第49話:裁きの縄。反逆者と悪徳錬金術師の現行犯逮捕
天幕の入り口に投げ出された中央騎士団長ヴァルター卿は、まるで市場で泥水の中に落とされた巨大な豚のように、極太の麻縄に何重にも縛られたまま無様に転がっていた。
豪奢を誇った白銀の装飾甲冑には、逃走の際に擦りむいた雪泥と馬糞がこびりつき、兜はどこかへ吹き飛んで、乱れた白髪交じりの頭からは脂汗が滝のように流れ落ちている。
「放せ! 放さんか、北方の野蛮人どもがッ!!」
ヴァルター卿は芋虫のように体をくねらせ、床の敷物を顔面で擦りながら叫び声を上げた。
「私は国王陛下の名代! 帝国軍事評議会が頂点に君臨する中央騎士団長、ヴァルター・フォン・ゼルバッハ卿であるぞ! いかに辺境伯の兵とはいえ、一国の最高司令官たるこの私をこのように粗暴に扱うなど、許されると思っておるのか! 軍法会議に引きずり出し、貴様ら全員を絞首刑に処してくれるわッ!!」
唾液を泡立たせ、目を血走らせて吠え立てるヴァルター卿。
だが、その喚き声に怯える者など、この天幕の中には一人として存在しなかった。
「あぁん? 誰を絞首刑にするってぇ?」
ドスッ、と重い軍靴の音が響いた。
第一部隊長バルツが、肩に担いだ大剣の平で、転がるヴァルター卿の太鼓腹を容赦なくペチリと叩いた。
「ぐぼぇっ!?」
カエルの潰れたような悲鳴を上げる騎士団長を見下ろし、バルツは野獣のような獰猛な笑みを浮かべ、鼻を鳴らした。
「うるせえぞ、泥まみれの豚野郎が。どのツラ下げて『名代』だの『最高司令官』だの寝言を垂れ流してやがる。魔獣の大スタンピードが谷間に雪崩れ込んできた瞬間、てめえが真っ先にやったことは何だったよ? あぁん?」
バルツが大剣を雪泥の地面へと突き立て、ヴァルター卿の顔面数センチの至近距離まで顔を近づける。その眼光は、極寒の獲物を屠る猛吹雪そのものだった。
「部下に『突撃しろ、ポーションを煽れ』と喚き散らして前に押し出し、てめえ自身は魔獣の爪が一匹分見えた瞬間に、護衛の親衛隊だけを連れて尻尾を巻いて馬車に飛び乗ったじゃねえか! 味方の兵士が毒で胃を破裂させ、喉を詰まらせて雪山でのたうち回ってるのを、後ろ足で泥をひっかけて見捨てて逃げ出したクズが、どの口で軍法を語ってやがるんだコラァッ!!」
「ひ、ヒィィッ……!」
バルツの咆哮に気圧され、ヴァルター卿の顔から血の気が引いていく。
反論などできるはずもなかった。
彼が逃亡を図り、王都へ通じる後方の抜け道で辺境伯軍の伏兵に包囲された際、馬車の荷台には、自らの私財である金銀財宝と高価な毛皮だけがぎっしりと積み込まれていたのだから。
その時、静寂を破ってカツリ、カツリと冷徹な足音が近づいてきた。
歩み出たのは、副団長カイエン・アルヴァだった。
整えられた銀縁眼鏡の奥で、怜悧な青い瞳が絶対零度の光を放っている。
カイエンは懐から、紫の封蝋が押された公的な羊皮紙の巻物をスッと取り出すと、無表情のままパチンと広げた。
「中央騎士団長ヴァルター卿。並びに、王立薬草院筆頭錬金術師ユルゲン・フォン・ブラント」
カイエンのよく通る美声が、天幕の隅々にまで厳粛に響き渡る。
「帝国軍律刑法第一二条、公衆衛生管理令第四条、ならびに国家反逆処罰法に基づき、通告いたします。……あなた方両名を、軍への有害薬物散布による大量致死傷未遂罪、戦前逃亡罪、現場指揮放棄罪、ならびに国家反逆の現行犯として、その身柄を拘束いたします」
「な……な……っ!?」
ヴァルター卿の顔が、驚愕と屈辱で真っ赤に沸騰した。
「ば、莫迦な! 有害薬物の散布だと!? 戦前逃亡だと!? 私は軍の最高指揮官だ! 敵の猛攻を前に一時的な戦線再構築を試みたに過ぎん! それに、ポーションは王立薬草院が正式に納入した正規の軍用品だ! なぜ私が罪に問われねばならんのだ!」
「見苦しい言い逃れはおやめなさい」
カイエンは眼鏡を指先でクイと押し上げ、冷ややかに見下ろした。
「軍の最高責任者でありながら、調合された薬品の安全性検証を完全に怠り、現場の軍医たちによる度重なる警告を握りつぶしてオズワルド老軍医を不法に投獄した。その上で、兵の生命維持能力を無視した劇薬を強制配備し、自滅へと追い込んだ。これは過失ではありません。明白なる『未必の故意による大量虐殺未遂』です」
カイエンの宣告は、法と制度の観点から寸分の隙もない、完璧な包囲網だった。
そして――。
その横から、純白の防護外套の裾を翻し、私が一歩前へと進み出た。
白衣の胸元には聴診筒。手には、先ほどまで王都兵たちのバイタルを克明に記録していた特製カルテの束。
私の翡翠の瞳は、床に転がる二人の権力者を、ただ冷徹に射貫いていた。
「……医学的、そして臨床薬理学的見地からも、あなた方の罪は明白です」
私の凛とした声に、折れた手首を押さえて失禁していたユルゲンが、ビクリと肩を跳ねさせた。
「ユルゲン様。あなたが犯した行為は、単なる調合の失敗ではありません。近代医療において最も重く罰せられるべき重犯罪――『臨床試験不正(Clinical Trial Fraud)』、そして『悪質なる組織的薬害事件』そのものです」
「ふ、不正だと……!? 薬害だとォッ!?」
ユルゲンが泥水の中で歯を剥き出しにして威嚇しようとする。
だが、私は眉一つ動かさず、淡々とその罪状を突きつけた。
「ええ、不正です。医薬品を世に出す際、最も遵守されなければならないのは何ですか? 前臨床試験による安全性データの蓄積、第Ⅰ相から第Ⅲ相に至る段階的な臨床試験、そして用量設定のための綿密な薬物動態解析です! 未知の劇薬をいきなり一万人もの人間に一斉投与するなど、人体実験以外の何物でもありません!」
私の言葉は、前世の歴史において数々の尊い犠牲の上に築き上げられた、医薬品規制の歴史そのものだった。
「サリドマイド、スモン、非加熱血液製剤……! 歴史上、傲慢な研究者と利益を追う権力者が、安全性の検証を軽視して『即効性』と『奇跡』を謳った時、常に無辜の民が内臓を焼かれ、手足を奪われ、命を散らしてきたのです! あなたはその悪夢を、己のちっぽけな功名心のために、この異世界の戦場で再現した! データ改ざん、副作用の隠蔽、警告の無視! これは医療事故などではない……明白なる『生化学兵器を用いた大量傷害事件』です!!」
ぐうの音も出ない、医学的・倫理的な完全断罪。
ユルゲンは口を金魚のようにパクパクと動かし、脂汗をポタポタと地面へ落とすことしかできない。
――そして。
その決定的な断罪に、最後の一撃を加えたのは、他でもない。
天幕の中に横たわっていた、何百人もの「被害者たち」だった。
「……そうだッ!!」
点滴スタンドを握りしめ、ふらつく足取りでベッドから立ち上がったのは、若き小隊長ルークだった。
その瞳には、かつて王都の上官たちに向けていた畏怖など欠片もなかった。
あるのは、裏切られ、毒を盛られ、使い捨てにされかけた人間としての、燃え盛る怒りと尊厳の炎。
「俺たちも証言します!!」
ルークの声が、天幕の梁を震わせた。
続いて、隣のベッドの兵士が立ち上がる。
その隣の、胃洗浄を終えたばかりの兵士が立ち上がる。
外の雪原で焚き火を囲んでいた、数千人の王都兵たちが、一斉に天幕の周囲へと押し寄せてきた。
「俺たちも全員、法廷で証言してやるッ!」
「ユルゲン! 貴様は出陣の前、『この神薬を飲めば無敵になれる、飲まぬ者は反逆者だ』と俺たちを脅迫したな!」
「ヴァルター卿! 貴様は俺たちが腹を抱えて血を吐いた時、『根性が足りん、もっと煽れ』と怒鳴り散らしたぞ!」
「仲間が目の前で喉を詰まらせて死にかけた時、貴様らは馬車で真っ先に逃げ出したんだ! 俺たちを実験台にして殺そうとした張本人が、どの面下げて司令官を名乗るかァッ!!」
数千人の男たちの怒号が、雷鳴となって二人の頭上へ降り注ぐ。
かつては絶対の権力者として平民の兵卒を見下ろしていたヴァルター卿とユルゲン。
だが今、彼らを取り囲んでいるのは、自分たちが騙し、毒を盛り、切り捨てたはずの「生きた証拠たち」だった。
兵士たちの瞳に宿る殺気は、魔獣の牙よりも鋭く、二人の喉元へと突き刺さっていた。
「ひ……ひぃぃぃぃぃっ!」
ヴァルター卿が、己の部下たちの怒声に震え上がり、雪泥の中に額を擦り付けてガタガタと震え始めた。
誇り高き中央騎士団長としての威厳は完全に消え失せ、ただの保身に塗れた哀れな老兵へと成り下がっていた。
そして――。
追い詰められたユルゲンが取った行動は、さらに無残で、あまりにも見苦しいものだった。
「あ……エ、エレナ……!」
ユルゲンは折れた右腕を抱えたまま、膝立ちになり、泥水を引きずって私の足元へと擦り寄ってきたのだ。
その薄汚れた左手が、私の純白の防護外套の裾を掴もうと、必死に伸ばされる。
「エレナ! 頼む、助けてくれ! 私と君の仲じゃないか! 私たちは婚約者だったんだぞ!? 王立薬草院で、何年も一緒に研究をしてきたではないか!」
どの口がそれを言うのか。
あの日、王立薬草院の豪奢な調合室で、「光らない薬しか作れぬ無能」と嘲笑い、辞令を胸元に叩きつけて極寒の死地へと追放した張本人が。
ミレーヌの腰を抱き、勝ち誇った笑みを浮かべて私を踏みにじった男が。
今や、自らの破滅を前にして、捨て去ったはずの「過去の情」に縋り付こうとしているのだ。
「私を庇ってくれ! 『ユルゲン様のポーションには効果があった、倒れたのは不可抗力の事故だった』と、あの辺境伯に証言してくれ! 君の言うことなら、あの男も聞くはずだ! 頼む、減刑を……! 国王陛下への嘆願書を書いてくれ! 私を許してくれれば、もう一度君と婚約してやってもいい! 正妻として迎え入れてやってもいいんだぞッ!!」
救いようのない、どこまでも歪んだ特権意識。
死の淵に立たされてなお、自分の方が立場が上であると信じ込み、施しを与えるかのように「結婚してやる」と言い放つ浅ましさ。
天幕の中にいた騎士たちから、殺気混じりの舌打ちが響いた。
ジルヴェスタ様の大剣が、ピクリと微かに持ち上がる。
だが――。
私は、ジルヴェスタ様を手で制した。
男の剣で斬り捨てる価値すらない。
私は一歩、後ろへと静かに引いた。
ユルゲンの泥まみれの手が空を切り、私の白衣の裾に触れることすら叶わずに、虚しく床へと落ちる。
私は、白衣の裾をパッと払った。
塵芥を払うような、完全なる拒絶の所作。
「……ユルゲン様」
私の唇からこぼれ出たのは、怒りでも恨みでもない。
どこまでも冷え切った、絶対零度の「無関心」だった。
「私は、ただのしがない薬剤師です。……犯罪者の減刑を処方する権限など、持ち合わせておりません」
「エ……レナ……?」
「あなたが犯した罪は、あなたが壊した人々の身体と、あなたが踏みにじった命の重さによって、法と正義の下で厳正に裁かれるべきです。……私にできる処方は、あなたが倒れた時に点滴を打ってあげることだけ。それ以外の慈悲を、私に求めないでください」
凛冽たる宣告。
私利私欲に塗れた男の甘言を、医療従事者としての揺るぎない矜持をもって、完全に叩き落とした瞬間だった。
「う……あ……ああああああっ……!」
ユルゲンの喉から、絶望の叫びが漏れ出た。
退路は、完全に断たれた。
名誉も、地位も、過去の栄光も、そして最後の命綱と信じた元婚約者の情すらも、自らの愚行によって粉々に踏み砕かれていたのだ。
「……連れて行け」
ジルヴェスタ様の、絶対の重みを持つ声が下された。
「ハッ!」
バルツと二名の屈強な北方騎士が踏み込み、床に転がるユルゲンとヴァルター卿の首根っこを、まるで濡れた仔犬のように鷲掴みにして引き起こした。
ガチャリ、と重厚な金属音が響く。
二人の両手首、そして両足首に嵌められたのは――魔力を完全に封殺し、罪人を拘束するための、極冷のミスリル鋼で作られた「重犯罪者用鉄枷」だった。
「あ……熱い……冷たい……! 放せ、放せぇぇぇっ!」
「私は騎士団長だ! こんな鉄枷を嵌めるなど……無礼であろうッ!」
喚き、暴れる二人。
だが、屈強な騎士たちの腕力の前には、赤子の抵抗にも等しかった。
二人は屈辱と泥に塗れ、自軍の兵士たちからの蔑みの視線を浴びながら、天幕の外――後方の厳重な拘留馬車へと、引きずられるようにして連行されていった。
かつてエレナを追放し、世界を意のままに操れると信じ込んでいた二人の権力者の、あまりにも惨めで、あまりにも相応しい自業自得の幕切れ。
ざまぁの因果応報は、ここに完全なる現行犯逮捕という形で、決定的な結末を迎えたのだ。
◇
二人の罪人が連行され、天幕の入り口が開け放たれた瞬間。
外の空気が、ふわりと天幕の中へと流れ込んできた。
それは、先ほどまでの血生臭く、凍てつくような殺意に満ちた風ではなかった。
どこか清冽で、戦いの終わりを告げる、静かな静かな北方の夜の気配。
――ブォォォォォォォォォォッッッッ……。
遥か山脈の尾根から、重厚な角笛の音が響き渡った。
一つ、また一つ。
白竜峡谷の防壁から、そして周囲の稜線に布陣していた哨戒部隊から、戦火の終息を告げる「凱旋と停戦の角笛」が、夕闇の迫る紫紺の空へと高らかに吹き鳴らされたのだ。
大スタンピードの魔獣は完全に退却し、王都討伐軍の脅威は消滅した。
残されたのは――。
夕日に照らされ、黄金色に染まり始めた白銀の雪原。
そして、その広大な雪原の真ん中で、手を取り合い、生き残ったことを実感し始めている、数千人の兵士たちの姿だった。
「終わった……のね」
私が白衣の胸元に手を当て、そっと安堵の息を吐き出した、その時。
隣に立つジルヴェスタ様が、自らの漆黒の毛皮外套をふわりと脱ぎ、私の華奢な肩へと優しく羽織らせてくれた。
「ジルヴェスタ様……?」
「お疲れだったな、エレナ。……お前の処方箋が、この戦場を救った」
男の紫の瞳が、沈みゆく夕陽の光を浴びて、息を呑むほど美しく細められていた。
その温かな眼差しに見つめられ、私の胸の奥が、トクンと熱く跳ね上がる。
だが――。
本当の「奇跡」の報告は、まさにこの直後、息を切らせて駆け込んできた副団長カイエンの口から、もたらされることになるのだった。




