第42話:筋肉痛ゼロの快進撃! 屈強な男たちの胃腸は絶好調
白竜峡谷の雪原を切り裂く風は、刃のように鋭く冷たかった。
だが、その凍てつく銀世界の中で繰り広げられている光景は、常識的な軍事衝突や魔獣掃討戦の光景とは、あまりにもかけ離れていた。
「グオォォォォォンッッ!」
氷の角を生やした巨大な突進魔獣「フロストライノ」が、地響きを立てて雪煙を巻き上げながら迫る。
岩をも砕くその質量突撃の前に立ちふさがったのは、第一部隊長バルツ・ケルド。
身の丈を超える鋼鉄の大剣を構えた大男は、逃げるどころか、獰猛極まる満面の笑みを浮かべていた。
「へっ! 真正面から突っ込んでくるとは、いい度胸じゃねえか!」
ズンッ! と踏み込んだ足元。
雪深き大地に沈み込むはずのブーツが、寸分のブレもなく氷雪をグリップする。
足首からアキレス腱、膝、そして大腿四頭筋へと連なる青と白のキネシオロジーテーピングが、皮膚を持ち上げて筋膜の滑走を完璧にサポートし、関節の過度な回旋を物理的に制動していた。
バルツは息を大きく吸い込み、魔獣が鼻先数メートルの至近距離まで迫ったその刹那――「フッ!」と鋭く息を吐き出した。
横隔膜が引き上がり、腹横筋がキュッと締まって体幹が鋼の柱と化す。
大剣が下段から唸りを上げて振り抜かれた。
ドッガァァァァァァンッッッッ!!!!
炸裂音とともに、数トンの巨躯を誇るフロストライノが、まるで巨大な金槌で殴り飛ばされたかのように宙を舞った。
角を根元から粉砕され、白目を剥いて雪だまりへと叩きつけられる巨獣。
着地したバルツは、肩で息をすることすらなく、大剣を片手で軽々と回して背中に担ぎ直した。
「ガハハハッ! どうだコラァ! 見ろよこの筋肉のキレ! 大剣を百回以上全力で振り回したってのに、僧帽筋も上腕二頭筋も、これっぽっちも悲鳴を上げちゃいねえぞ!」
バルツは自らの分厚い胸板をドンドンと叩き、歓喜の雄叫びを上げた。
「昔の冬狩りなら、今頃どうなってた!? クソ苦え劇薬ポーションを一気飲みして、胃が焼ける激痛に耐えながら、胃液と血反吐をぶちまけて戦ってたってのによ! 腰の奥がズキズキ痛んで、足が攣って、歯を食いしばりすぎて奥歯がボロボロになってたはずだ! それがどうだ! エレナ様の湿布のおかげで、腰のバキバキ感が完全に消え失せてやがる! 筋肉痛ゼロだ! 身体が羽のように軽いぜ!!」
背中と腰に密着した冷感消炎湿布から、清冽なメントールと抗炎症生薬のエキスが、今この瞬間も皮膚バリアを通過して深部組織へと持続的に送り込まれている。
激しい筋収縮によって発生した局所熱と微小炎症が、生じる端から冷却され、プロスタグランジンの産生が元栓から締め出されているのだ。
痛みがない。重だるさがない。
だからこそ、彼の脳は筋肉に対して「抑制のリミッター」をかけることなく、純粋な運動エネルギーを百パーセント出力し続けることができていた。
「バルツ、無駄口を叩いている暇があるなら、左翼の残敵を速やかに誘導しなさい。大声で叫ぶと呼気から水分が失われ、電解質バランスが崩れますよ」
氷壁のせり出した高台から、涼やかで怜悧な美声が降ってきた。
細剣の切っ先で氷の飛沫を払ったのは、副団長カイエン・アルヴァだった。
銀縁眼鏡の奥の瞳は、吹雪の中でも一片の曇りもなく研ぎ澄まされ、戦場のあらゆる動態を完璧に把握している。
駆け上がってきた二頭の白銀牙狼が、左右からカイエンの喉首を狙って跳躍した。
だが、カイエンは眉毛一本動かさない。
シュッ、シュッ!
目にも留まらぬ二閃。
細剣の針のような切っ先が、狼たちの眉間にある急所を寸分の狂いもなく貫き、二頭の巨獣は絶命して足元へと転がり落ちた。
無駄な太刀筋が一切ない、芸術的なまでの精密剣術。
「ふむ……素晴らしい」
カイエンは自らの鳩尾へとそっと左手を当て、心底晴れやかな溜息を漏らした。
「ええ、本当に素晴らしい……。胃酸が逆流してこない戦場とは、これほどまでに思考が澄み渡るものなのですね。胸の奥を焼くようなあの不快な灼熱感も、喉元にせり上がってくる酸っぱい苦味も、完全にゼロだ。……脳のメモリが、百分率の百すべて、戦術の演算だけに使える。エレナ様の消化薬に、心から祝杯を挙げたい気分ですよ」
カイエンが口にした感覚――それは、近代医学において極めて重要な「脳腸相関(Brain-Gut Axis)」の実証に他ならなかった。
腸や胃といった消化器系は、迷走神経を通じて脳と密接にネットワークを結んでいる。
胃粘膜にびらんや潰瘍が生じ、強酸によって組織が侵されている時、内臓知覚神経からは途絶えることのない激しい「不快シグナル」が中枢神経へと送られ続ける。
この持続的な慢性疼痛は、大脳皮質の認知機能を著しく低下させ、集中力を奪い、判断力を鈍らせ、人を慢性的なパニックとイライラへと追い込むのだ。
だが、今のカイエンの胃壁は、エレナが処方した二層性消化薬――酸を抑えるアルカロイド生薬と、粘膜を物理的にシールドしたアルギン酸・グリチルリチンの保護皮膜によって、完全に守り抜かれていた。
胃粘膜の血流が豊かに保たれ、一切の炎症シグナルが脳へと送られない。
胃腸が完璧に平穏であるからこそ、自律神経の交感神経と副交感神経のスイッチングが神業のような精度で行われ、極限の戦場にあっても、氷のように冴え渡る超人的な戦術指揮が可能となっていたのだ。
「第三小隊、盾の角度を十五度右へ! ロディン、中央隘路の氷結トラップを再励起しなさい!」
「はいはい、言われなくても分かっていますよ、カイエン副団長」
後方で優雅に魔導杖を掲げたのは、治癒魔術師ロディンだった。
風に揺れる亜麻色の長髪。陶器のような白い肌には、かつて彼を苛み、ベッドから起き上がることすら不可能にしていたあの「魔力酔い」の苦悶は、微塵も浮かんでいなかった。
ロディンの口の中では、エレナが丹精込めて煮詰めた特製の「鎮痛・血管調整ドロップ」が、カチリと音を立てて転がっていた。
「ああ……なんて心地よいのでしょう。頭痛の霧が、一切ない……。視界の端に閃光が走ることも、こめかみを鉄の杭で殴られるような拍動も、何一つ起きない。私の魔力回路は、完全に、絶対的に安定している!」
ロディンが魔導杖をひと振りすると、先端の宝珠から眩いばかりの青碧の魔力光が奔流となって溢れ出した。
魔力を使うたびに脳血管が急激に拡張し、周囲の三叉神経を圧迫して激しい偏頭痛を引き起こしていたかつての身体。
だが今、ドロップに含まれるカフェイン類似成分が脳血管の異常拡張をピンポイントで抑え込み、同時に配合された鎮痛ハーブが神経の過敏な興奮を鎮静化させている。
痛覚のノイズが消え去ったことで、彼の魔力循環効率は以前の三倍以上に跳ね上がっていた。
ズドドドドドドッ!
谷の隘路に、何重もの巨大な氷柱が大地から突き立ち、突進してくる魔獣の群れを完璧に分断していく。
後方支援の術者が頭痛で倒れることもなく、前衛の騎士たちが疲労で足を止めることもない。
これこそが、エレナの薬理学が築き上げた「チーム医療型戦闘システム」の真骨頂だった。
「隊長! 右翼のフロストウルフ、完全に包囲いたしました!」
「こっちもだ! 呼吸を整えて、クエン酸ゼリーを一口! ……よし、乳酸の溜まりゼロ! まだまだ行けるぜ!」
「手首の腱鞘炎も、このテーピングのおかげでちっとも痛まねえ! 大盾が紙みてえに軽く感じるぞ!」
前線の騎士たちから、次々と快活な報告が上がってくる。
彼らは戦っていた。
けれど、その表情には悲壮感など欠片もなかった。
仲間と目配せをし、軽口を叩き合い、適切なインターバルで水分とアミノ酸を補給し、誰一人として無理な力みで身体を壊すことなく、完璧なコンディションのまま魔獣の津波を押し返していく。
「ハハッ、全くだぜ!」
バルツが大剣を豪快に振り抜き、最後の一頭のフロストライノを両断した。
「おい見ろよ、あの王都の連中を! 光るポーションをがぶ飲みして、泡吹いて転がってやがる! 薬ってのはな、身体を壊して根性で耐えるためのもんじゃねえんだよ! 身体を慈しんで、万全の力を出すために飲むもんなんだ! そんな当たり前のことも分からねえから、あいつらは自滅したんだよ!」
「ええ、バルツの言う通りです」
カイエンが細剣を鞘へと滑り込ませ、カチリと澄んだ音を鳴らした。
「毒を煽って内臓を焼き尽くす軍隊と、日々の健康を管理されて胃腸まで絶好調の軍隊。……戦う前から、勝敗など決していたのですよ」
そして――。
雪煙の晴れ渡った戦場の中央に、抜き身の黒剣を下げたジルヴェスタ様が、静かに歩み出た。
「総員、剣を引け。……魔獣の群れは、完全に谷の向こうへと退却した」
ジルヴェスタ様の低い、だが絶対の重みを持つ号令が、峡谷の静寂に染み渡っていく。
男の漆黒の毛皮外套には、返り血の一滴すらついていない。
体幹の軸は寸分の狂いもなく直立し、紫の双眸は、吹雪の去った後の澄み切った空のように冴え渡っていた。
北方守護騎士団五百名――。
数千頭の大スタンピードと激突し、正面からこれを完全に押し返し、殲滅してみせたというのに。
戦死者、ゼロ。
重傷者、ゼロ。
脱水による落伍者、ゼロ。
奇跡ではない。
徹底的なヘルスケア、適切な栄養と電解質補給、関節保護、そして内臓機能の完全な維持。
科学的なコンディション管理が、人体の持つ本来の戦闘力を極限まで引き出した――完全なる「医学の勝利」だった。
「「「うおおおおおおおおっっっ!!!!」」」
防壁の兵たちから、大地を揺るがすような大歓声が沸き起こった。
騎士たちは互いの肩を抱き合い、無傷の生還を喜び合う。
その歓声の中心で、バルツが、カイエンが、ロディンが、そしてジルヴェスタ様が――揃って視線を向けたのは、防壁の上に立つ、一人の少女の姿だった。
純白の防護外套(白衣)を風に揺らし、翡翠の瞳を潤ませながら見守っていた、エレナ。
男たちの胸の奥には、勝利の誇りとともに――自らの身体を痛みから解放し、この最高の瞬間を分かち合わせてくれた愛しい調合師への、狂おしいほどの愛と感謝が、熱く、熱く満ち溢れていた。
「エレナ様ァッ! 見てくれましたかい!? 筋肉痛ゼロの完全勝利だッ!」
「エレナ様、あなたの処方してくださったドロップのおかげで、私の術式は完璧でしたよ」
「エレナ様、領地の医薬品管理体制の正しさが、完全に証明されましたね」
口々に叫び、手を振る屈強な男たち。
その光景は、血生臭い戦場であるはずの場所を、まるで温かな診療所の庭先であるかのように錯覚させるほど、幸福な熱気に満ちていた。
――だが。
「…………っ」
勝利の歓声が響き渡る中。
防壁からゆっくりと視線を下ろした私の目に飛び込んできたのは――。
先ほどまでの熱気を、一瞬にして絶対零度の氷水へと変え果てさせる、凄惨極まりない光景だった。
魔獣の群れが押し返された、その先。
白竜峡谷の入り口付近に広がる、広大な雪原。
そこには――。
「あ……あぁ……」
私の喉から、息を呑む微かな悲鳴が漏れた。
雪泥の上に、折り重なるようにして倒れ伏す、膨大な数の人影。
王都中央騎士団、一万の討伐軍。
彼らは魔獣に食い殺されたのではない。
その大半が、自ら煽ったユルゲンの「光る毒」――高濃度ポーションの劇毒に内臓を焼き尽くされ、アナフィラキシーで気道を塞がれ、横紋筋融解症と急性腎不全で身体を麻痺させられた状態で、雪原の上に転がっていたのだ。
凍てつく風が吹き抜ける。
気温は氷点下十度を優に下回っている。
倒れた兵士たちの唇は紫色に凍りつき、皮膚は浅黒い黄疸に染まり、吐き出した血だまりが雪の上で凍結して赤黒い氷の板を作っていた。
指先をピクピクと痙攣させながら、「寒い……」「誰か……助けて……」と、掠れた声で虚空を掴む若き兵士たち。
傷口からは血小板の減少によってサラサラとした血が止まらずに流れ続け、失血と極度の低体温症によって、彼らの生命の灯火は、今まさに一秒ごとに吹き消されようとしていた。
将であるヴァルター卿とユルゲンは、自軍の兵士たちを見捨てて後方の馬車へと逃げ惑い、軍医たちは王都で投獄されてここにはいない。
残された数千人の兵士たちは、手当を受けることもできず、寒風吹きすさぶ雪原の中で――ただ、凍死と臓器不全の激痛に苛まれながら、孤独に死を待つだけの状態だった。
静まり返る戦場。
無傷の勝利を収めた辺境伯軍の足元に広がるのは――敵軍数千人が、自らの飲んだ毒によって自滅し、雪の中で息絶えようとしているという、あまりにも残酷で、あまりにも救いのない地獄絵図だった。
「……エレナ」
防壁を駆け下りてきたジルヴェスタ様が、私の隣へと歩み寄った。
男の紫の双眸が、雪原の惨状を一瞥し、重々しく告げる。
「奴らは自らの毒で自滅した。……放っておけば、一刻と持たずに全員が凍死するだろう」
敵だ。
私たちを反逆者として討伐し、エレナを捕縛するために剣を抜いて進軍してきた侵略者たち。
自業自得。因果応報。
放置して見殺しにしたとしても、法的に、あるいは軍事的に、辺境伯領の側に責められる謂れは何一つない。
――だが。
「…………っ!」
私の足が、動いていた。
考えるよりも先に、白衣の裾を翻し、雪の積もる防壁の階段を駆け下りていた。
ポケットの中の聴診筒が、カチャリと音を立てる。
手帳の紙片が風に舞いかける。
「エレナ!」
背後から響くジルヴェスタ様の制止の声。
だが、私の瞳には、もはや「敵軍」の兵士など映っていなかった。
そこにいるのは――。
今まさに命がこぼれ落ちようとしている、数千人の「重篤患者」たちだった。




