」
「正義は成された! 医学の栄光が取り戻されたのだ!」
拍手喝采の嵐の中心で、エレナはそっと安堵の息を吐き出し、胸元の聴診筒に手を当てた。
終わったのだ。
自分を理不尽に追放し、世界を偽りの光で欺こうとした元凶への、完全なる断罪。
暴力による復讐ではない。
自らが貫き通した「科学の正論」と「命への誠実さ」によって、悪徳を完全に打ち砕いた瞬間だった。
「……よくやったな、エレナ」
隣に立つジルヴェスタが、人目を憚ることなく、大きな手でエレナの頭を優しく撫でた。
その紫の瞳には、誇らしさと、狂おしいほどの愛おしさが満ち溢れている。
「ジルヴェスタ様……ありがとうございます。皆様のおかげです」
「私の妻(予定)なのだから、当然だ」
「も、もう! まだ(予定)なんですから、こんな大勢の前で言わないでください!」
エレナが顔を真っ赤にして抗議すると、ジルヴェスタは満足そうに口元を綻ばせた。
後ろでは、バルツが「ヒューッ!」と指笛を鳴らし、カイエンが手帳に何事かを書き留めながら優雅に一礼し、ロディンが「ああ、法廷の全員がエレナ様の信徒になってしまいましたね」と微笑んでいる。
大公廷の審理は、ここに完全なる正義の執行をもって幕を閉じた。
エレナたちは、国王からの私的な謁見を待つため、衛兵の先導のもと、静かな王宮の回廊へと足を踏み出した。
――しかし。
大公廷から奥殿へと続く、大理石の回廊の曲がり角。
華やかなステンドグラスの光が差し込むその通路の先に――異様な、あまりにも異様な「影」が、待ち受けていた。
「…………っ?」
先頭を歩いていたジルヴェスタが、ピタリと足を止めた。
男の紫の瞳が、瞬時に警戒の色を帯びて細められる。
エレナもまた、その曲がり角から漂ってきた「臭気」に、反射的に鼻腔を押さえた。
高価な香油ではもはや覆い隠すことのできない、腐敗した生体組織の生臭い悪臭。
そして、鼻の奥をツンと焼き焦がすような、劣化した高濃度魔力ポーションの強烈なケミカル臭。
「……あ……ああ……」
回廊の柱の陰から、ズリ……ズリ……と、足を引きずるような不気味な音が響いてきた。
現れたのは――頭からすっぽりと、ボロボロの汚れた毛布を被った、痩せ細った人影だった。
高級な真紅のドレスの残骸が毛布の裾から覗いているが、泥と黄色い浸出液で汚れ、見る影もない。
人影は肩を激しく上下させ、獣のような荒い息を吐きながら、一直線にエレナ目掛けて突進してきたのだ。
「止まれ! 何奴だ!」
バルツが大剣の柄に手をかけ、前に出ようとする。
だが、その人影は衛兵の制止を擦り抜け、エレナの足元へと、まるで崩れ落ちるようにして両膝を突いた。
ドサァッ……!
そして――。
頭を覆っていた汚れた毛布が、バサリと床へと滑り落ちた。
「エ……レナ……! エレナぁぁっ……!!」
掠れた、喉を掻きむしるような金切り声とともに現れた、その「顔面」を目にした瞬間。
エレナの息が、完全に凍りついた。
そこにいたのは――かつて「社交界の至宝」「白皙の美姫」と謳われ、エレナから婚約者を奪い取った張本人。
侯爵令嬢、ミレーヌ・フォン・サルムの、完全に崩壊した成れの果ての姿だった。




