第48話:絶対零度の抜剣。「我が妻(予定)に触れるな」
ギラリと、毒々しい青碧の光を反射する刃が、天幕の暖かな明かりを鋭く切り裂いた。
狂気に顔を歪め、泡を吹きながら突進してくるユルゲン。
その距離、わずか二メートル。
手にした短剣の切っ先には、彼が己の失敗を覆い隠すために煮詰めた劇薬ポーションの濃縮原液――皮膚を溶かし、神経を麻痺させる即効性の毒物が、ねっとりと塗りたくられていた。
「死ねぇぇぇっ、エレナァッ!」
叫びとともに振り下ろされる切っ先。
だが――その毒刃が私の純白の防護外套に触れることなど、最初から天地が引っくり返ってもあり得ない話だった。
ビュォッッッ!
天幕の空気が、まるで巨大な破城槌で撃ち抜かれたかのように爆縮した。
目にも留まらぬ速さで視界を横切った、一条の漆黒の残影。
風花が舞い散る隙間すら許さぬ神速の踏み込みとともに、鍛え抜かれた鋼のような腕が、ユルゲンの振り下ろした右腕の軌道上へと割り込んだのだ。
次の瞬間――。
バキィィィィィィッッッッ!!!!
天幕の天井を突き抜けんばかりの、乾いた、けれど背筋の凍るような破砕音が響き渡った。
人間が素手で角材を叩き折ったかのような、暴力的なまでの破壊の音。
「――ぎゃああああああああああああああああああっっっっっっっっっっっっっっ!?!?!?!?」
鼓膜を引き裂くような絶叫が、ユルゲンの喉から噴き出した。
男の右腕の手首の関節が、あり得ない角度――外側へと直角にグニャリとねじ曲がっていた。
手から零れ落ちた毒塗りの短剣が、雪混じりの泥土の上へとポロリと落下し、虚しく転がる。
ユルゲンは左手で自らの右前腕を抱え込み、痛みのあまり白目を剥き、膝から崩れ落ちた。
だが、その激痛の叫びすら、続く一瞬の出来事によって瞬時に凍りつかされることになる。
――ヒュンッ。
大気を剃刀で削ぎ落とすような、澄み切った微かな風切り音。
ユルゲンが泥に膝をついた、そのコンマ一秒の後。
漆黒の刀身を持つ巨大な両手剣が、ユルゲンの喉首――頸動脈が脈打つ喉仏の皮膚わずか一ミリ、紙一枚の隙間を残した至近距離で、微動だにせずピタリと静止していた。
「ひ…………っ!?」
ユルゲンの絶叫が、喉の奥へと強制的に押し戻された。
唾液を飲み込むことすら許されない。喉仏をわずかでも上下させれば、その瞬間に皮膚が切り裂かれ、鮮血が噴き出すことが本能で理解できたからだ。
大剣の切っ先から立ち上る、絶対零度の冷気。
その氷の刃に触れたユルゲンの首筋の皮膚が、チリチリと白く凍傷の粉を吹き始めていた。
見下ろしているのは――。
北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。
漆黒の毛皮外套を羽織り、仁王立ちするその姿は、吹雪の山嶺に君臨する死神そのものだった。
男の紫の双眸は、ドス黒い深淵のように濁り、この世のあらゆる温もりを焼き尽くすほどの、底知れぬ殺意を宿している。
怒りで声を荒らげることすらない。
ただ、そこに存在するだけで周囲の大気を氷点下へと叩き落とす、絶対強者の放つ圧倒的な「覇気」。
「……我が領の宝であり」
ジルヴェスタ様の口から紡ぎ出されたのは、地を這うような、低く静謐な重低音だった。
しかし、その一言一言は、天幕の支柱をミシリと軋ませるほどの圧力を孕んでいた。
「私の愛する妻(予定)に……その薄汚い手で、触れようとするな」
ゴォォォォ……と、目に見えるほどの黒い魔力の奔流が、ジルヴェスタ様の全身から立ち昇る。
その凄まじい威圧を真正面から浴びせられたユルゲンの顔面は、すでに土気色を通り越して真っ青に変色していた。
ガタガタガタガタッ! と、激しく打ち鳴らされる奥歯の音。
あまりの恐怖に瞳孔は針の穴ほどに縮み上がり、心臓は過剰なアドレナリンの暴走で破裂寸前の悲鳴を上げている。
「あ……ひ……ひぃ……っ、た、たす……」
ジョボボボボボ……ッ。
静まり返った天幕に、情けない水音が響いた。
ユルゲンの股間から、生温かい黄色い液体が染み出し、泥水混じりの床へと広がっていく。
完全なる失禁。
手首をへし折られた激痛と、喉元に突きつけられた絶対の死の予感に、男の膀胱括約筋は完全にその制御を失い、自律神経ごと崩壊していた。
かつて王立薬草院の頂点に立ち、貴族たちの羨望を集めていた天才錬金術師の、あまりにも無様で、あまりにも哀れな完全敗北の姿だった。
――しかし。
その緊迫した処刑場のような空間において。
たった一人だけ、まったく別の理由で全身を硬直させ、頭から湯気を噴き出させている人物がいた。
「……………………は?」
私――エレナ・ノールである。
私の思考回路は、ジルヴェスタ様の放った「ある一言」によって、完全にフリーズしていた。
脳内メモリーがエラーを吐き出し、視界がチカチカと点滅する。
(い、いま……何て言った……?)
我が領の宝。
……うん、それはいい。これまでも散々言われてきたし、領地の医療を預かる身として、最大限の評価をしてくれているのだと理解できる。
問題は、その次だ。
『私の愛する妻(予定)』
(つ……妻(予定)ァァァッッッ!?!?!?)
カアァァァァァァァァァッッッ!!!!
全身の血管が拡張し、毎分二百ミリリットル以上の血流が顔面へと一気呵成に逆流した。
耳の奥まで火がついたように熱い。
白衣の胸元を両手でギュッと握りしめ、私は目を見開いてジルヴェスタ様を凝視した。
(な、なななな何言ってるのこの人ぉぉぉっ!? 妻!? 妻って言った!? しかも(予定)って何!? いつ私が同意したの!? 私、まだプロポーズどころか、ちゃんとした交際の申し込みすら受けてませんけど!? 不整脈の脈診をしただけですけどーーーッ!?)
パニックに陥る私の横で、張り詰めていた天幕の空気が、一瞬にして爆発的な熱狂へと反転した。
「ヒュゥゥゥゥッ! 言った! 旦那がハッキリと言ったぞオラァッ!」
第一部隊長バルツが、大剣を地面に突き刺して狂喜の雄叫びを上げた。
丸太のような腕で自らの太ももをバンバンと叩き、口笛を吹き鳴らす。
「聞いたか野郎ども! 『妻(予定)』だ! 俺たちのエレナ様は、晴れて辺境伯夫人(予定)になられたんだよッ!」
「うおおおおおおおおっ! 閣下、男前ッ!」
「さすがは俺たちの総長だ! 王都のペテン師の前で、これ以上ねえ啖呵を切ってくださったぜ!」
「おい、今夜は宴の準備だ! 祝い酒の樽を倉庫から全部引っ張り出せ!」
辺境伯騎士団の屈強な男たちが、まるで自分たちのことのように歓声を上げ、ハイタッチを交わし合う。
ベッドの上にいた王都兵たちまでもが、「お、おめでとうございます……!」「エレナ様が辺境伯夫人になられるなら、これほどめでたいことはない……!」と涙を流して拍手を送り始める始末だ。
「やれやれ……」
副団長カイエンが、手帳を閉じながら深々とため息をついた。
だが、その眼鏡の奥の瞳には、呆れ半分、祝福半分の温かな色が浮かんでいる。
「公式な軍議の場でも、これほど潔い決断力を見せていただきたいものですね。……まあ、事務方としても異論は毛頭ございません。直ちに婚姻届出書の草案と、辺境伯夫人としての公務規定の編纂に入るといたしましょう」
「ちょっと、カイエン副団長まで何を進めているんですか!?」
私が真っ赤になって叫ぶと、今度は治癒魔術師ロディンが、大仰に胸を押さえて倒れ込むような仕草を見せた。
「ああ……なんということでしょう。私の女神が、ついに氷の猛獣の巣穴へと完全に連れ去られてしまう……! ですが、閣下のあの気迫を見せつけられては、魔術師風情が口を挟む隙など微塵もありませんね。せめて結婚式のブーケには、最高級の安眠ハーブを編み込ませていただきましょう……」
「ロディンまで乗っからないで!!」
天幕の中はお祭り騒ぎの様相を呈していた。
当事者である私を完全に置き去りにして、外堀どころか城壁ごとガチガチに固められていくこの感覚。
私は羞恥と動揺で目を回しそうになりながら、目の前の黒い背中をキッと睨みつけた。
「ジ、ジルヴェスタ様! あなたという人は、こんなところで何を口走っているのですか! 『妻(予定)』だなんて、そんなデタラメな診断書みたいなことを――」
「デタラメではない」
ジルヴェスタ様は黒剣の切っ先をわずかに下ろすと、ゆっくりと振り返った。
その紫の双眸は、先ほどの絶対零度の殺気など跡形もなく消え去り、熱っぽく、深く、どこまでも甘やかな光で私を包み込んでいた。
「私の命も、この領地の未来も、すべてお前に預けると誓ったはずだ。……私の隣に立ち、私の心臓の鼓動を永遠に管理してくれる女性は、世界中を探してもお前しかいない。予定を確定事項に変えるのに、何の問題がある?」
「だ、大問題ですッ! 順序というものがあるでしょうが!」
真顔でとんでもない口説き文句を放ってくるこの男に、私の心肺機能はもはやオーバーヒート寸前だった。
――だが。
そんなピンク色のラブコメ空間を、無残な現実へと引き戻す声が上がった。
「う……ぐ……っ、あ、あああ……腕が……私の腕がぁぁぁっ……!」
床に転がるユルゲンが、折れた手首を押さえて脂汗を流し、呻き声を上げたのだ。
その声を聞いた瞬間。
私の頭の中で、羞恥心と恋愛脳のスイッチが、パチンと音を立てて強制終了した。
「……あ」
私の視線が、ユルゲンの右腕へと吸い寄せられる。
不自然に背側へと変形した手首。
橈骨遠位端の完全骨折――いわゆる「コーレス骨折(Colles' fracture)」、あるいは手根骨の粉砕を伴う重度の脱臼骨折だ。
皮膚の下で毛細血管が破綻し、みるみるうちに紫色に腫れ上がり、腫脹が急速に進行している。
「大変……! 骨折部が激しく転位しています! このまま放置したら、骨片が周囲の正中神経を圧迫して『手根管症候群』を併発し、不可逆的な手指の運動麻痺が残ってしまうわ! それに、軟部組織の内圧上昇によるコンパートメント症候群のリスクも……!」
私の臨床薬剤師としての――否、筋金入りの医療従事者としての職業病が、けたたましく警報を鳴らした。
目の前にいるのが、自分を殺そうとした元凶であろうと、失禁して転がる悪党であろうと関係ない。
骨が折れ、神経が圧迫されかけている患者がいるなら、直ちに整復し、固定しなければならない!
「オットー先生! 副木と弾性包帯を持ってきてください! 冷水で絞った冷湿布で局所をアイシングしながら、徒手整復(骨の位置を引っ張って戻す処置)を行います! 三角巾で腕を吊る準備を!」
私は白衣のポケットから手早く包帯を取り出し、迷うことなくユルゲンの元へと駆け寄ろうとした。
――その、瞬間だった。
ガシッ! ガシッ! ガシッ!
「「「止まりなさい、エレナ様ッッッ!!!!」」」
天幕の四方八方から、怒涛の勢いで手が伸びてきた。
私の右腕をジルヴェスタ様がガッシリと掴み、左腕をカイエンが制止し、前方をバルツが壁となって塞ぎ、背後からオットーが白衣の裾を必死に引っ張る。
一人の小柄な薬剤師を止めるために、北方最高幹部が総出でスクラムを組むという、極めて異常な光景が現出した。
「えっ!? な、何をするんですか皆さん! 離してください、急がないと手首の血流が――」
「放っておけ、エレナ」
ジルヴェスタ様が、眉間をこれ以上ないほど険しく寄せて言った。
「その男はお前に毒刃を向けたのだぞ。命があるだけで奇跡と思え。手首の骨が一本や二本砕けたところで、知ったことか」
「そうですぜ、エレナ様!」
バルツが大剣を構え直しながら叫ぶ。
「そんな奴、骨が曲がったままくっついて一生飯が食えなくなっても自業自得です! 情けをかける必要なんて爪の垢ほどもねえ!」
「医療資源の無駄遣いです」
カイエンも冷ややかに眼鏡を押し上げる。
「我が領の貴重な副木と包帯を、逆賊の暗殺未遂犯に消費するなど、経費の観点からも断固として承認できません。そのまま転がしておきなさい」
「し、師匠! 儂も今回ばかりは閣下たちに賛成ですぞ!」
オットーまでが涙目で訴えかけてくる。
「仇を恩で返すような真似はおやめくだされ! 師匠のお手が汚れてしまいます!」
「皆台座から……じゃなくて、何を言っているんですか!」
四方から羽交い締めにされた私は、ジタバタと足をバタつかせながら抗議した。
「医療従事者が患者の人間性でトリアージを変えてどうするんですか! 応急処置の基本原則『RICE処置』を怠れば、後遺症が残るんですよ! 痛覚神経への刺激が持続すれば、CRPS(複合性局所疼痛症候群)に移行して、一生焼けつくような激痛に苛まれることになるんです! 早く整復させてください! 引っ張ればポキッと戻りますから!」
「一生激痛に苛まれればいいではないか」
ジルヴェスタ様が、氷のように冷たい声で即答した。
「お前を傷つけようとした報いだ。むしろ私が今すぐ、残りの左手首と両足の骨も同じように整復不能にしてやりたいくらいだぞ」
「物騒なことを言わないでくださいッ!!」
必死に治療しようとするヒロインと、それを全力で阻止する過保護な男たち。
天幕の中では、前代未聞のシュール極まりない医療論争(?)が繰り広げられていた。
床に転がるユルゲンは、自らの手首の痛みに震えながら、もはや恐怖を通り越して、自分を巡って言い争う異様な集団を白目を剥いて見上げるしかなかった。
――まさに、その時だった。
「――うわぁぁぁっ! 放せ、放さんか無礼者どもッ!!」
天幕の外から、けたたましい怒号と、何かが雪泥の上を引きずられてくる重苦しい音が響いてきた。
「おい、暴れるんじゃねえよ! 泥水でも飲んで大人しくしてやがれ!」
ドサァッッッ!
天幕の入り口の天幕布が乱暴に跳ね上げられ、中へと投げ込まれたのは――。
極太の麻縄で、まるで出荷される巨大な豚のように何重にもぐるぐる巻きに縛り上げられた、一人の大男だった。
豪奢な装飾甲冑は泥と雪にまみれ、胸元についた中央騎士団長の鷲の紋章は無残に歪んでいる。
「ぶへっ……! お、おのれ……! 私は国王陛下の名代たる中央騎士団長ヴァルター卿だぞ! このような無礼が許されると思って――」
縛り上げられ、芋虫のように転がっていたのは、討伐軍の総司令官たるヴァルター卿その人だった。
その後ろから、第二部隊の騎士たちを従えて悠然と入ってきたのは、雪を払う兵士たち。
「閣下、エレナ様!」
歩兵小隊長が敬礼して報告した。
「後方の馬車で自軍の兵士を置き去りにし、王都へ向けて敵前逃亡を図っていたヴァルター卿を、逃走経路の先回り部隊が完全に包囲し、捕縛いたしました!」
「な……ッ!?」
床で手首を押さえていたユルゲンが、絶望に目を見開いた。
自分を唆し、討伐軍を組織した最高司令官までもが、一歩も逃げ出せずに生け捕りにされたのだ。
静まり返る天幕の中。
ジルヴェスタ様が、私を掴んでいた手をそっと離し、床に転がる二人の愚者――ユルゲンとヴァルター卿を見下ろした。
その紫の双眸に宿るのは、絶対の審判者の光。
自らの功名心と保身のために、一万の兵士の命を弄び、毒を撒き散らした元凶たち。
彼らに対する、逃れられぬ法の裁きの時間が――今まさに、始まろうとしていた。




