第55話:絶対零度の乱入。「陛下、それは困ります。彼女は私の伴侶です」
吹き飛んだ白樺の分厚い扉が、大理石の壁面に激突して凄まじい反響音を轟かせた。
木片と漆喰の微粒子が白い霧となって舞い散る中、部屋の温度が目に見える速度で急降下していく。円窓から差し込んでいた暖かな陽光すら、その侵入者が纏う絶対零度の気迫によって凍結したかのように、青白く色褪せて見えた。
砂煙を切り裂いて大股で踏み込んできたのは――漆黒の毛皮外套を嵐のように翻した、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯であった。
その紫の双眸は、吹雪の荒れ狂う極夜の空よりも昏く、冷徹な殺気を孕んでギラリと光っている。
手にした黒剣の柄には、すでに革手袋の指が寸分の隙もなく掛けられていた。一国の君主の私室であろうと、神聖なる王宮の最奥であろうと、この男にとっては敵の喉元に踏み込む戦場と何一つ変わりはしないのだと、その全身から放たれる圧倒的な「覇気」が雄弁に物語っていた。
「へ、陛下をお守りせよッ!」
回廊に待機していた近衛騎士たちが、抜剣の金属音を響かせながら慌てて私室へと雪崩れ込もうとする。
だが――その近衛兵たちの進路は、一瞬にして鉄の壁によって塞がれた。
「動くな、王都の腰抜けども。……一歩でもその敷居を跨いでみろ。貴様らのその薄っぺらい喉笛を、まとめて輪切りにしてやるぞ」
通路を塞ぐようにして立ちはだかったのは、身の丈を超える鋼鉄の大剣をやすやすと肩に担いだ、第一部隊長バルツだった。
金髪を逆立て、獰猛な野獣の笑みを浮かべる大男の全身からは、湯気のような闘気が立ち上っている。大剣の切っ先が床の大理石をかすかに削るだけで、近衛兵たちは金縛りに遭ったように足を止めた。
「おやおや、物騒ですね。ですがバルツ隊長の言う通りですよ」
バルツの背後から、優雅に銀糸のローブを揺らして進み出たのは、治癒魔術師ロディンだった。
その陶器のような白い顔には、冷酷無比な微笑が張り付いている。掲げられた魔導杖の先端には、青碧の幾何学魔導陣が三重に重なり合い、触れたものを分子レベルで過熱・破砕する高密度魔力が、バチバチと不気味な紫電を散らしていた。
「あまり刺激しないでいただけますか? 私の魔力回路は、エレナ様の処方のおかげで今や生涯最高の調子なのです。加減を誤って、この王宮の上層階ごと吹き飛ばしてしまっては、後始末が面倒ですからね」
さらに、その二人の間を縫うようにして、副団長カイエンが眼鏡の位置を指先で直しながら、静かに歩み出た。
手には、軍用通信記録と数枚の公的書面。
「近衛隊長殿。我が領の正規部隊および王都駐留の北方騎士団五百騎が、すでにこの奥殿庭園を取り囲み、王宮外周の防衛ラインを掌握しております。……無駄な血を流したくなければ、その錆びたサーベルを鞘にお納めなさい」
完璧な包囲。完璧な制圧。
北方守護騎士団の主力幹部が勢揃いし、王宮の精鋭であるはずの近衛兵たちを、わずか数秒で完全に戦意喪失へと追い込んでいた。
「な……な、何事だ……! ジルヴェスタ卿、狂ったか! ここは国王たる私の私室であるぞ! 無礼であろうッ!!」
安楽椅子から立ち上がろうとして、腰を抜かしかけた老王が、震える声で怒声を張り上げた。
だが、ジルヴェスタ様はその怒号など、吹き抜けるそよ風ほどにも意に介さなかった。
軍靴の硬質な音を響かせ、まっすぐに、一直線に私へと向かって歩み寄ってくる。
その歩みには一片の躊躇いもなく、視線は私の姿だけに注がれていた。
「ジルヴェスタ……様……?」
私が思わず名を呼んだ、その刹那だった。
バサリ、と重厚な毛皮の擦れ合う音が響いた。
ジルヴェスタ様の逞しい左腕が、私の腰へと力強く回り込み、そのまま一切の抵抗を許さぬ速度で、私を己の逞しい胸板の奥深くへと引き寄せたのだ。
「ひゃ……っ!?」
私の足が床からわずかに浮き、次の瞬間には、男の分厚い胸元の温もりの中に、すっぽりと包み込まれていた。
背中を抱きしめる大きな手のひら。
ミスリルの外套越しであっても、男の激しい怒りと、狂おしいほどの独占欲が、熱い波動となって私の全身へと雪崩れ込んでくる。
ジルヴェスタ様は私を片腕の中にしっかりと抱え込み、私を背後の玉座や国王の視線から完全に遮断するように、自らの巨躯を盾にして立ちはだかった。
そして――。
床に転がっていたあの黄金の勅許状を一瞥すらすることなく、玉座の老王へ向けて、絶対零度の紫の双眸を突き刺した。
「――陛下」
男の唇から紡ぎ出されたのは、低く、低く、地殻を揺るがすような重低音だった。
「私の許可なく、我が領の至宝を口説くのはおやめいただきたい」
「な……く、口説くなどと、滅相もない! 私は正当なる国家の栄誉として、エレナ卿に王立薬草院総院長の座を――」
「それが口説いていると言うのだ」
ジルヴェスタ様は王の弁明を、一刀両断に切り捨てた。
抱き寄せる腕に、さらにグッと力が込められる。私の身体が、男の胸板へと隙間なく密着した。
「エレナは、ハーディン辺境伯領の筆頭医療長。領民と騎士、数万の命の健康を根底から支える、我が領の掛け替えのない大黒柱だ。……そして」
ジルヴェスタ様は顎を引き、国王の顔面を真っ向から射抜いて、世界中の誰に対しても揺らぐことのない、絶対の真実を告げた。
「――私の生涯の伴侶となる女性だ」
「ッ…………!!!!」
私の頭の中で、何かが音を立てて沸騰した。
顔面がカアァァッと信じられない熱さで燃え上がる。
国王の御前で。
国家最高権力者の鼻先で。
この男は、一切の躊躇いもなく、平然と、当たり前のように私を「生涯の伴侶」と言い切ったのだ。
前回の戦場での「妻(予定)」から、さらに一歩踏み込んだ、完全なる既成事実の宣言。
耳元で響くジルヴェスタ様の心音は、力強く、狂おしいほどに速い拍動を刻んでいた。それは、彼がどれほど本気で、どれほど必死に私を囲い込もうとしているかの、何より雄弁な生体データだった。
「じ、ジルヴェスタ卿……! 其方、本気で申しておるのか……!?」
老王が目を丸くし、絶句した。
長年、冷酷無比な「氷血の狂犬」として知られ、いかなる名門貴族の令嬢からの求婚も氷のように冷たく袖にしてきた男が、今、一人の追放された男爵令嬢を自らの腕の中に抱きしめ、獲物を奪われまいと牙を剥く飢えた猛獣のように唸りを上げているのだから。
「本気以外の何に見える」
ジルヴェスタ様の冷笑が、静まり返った私室に響く。
「陛下。王都の腐りきった権力闘争の道具にするために、彼女をこの地へお返しする気など、毛頭ございません」
「権力闘争の道具などではない! 私は、帝国の崩壊しかけた医療を立て直すため、彼女の類まれなる才能を乞い願っておるのだ! 王立薬草院の総院長となり、全土の薬学を統括することこそが、彼女にとっても最大の栄誉であり、国にとっても最大の利益ではないか!」
老王の悲痛な訴え。
一国の主として、中央集権国家の統治者として、それは一見、極めてもっともらしい「大義名分」に思えた。
――しかし。
ジルヴェスタ様は、その大義名分を、吐き気を催すような汚物を見るような眼差しで一蹴した。
「……笑わせるな」
男の紫の瞳が、侮蔑の色に染まる。
「国家の利益だと? 医療の再建だと? ……陛下。貴方たち中央の人間が、これまで何をしてきたか、本当にお忘れになったわけではあるまいな」
ジルヴェスタ様が口にした言葉。
それは、医療という行為が国家権力と結びついた時に生じる、最も根深い構造的搾取――「医療資源の地域格差と人材流出」に対する、痛烈極まりない告発だった。
「地方で地道に育ち、民の命を救ってきた優秀な医師や薬師を、中央は常に『栄転』という美名のもとに王都へと吸い上げてきた。高貴な貴族たちの若返りのため、派手な社交界の歓心を買うため、地方の医療を痩せ細らせてでも、中央にだけ医療資源と予算を集中させてきたのが、この帝国の歴史だ」
ジルヴェスタ様の手が、私の肩を包み込む。
「その結果が何だ? 王都に集まった学者どもは、臨床の現場を忘れ、患者のバイタルを直視することを放棄し、功名心と利権のために『光る毒ポーション』という化け物を生み出した。地方の最前線で命を削る騎士たちには、内臓を溶かす粗悪な劇薬を押し付け、死にかけても『根性が足りん』と切り捨ててきたではないか!」
男の言葉は、医学社会学における厳然たる真実を突いていた。
中央集権的な医療制度において、高度な医療資源や優れた人材が首都圏に一極集中することは、周辺地域における医療崩壊(医療過疎)を招く最大の主因となる。
地方から有能な医療従事者が引き抜かれれば、残された地方の民は、適切な初期治療すら受けられず、寿命を縮めることになるのだ。
王都はこれまで、辺境を「魔獣を防ぐための肉の盾」として使い潰し、その命を繋ぐための薬すらも粗悪な毒を売りつけて暴利を貪ってきた。
そして今、自らが撒いた毒で中央軍が崩壊しかけた途端、地方で奇跡を起こした唯一の薬剤師を、再び「総院長」という甘い蜜で掠め取ろうとしている。
その浅ましさ、その傲慢さに、ジルヴェスタ様は底知れぬ怒りを燃やしていたのだ。
「都合が良すぎるのだ、陛下」
ジルヴェスタ様の声音が、低く、刃となって王の喉元へと突き刺さる。
「エレナが王都で無能と罵られ、泥水を啜らされ、追放された時、王家は彼女のために何一つ手を差し伸べなかった。彼女が極寒の死地で凍え死のうが、誰一人として意に介さなかったはずだ。……それを今さら、自らの喉元に刃が突きつけられ、内臓が腐りかけたからといって、『国のため』『名誉のため』と宣って彼女を呼び戻そうとするのか?」
「う……ぐ……」
老王が言葉を詰まらせ、顔を蒼白にする。
「エレナを救い、エレナの価値を認め、エレナの処方箋に従って健康を取り戻したのは――このハーディン辺境伯領の民であり、騎士たちだ。彼女が注いでくれた慈愛と知恵は、北方の凍てつく大地に生きる者たちの血肉となって根付いている。……それを、王都の机の上の利権争いに引きずり戻すことなど、この私が天地神明に誓って許さん」
ジルヴェスタ様は、私を抱き寄せたまま、一歩前へと踏み出した。
床の大理石が、ミシリと鈍い音を立てて軋む。
男の右手は、黒剣の鍔をカチリと親指で押し上げていた。
抜き身の刃が、わずか一ミリ、闇の中で妖しく光る。
「もし……力ずくで彼女を奪おうとなさるなら」
部屋中の空気が、完全に凝固した。
息を吸い込むことすらできない、絶対の死の予感。
「――北部全軍、ならびに近隣七諸侯の連合軍をもって、今この場で王家と手切れいたしましょう」
「ヒィッ……!?」
老王の喉から、乾いた悲鳴が漏れた。
国家分裂。
内乱の勃発。
帝国の屋台骨を支える最強の軍団が、たった一人の女性を巡って、中央政府に対して公然と「宣戦布告」を突きつけたのだ。
狂気の沙汰だった。
だが、ジルヴェスタ様の瞳には、冗談や脅迫の光など微塵もなかった。
本気配分。
彼女を奪われるくらいなら、国など滅びても構わない。帝国を焦土に変えてでも、この腕の中の少女を守り抜くという、狂おしいまでの執念と愛。
さらに、扉の向こうから、恐るべき援護射撃が叩き込まれた。
「おうよ! 旦那の言う通りだぜ!」
バルツが大剣を床に突き立て、爛々と輝く野獣の目で王を睨みつけた。
「王都の狸どもめ! 俺たちのエレナ様を奪おうなんざ、百万年早えんだよ! 俺たちの湿布を、俺たちのクエン酸ゼリーを、俺たちの健康を管理してくれる天使様を、こんな饐えた臭いのする王都の檻に閉じ込められてたまるか! 奪いに来るなら、中央騎士団の残りカスどもを全員、叩き潰してやるぞコラァッ!」
「ええ、全くです」
ロディンが魔導杖を軽やかに回しながら、妖艶に微笑む。
「エレナ様が王都に残られるというなら、私は今夜にでも王立薬草院の研究棟をすべて灰燼に帰して差し上げますよ。エレナ様を縛り付けるような建物など、この世に存在する価値がありませんからね」
「事務方としても、全面的に閣下を支持いたします」
カイエンが眼鏡を押し上げ、冷酷無比な宣告を重ねた。
「すでに領内のすべての医薬品輸出ルートの封鎖手順を策定済みです。月光花のエキスはもちろんのこと、北方特産の生薬の一粒たりとも、王都へは流させません。……陛下。エレナ様を失うということは、王都が再び、あの『光る毒』の地獄へと逆戻りすることを意味するのですよ。賢明なるご判断を」
「お、前たち……」
老王はガタガタと震え、安楽椅子の肘掛けを握りしめたまま、完全に言葉を失っていた。
勝てるはずがなかった。
軍事力、経済力、そして民の命を支える医療の根幹――そのすべてが、今やこの北方の結束の前に、完全に掌握されていたのだから。
「…………っ」
ジルヴェスタ様の逞しい胸板の腕の中で。
私は、燃えるように熱くなった顔を、男の漆黒の毛皮へと押し当てていた。
(ど、どうしよう……! 胸が……心臓が破裂しそう……!)
耳元で響く男の鼓動。
自分を「生涯の伴侶」と呼び、一国の主に向かって国を捨てる覚悟を叩きつけてくれた、この男の重すぎる愛。
傲慢で、過保護で、独占欲の塊のような猛獣。
前世で誰からも必要とされず、ただ使い潰されて死んでいった私にとって、これほどまでに全身全霊で求められ、守られるということが、どれほど魂を震わせるものか。
嬉しい。
泣きそうになるほど、頼もしくて、愛おしい。
けれど――。
(……でも。私、守られているだけの『お姫様』じゃないもの)
私の胸の奥で、カチリと、もう一つのスイッチが入った。
ジルヴェスタ様の愛に溺れるのは、あまりにも心地いい。
けれど、私は薬剤師だ。
自分の人生の処方箋は、自分で書かなければならない。
男たちの背中に隠れて、王宮の圧力をやり過ごすのではなく――私自身の言葉で、私自身の意志で、この国の医療に、そして私の未来に引導を渡さなければならないのだ。
私は、深呼吸を一つした。
そして――。
トン。
ジルヴェスタ様の分厚い胸板を、自らの小さな右手のひらで、軽く押し叩いた。
「……エレナ?」
ジルヴェスタ様が驚いたように視線を落としてくる。
私はその紫の瞳を見上げ、ふわりと、けれど絶対に揺るがない微笑みを浮かべた。
「ジルヴェスタ様。……ありがとうございます。でも、私の答えは、私の口から言わせてください」
「…………」
ジルヴェスタ様は息を呑み、それから、悔しそうに、だが心底愛おしそうに口元を緩めると、抱きしめていた腕の力を、ゆっくりと緩めてくれた。
私は、男の腕の中から抜け出した。
純白の防護外套の裾を、サッと払う。
床に転がる黄金の勅許状を踏み越え、私は自らの足で、凛として――老いた国王の目の前へと、力強く一歩を踏み出したのだった。




