第50話:奇跡の死者ゼロ! 白衣の聖女に捧ぐ凱歌
荒れ狂っていた吹雪が、嘘のようにピタリと止んでいた。
白竜峡谷を覆い尽くしていた重苦しい鉛色の雪雲は、北の山脈を越えていく澄んだ風に押し流され、天蓋には息を呑むほどに美しい、満天の星空が広がっていた。
万年雪をいただく険しい山嶺が、月光を浴びて青白く厳かに浮かび上がる。
地上では、巨大な野外救護天幕の周囲に幾十もの篝火が焚かれ、パチパチと爆ぜる火の粉が、夜の帳を暖かな橙色に染め上げていた。
「ふぅぅぅ……っ」
天幕の片隅、折り畳みの木製丸椅子に深く身を沈めた私は、白衣の袖で額に浮いた冷や汗をそっと拭った。
指先が小刻みに震えている。
何百本もの注射筒を押し、何十人もの兵士の気道を確保し、胃洗浄のチューブを握り続け、絶え間なく脈を測り続けてきた両手は、すでに感覚が麻痺しかけるほどに酷使されていた。
純白だったはずの特注防護外套は、消毒液の飛沫と泥水、そして飛び散った薬液の染みで、すっかり歴戦の作業着のようになってしまっている。
足元では、ずっと私の護衛として寄り添ってくれていた聖獣の仔テオが、私のブーツに頭を預けて「くぅん」と労うように甘えた声を漏らしていた。
「テオ……ありがとうね。あなたのおかげで、一度も危険に晒されずに済んだわ」
私がテオの柔らかな銀色の毛並みを撫でると、テオは安心したように目を細め、静かに息を吐いた。
天幕の中は、先ほどの怒号と混乱が嘘のように静まり返っていた。
急性アナフィラキシーで気道を塞がれていた若者たちも、横紋筋融解症でコーラ色の尿を出していた重篤者たちも、アルカリ性輸液と胃洗浄、そして適切な対症療法の集中投薬によって、全員が危険水域を完全に脱していた。
規則正しい寝息が、天幕のあちこちから聞こえてくる。
それは、死の淵から生還を果たした人間たちが奏でる、何よりも尊く、力強い命の鼓動だった。
――その時だった。
バァァァンッ!
天幕の入り口の厚い防寒布が、勢いよく跳ね上げられた。
飛び込んできたのは――。
普段の怜悧沈着な仮面をかなぐり捨て、肩で激しく息を乱した副団長、カイエン・アルヴァだった。
銀縁眼鏡のブリッジは激しい疾走のせいで少し歪み、手には集計を終えたばかりの、何十枚にも及ぶ分厚い軍用報告書が固く握りしめられている。
「カイエン副団長……? どうかなさいましたか?」
私が椅子から立ち上がろうとすると、カイエンは言葉を発することすらできず、ただ胸元を押さえて荒い息を繰り返した。
その切れ長の青い瞳は、激しい衝撃と、魂の底から湧き上がるような畏怖に濡れ、激しく揺らめいていた。
天幕の中にいたバルツやオットー、ロディン、そして意識を取り戻していた王都軍の小隊長ルークまでもが、息を呑んでカイエンを凝視する。
やがて、カイエンは震える指先で眼鏡の位置を直すと、天幕の中央へと進み出た。
そして――震える声を絞り出すようにして、手にした報告書を両手で掲げたのだ。
「……信じられません」
カイエンの掠れた、だが天幕の隅々にまで透き通るような声。
「全戦域の……死傷者集計が、今しがた完了いたしました。……信じられない、前代未聞の……いや、人類の戦史における絶対の奇跡です」
「もったいぶるな、眼鏡! 結果はどうだったんだ!?」
バルツが痺れを切らして身を乗り出した。
カイエンは一度、ぎゅっと唇を噛み締め、それから――報告書の最初の数値を、大地を揺るがすような明瞭な響きで読み上げた。
「――北方守護騎士団! 大スタンピードとの直接交戦、ならびに王都軍包囲網の形成において……軽傷者、四十七名! 重傷者、ゼロ! そして――戦死者、ゼロ!!」
「おおっ……!!」
騎士たちから、どよめきが漏れた。
数千頭の凶暴な魔獣の津波を真正面から押し返したというのに、誰一人として命を落としていなかった。
だが、カイエンが次に告げた言葉は、そのどよめきを一瞬にして絶対の静寂へと変え果てさせた。
「――そして! 王都中央騎士団・討伐軍一万!」
カイエンの喉が、極度の緊張と感動で大きく上下する。
「……劇薬ポーションの副作用による重症アナフィラキシー、急性腎不全、ならびに胃粘膜病変による重篤患者、総計三千四百二十名! ……その全員に対し、エレナ様が設営された野外救護所において、迅速なる初期トリアージ、胃洗浄、吸着炭投与、アドレナリン筋注、ならびにアルカリ性強制利尿補液を施行いたしました」
カイエンは羊皮紙から目を離し、天幕の中のすべての人々を、そして私を、震える双眸で見つめた。
「……集計結果を報告いたします。……重篤者三千四百二十名中、一命を取り留めた者、三千四百二十名。……死者、ゼロ。……王都討伐軍、全軍において……戦死者、ショック死者、凍死者……一人残らず、ゼロですッッッ!!!!」
――ゼロ。
死者、ゼロ。
その言葉が、天幕の空間に落ちた瞬間。
一秒。
二秒。
世界からすべての音が消え去ったかのような、完全な静寂が訪れた。
誰もが、自らの耳を疑っていた。
数千頭の魔獣が雪崩れ込み、一万の大軍が猛毒を煽って自滅し、極寒の吹雪の中で血反吐をぶちまけていたあの地獄の戦場で。
敵味方を合わせて一万数千人もの人間が入り乱れた極限の戦場において――死者が、たったの一人も出なかった。
そんな荒唐無稽な奇跡が、歴史上のいかなる神話や英雄譚に存在しただろうか。
そして――。
「「「――――ッッッ!!!!」」」
ドォォォォォォォォォォォォォォンッッッッ!!!!
天幕が、いや、白竜峡谷の大地そのものが激震するかのような、凄まじい地鳴りのごとき大歓声が爆発した。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっっっっっっっっっっっっ!!!!」
「死者ゼロだッ! 一人も死んでねえぞォッッッ!!!!」
天幕の中の騎士たちが、衛生兵たちが、抱き合って飛び跳ねた。
ベッドの上で横たわっていた王都兵たちが、点滴スタンドを掴みながら立ち上がり、大粒の涙をボロボロとこぼしながら天に向かって叫び狂う。
その叫びは、天幕の布地を突き抜け、外の雪原へと瞬時に波及していった。
「聞いたか! 誰も死んでねえぞ!」
「俺たちの仲間が……全員、全員生きてるんだッ!」
「助かったんだ……俺たちは、生き残ったんだァッ!!」
篝火を囲んでいた数千人の王都兵と、防壁を守り抜いた北方守護騎士団の戦士たちが、雪原の上で互いの手を取り合い、泥だらけの甲冑のまま肩を抱き合っていた。
数時間前まで、殺し合うために剣を向け合っていた者同士。
侵略者と防衛者。
そんな下らない立場の壁など、今や一片の塵芥ほどにも残っていなかった。
ただ、同じ過酷な寒冷の大地に生きる人間として、理不尽な死の顎門から全員が生還したという、途方もない歓喜の濁流に身を委ねていたのだ。
「エレナ様万歳ッ! エレナ様万歳ッッッ!!」
「奇跡の薬剤師様万歳! 白衣の聖女様万歳ッ!!」
「ジルヴェスタ閣下万歳! ハーディン辺境伯領万歳ィィィッッッ!!」
数千、数万の男たちの喉から放たれる凱歌が、夜空の星々を震わせるように木霊する。
誰もが、天幕の中央に立つ一人の少女へ向けて、魂の底からの感謝と祈りを捧げていた。
――奇跡。
人々はそれを奇跡と呼び、神の御業と称えた。
だが、それは決して、あやふやな祈りやオカルトの魔術がもたらした幸運などではなかった。
徹底的な、近代臨床医学と薬理学の完全なる勝利。
救命救急の鉄則――「ゴールデンアワー(Golden Hour)」の死守。
重篤な急性薬物中毒やアナフィラキシーショックにおいて、発症から処置までの最初の六十分間が生死を分ける。
エレナは敵味方の垣根を躊躇なく飛び越え、START式トリアージによって最重症者(赤)を機械的なまでの迅速さで選別した。
迷うことなく大腿前外側部へ打ち込まれたアドレナリン筋注が、窒息寸前の気道を一分以内に押し広げた。
胃洗浄と高純度薬用吸着炭が、未吸収の猛毒が全身へ回るのを水際で完全にブロックした。
そして、温められたアルカリ性電解質補液の急速ハイドレーションが、横紋筋融解症のミオグロビンによる尿細管閉塞を物理的に洗い流し、急性腎不全による尿毒症死を寸前でねじ伏せたのだ。
適切なタイミングで、適切な生化学的アプローチを、適切な用量をもって施す。
感情論ではなく、人体の構造と物質の反応を極限まで計算し尽くした「科学の力」こそが――この極寒の戦場から、死神の影を一掃してみせたのだ。
「……はは……すごい……」
私は、地鳴りのような歓声の中心で、ぽつりと呟いた。
緊張の糸が完全に切れた瞬間、急激な脱力感が両膝を襲った。
視界がふわりと揺れ、足の力が抜けて、そのまま床へと崩れ落ちそうになる――。
――スッ。
床に倒れ込むよりも早く、逞しい二本の腕が、私の華奢な身体をふわりと抱き留めた。
温かい。
冷え切った私の身体を、芯から包み込むような、圧倒的な体温。
肩にふわりと掛けられたのは、漆黒の毛皮外套だった。
男の匂いと、冷涼な夜風の香りが混ざり合った、世界で一番安心できる香りが鼻腔を満たす。
「……ジルヴェスタ、様……」
見上げると、そこには――。
大剣を鞘に収め、優しく、慈愛に満ちた紫の瞳で私を見下ろす、ジルヴェスタ様の精悍な面輪があった。
男は私を抱き寄せたまま、自らの額を、私の額へとそっと押し当ててきた。
至近距離で交わる視線。
男の瞳の奥には、戦場を統べる覇王の冷徹さなど欠片もなかった。
あるのは――一人の女性に対する、狂おしいほどの愛おしさと、敬意、そして熱い熱い情愛の光。
「……お前が、成し遂げたのだ、エレナ」
ジルヴェスタ様の、低く掠れたバリトンボイス。
その声は、歓声の中でもはっきりと私の耳朶を震わせた。
「敵味方合わせて一万を超える人間が激突した戦場で、死者を一人も出さずに終息させるなど……帝国の建国以来、千年の歴史のどこを探しても存在せん。……剣の力ではない。魔力の光でもない。お前の紡ぎ出した知恵と、お前のその温かな掌が……この戦場から、死という絶望を完全に消し去ってみせたのだ」
男の大きな手が、私の白衣の背中を、包み込むように優しく抱きしめた。
力強く、けれど壊れ物を慈しむように繊細な抱擁。
ミスリルの布地越しに、ドクン、ドクンと力強く脈打つジルヴェスタ様の心音が伝わってくる。
「お前は私の誇りだ、エレナ。……我が領の至宝であり、私の生涯の光だ。……よく、頑張ったな」
「ジルヴェスタ……様……っ」
男の優しい言葉が、私の心の奥底に眠っていた、分厚い氷の壁を溶かしていった。
胸の奥が、熱い。
喉の奥がツンとして、視界が涙で滲み、歪んでいく。
脳裏に去来したのは――前世の、遠い記憶だった。
総合病院の門前薬局。
冷たい蛍光灯の明かりの下、鳴り止まない処方箋発行機。
傲慢な医師たちの怒号に頭を下げ、疑義照会をすれば「薬剤師風情が生意気な口を利くな」と一蹴され、連日の残業と当直でボロボロになりながら、誰からも感謝されることなく、ただ歯車のようにすり減っていった日々。
過労死の瞬間、アパートの冷たい畳の上で天井を見上げながら、「私のやってきたことには、何の意味があったのだろう」と零した、あの孤独な涙。
そして、この世界に転生してからも。
元婚約者ユルゲンから「光らない薬しか作れない無能」と罵られ、婚約を破棄され、雪山へと追放された。
私の知識は、私の信念は、この世界でも誰にも理解されないのではないかと、心のどこかでずっと怯えていた。
――だけど。
今、目の前に広がる光景はどうだ。
「エレナ先生! ありがとう!」
「俺たちの命を繋いでくれて、本当にありがとうございました!」
「エレナ様! あなたのおかげで、俺は故郷の母親にまた会えます!」
ベッドの上から、天幕の入り口から、雪原の篝火の向こうから、無数の兵士たちが涙を拭いながら、私に向かって手を振っている。
私の処方箋を信じ、私の指示通りに息を吐いて戦ってくれた騎士たちが、誇らしげに胸を張っている。
そして、世界で一番強くて不器用な男が、すべてを投げ打って私を抱きしめ、「お前が成し遂げた」と誇ってくれている。
間違っていなかった。
私が前世で積み重ねてきた知識も、すり減らした命も、この世界で貫き通した生化学の信念も――何一つとして、無駄なものなどなかったのだ。
私の手は、人を殺すための剣は握れなくても。
こうして、何千人もの命を救い上げ、笑顔を取り戻すための「処方箋」を書き続けることができる。
「……っ……ぐすっ……」
私の目から、ポロポロと大粒の涙が零れ落ちた。
止めようとしても、止まらない。
ジルヴェスタ様の漆黒の毛皮に顔を埋め、私は子供のように泣きじゃくった。
それは悲しみの涙ではない。
前世からの孤独と苦難が、すべて温かな光の中に溶け去っていくような――生涯で一度きりの、至福の歓喜の涙だった。
「ジルヴェスタ様……私……っ」
私は男の胸板にすがりつき、涙で濡れた顔を上げて、夜空の星々を見つめた。
澄み渡る銀河の光が、私の翡翠の瞳を祝福するように照らし出している。
「……私、薬剤師をやっていて……本当によかったです……っ!!」
「……ああ」
ジルヴェスタ様は愛おしそうに目を細め、自らの指先で、私の頬を伝う涙の雫を丁寧に拭ってくれた。
そして、私の額に、誓いを立てるようにそっと唇を落としたのだ。
「お前が薬剤師であってくれて、本当によかった。……私と出会ってくれて、我が領に来てくれて、心から感謝している、エレナ」
星降る雪原の真ん中で。
互いの体温を確かめ合うように寄り添う二人を、騎士たちの割れんばかりの拍手と、ルナフェンリルの仔テオの高らかな遠吠えが、優しく包み込んでいた。
過酷な冬の山脈で起きた、命の完全なる奇跡。
第三章・王都討伐軍との大決戦は、ここに――誰一人として命を失うことのない、完全無欠の大団円をもって幕を閉じたのだった。
◇
――そして。
東の地平線が、白み始めた頃。
白竜峡谷の南側街道から、激しい馬蹄の音を響かせて、一騎の早馬が救護ステーションの前へと滑り込んできた。
馬から転がり落ちるようにして降り立ったのは、王宮の紋章をあしらった伝令服を着た、近衛使者だった。
使者の顔は土気色に引き攣り、雪原に広がる何千人もの王都兵と辺境伯軍の和気藹々とした光景を見て、目を丸くして腰を抜かしかけていた。
「は、ハーディン辺境伯閣下……! な、並びに……エレナ・ノール男爵令嬢……!」
使者は震える両手で、紫の絹布で包まれた豪奢な筒を捧げ持った。
そこには、国家の最高権威を示す、皇帝直々の純金印章が刻まれていた。
だが――その文面は、かつて特使ガルブレイスが掲げたような、傲慢不遜な「勅令」などでは断じてなかった。
副団長カイエンが受け取り、封を解いて読み上げたその親書の内容。
それは――。
「……『帝国の至宝たるハーディン辺境伯、並びに稀代の名薬師エレナ・ノール嬢に謹んで奏上す。……中央騎士団長ヴァルターおよび元筆頭錬金術師ユルゲンの専横と大罪、痛恨の極みに堪えず。国家存亡の危機を救いし両名の功績に深く感謝し、至急、王宮大公廷への出頭を乞い願う。……陛下自ら、平身低頭の謝罪と、国家最高の名誉を用意してお待ち申し上げる』……」
カイエンが読み終え、眼鏡の奥の瞳をフッと細めた。
かつてエレナを「無能」と切り捨て、辺境へ追い払った王都の支配者たちが。
今や、自らの破滅を救われた事実を知り、地に額を擦り付けるようにして「どうか王都へ来てほしい」と乞い願っているのだ。
「……ふん」
ジルヴェスタ様が、冷ややかに鼻を鳴らした。
男は私の肩をしっかりと抱き寄せ、王都の方角――南の空を見据えながら、不敵に笑った。
「さて、エレナ。王都の狸どもが、震えながらお前の到着を待っているようだぞ。……お前の作った正しいカルテを、あの玉座の前に叩きつけてやる時が来たようだな」
「……はい、ジルヴェスタ様!」
私は涙を拭い、白衣の襟元を正して力強く頷いた。
逃げるのではない。
追放された無能の令嬢としてではなく――世界を変えた本物の医療従事者として、堂々と凱旋するのだ。
悪徳錬金術師への完全なる因果応報の断罪、そして、愛する人たちと共に歩む幸せな未来へ向けて。




