第41話:湿布とクエン酸の奇跡! 辺境伯騎士団のヘルスケア無双
血飛沫と雪煙が舞い散る白竜峡谷の雪原。
体長五メートルを超える「ギガントフロストベア」の右前足が宙を舞い、巨体がドォン! と地響きを立てて雪泥へと横倒しになった瞬間、その背後の空間がまるで鋭利な刃物で引き裂かれたかのように、純白の突風が吹き荒れた。
「――全小隊、展開ッ! エレナ様の処方通り、呼吸を乱すな! 無駄な力みを捨てろォッ!!」
先頭を疾走する第一部隊長バルツの獰猛な咆哮が、峡谷の岩壁をビリビリと震わせた。
その後ろから雪原を蹴立てて現れたのは、黒鉄の甲冑を纏った北方守護騎士団の精鋭五百騎。
だが、その姿は、従来の重装歩兵や騎兵の常識を根底から覆すものだった。
甲冑の隙間――首筋、肩甲骨、肘、手首、膝、そしてアキレス腱の周囲に、幾重にも張り巡らされた青と白の特殊な布テープ。
それは、エレナが研究室で繊維の伸縮性と粘着生薬を黄金比で配合して作り上げた、近代スポーツ医学の結晶――「キネシオロジーテーピング」だった。
関節の過度な伸展や捻転を物理的に防ぎながら、皮膚と筋膜の間に絶妙な隙間を作り出し、激しい運動下にあっても局所のリンパ液と血液の循環を促し続ける機能性テープ。
さらに、彼らの胸当ての裏側や腰の仙骨周辺には、メントールと抗炎症生薬を高純度で練り込んだ「冷感消炎湿布」が寸分の狂いもなく密着していた。
そして――。
黒鉄の隊列の先頭、漆黒の毛皮外套を羽織り、抜き身の黒剣を提げた男が、吹雪を切り裂いて音もなく前線へと滑り込んだ。
北方守護騎士団総長、ジルヴェスタ・フォン・ハーディン辺境伯。
「……遅い」
ジルヴェスタ様の冷徹な呟きとともに、黒剣が一閃した。
ヒュン、と空気が悲鳴を上げる暇すらない、完全なる脱力からの神速の居合い。
倒れかけの巨熊の首が、皮一枚すら残さず、滑らかに切断されて宙を舞った。
かつて多臓器不全と激しい胃潰瘍で死の淵にいた男とは、誰がどう見ても信じられない。
体内の魔力循環はエレナの解毒プログラムによって極限まで研ぎ澄まされ、血管壁の柔軟性も、心筋の収縮力も、すべてが生涯で最も理想的なピークコンディションへと到達していた。
「な……何だ、あの動きは……!?」
雪泥に這いつくばり、アナフィラキシーで泡を吹いて倒れていた王都軍の若き小隊長が、霞む視界の中で呆然と目を見張った。
信じられない光景だった。
王都の騎士たちであれば、魔獣と対峙する際、恐怖を押し殺すために歯を食いしばり、全身の筋肉をガチガチに硬直させ、力任せに剣を振り下ろす。だからこそ、数合打ち合っただけで息が上がり、筋肉が攣り、疲労に耐えかねてポーションを煽らざるを得なくなるのだ。
――しかし。
目の前で魔獣の津波へと突っ込んでいく辺境伯の騎士たちは、まるで舞踏会でステップを踏んでいるかのように軽やかだった。
「行くぞ野郎ども! 第一目標、左翼の白銀牙狼群! エレナ様の処方通り、三十分ごとの水分補給を怠るなよ!」
バルツが大剣を肩に担ぎ直し、自軍の兵たちへ向けて豪快に笑った。
「息を止めるな! 切り結ぶ瞬間に『フッ』と息を吐け! 腹圧を抜かずに横隔膜を動かせば、乳酸なんて溜まる暇もねえぞ!」
「おうよ!」「任せてくだせえ、隊長!」
騎士たちが叫び返す。
突進してきた体長三メートルを超える白銀牙狼が、牙を剥き出しにして飛びかかってくる。
だが、迎え撃つ辺境の重装歩兵は、慌てて大盾で力任せに受け止めるような真似はしなかった。
膝のテーピングが靭帯のブレを完璧に抑え込み、雪道での軸足をミリ単位で安定させる。
狼が飛びかかってきた瞬間、兵士はふわりと半歩だけ身を沈め、相手の突進力を受け流すように盾の角度を傾けた。
ガギィィン! と氷の牙が弾かれ、体勢を崩した狼の無防備な首筋へ、隣の槍兵が正確無比な突きを繰り出す。
ズシュッ!
一撃必殺。
無駄な力みが一切ないからこそ、刃の通りが恐ろしいほどに鋭い。
激突した魔獣の群れが、まるで熟練の料理人に捌かれる魚のように、次々と雪原の上へ転がっていく。
「ば、化け物か……? なぜ、あいつらの筋肉は千切れないんだ……!?」
後方の雪だまりに身を潜め、震えていた王都の従卒が呻いた。
王都軍の兵士たちは、ユルゲンの劇薬ポーションによって筋線維が強制的に異常収縮を強いられ、少し走っただけで筋断裂(肉離れ)を起こして転げ回っていたのだ。
それなのに、辺境の兵士たちは、重い甲冑を着込み、雪を踏み荒らしながら、何十回、何百回と大剣を振り回しているというのに、誰一人として足をもつれさせる者がいない。
その驚異的なパフォーマンスの秘密。
それこそが、エレナが彼らの肉体に施した――徹底的な「合理的身体マネジメント」の結晶だった。
通常、極限の戦闘状態において、骨格筋は急激な嫌気性解糖を行い、大量の乳酸と水素イオン(H+)を産生する。
これが筋肉内のpHを酸性へと傾け、筋収縮を担うアクチンとミオシンの結合を阻害し、いわゆる「筋肉の疲労困憊」と激しい筋攣縮(こむら返り)を引き起こす。
さらに、極寒下での戦闘では、呼気や発汗によって自覚のないまま大量の水分と電解質が失われ、急速な脱水と血液の濃縮が進行するのだ。
――だが、辺境伯騎士団の戦士たちは違った。
「おい、時間だ! 水分補給を入れろ!」
小隊長の声とともに、激しい白兵戦の合間、前衛と後衛が息の合った連携で一瞬だけ入れ替わる。
後方に下がった兵士たちが手早く腰のポーチから引き抜いたのは――エレナ特製の「電解質・高純度クエン酸補給ゼリー」だった。
チュルッ、チュルルッ!
わずか二秒。
甘酸っぱい柑橘風味のゼリーが、兵士たちの渇いた喉を通って胃へと滑り落ちていく。
その瞬間、体内で目に見えない生化学の奇跡がブーストされる。
ゼリーに含まれる高純度のクエン酸は、細胞内のミトコンドリアにおいて「クエン酸回路(TCAサイクル)」を猛烈な勢いで回転させる。
蓄積しかけていた乳酸を速やかにピルビン酸へと逆変換し、エネルギー源(ATP)として再利用する代謝サイクルを強制励起するのだ。疲労物質を溜め込むのではなく、その場でエネルギーへと燃やし尽くす!
さらに、黄金比で配合されたナトリウム、カリウム、マグネシウムイオンが、細胞内外の浸透圧バランスを一瞬で修復する。
神経筋接合部におけるアセチルコリンの伝達が正常に保たれ、極寒の戦場において最も恐ろしい「急性筋攣縮(足の吊り)」の発生率を、文字通りのゼロへと抑え込んでいた。
「ぷはぁっ! 効くぜ! 頭の芯までシャキッとしやがる!」
ゼリーを飲み干した兵士が、ギラリと澄んだ目で笑った。
ドーピングによる狂乱の空元気ではない。
生化学的にエネルギーが満ち足りた、完全なる「健康」の力。
「背中の湿布が、またじんわり冷えてきやがった! 熱がこもらないから、息が全く上がらねえ!」
兵士たちの背中と腰に貼られた冷感湿布。
皮膚の冷感受容体(TRPM8)を適度に刺激し続けることで、中枢神経への疲労シグナルを緩和しつつ、メントールの血管運動作用によって、激しい運動で異常過熱した深部筋肉の局所炎症をその場で冷却・鎮火し続けていたのだ。
筋肉が熱を持たず、炎症が起きない。
だからこそ、彼らのスタミナは、戦闘開始から三十分が経過しても、一時間近くが経過しても、衰えるどころかますます鋭さを増していた。
「オラァッ!!」
バルツが大剣を横一文字に薙ぎ払った。
飛びかかってきた二頭のフロストダイアウルフが、空中で真っ二つに両断され、鮮血の雨が雪原を染める。
バルツの分厚い大胸筋と広背筋は、玉のような汗を光らせながらも、一片の硬直もなく、まるで極上のゴムのようにしなやかに伸縮を繰り返していた。
「カイエン! 右翼の氷壁が崩れそうだぞ! 補助を回せ!」
「言われるまでもありません」
後方の岩壁の上から、副団長カイエンが細剣の切っ先で指示を飛ばす。
その顔には、かつて胃酸を吐き戻して倒れていた虚弱な青年の面影など微塵もなかった。
毎朝の消化薬と養生によって胃粘膜が完全に再生し、規則正しい食事で血糖値が安定した知性派副団長は、クリアな脳の認知機能をフル稼働させ、戦況の推移をチェス盤のように完璧に掌握していた。
「第二小隊、投射角を三度下げて斉射。魔獣の足元を凍結させて突進力を削ぎなさい。……ロディン、中央ゲート前の結界を補強です」
「はいはい、仰せのままに」
銀糸のローブを翻す治癒魔術師ロディンが、優雅に魔導杖を振るった。
その額には、かつて彼を苛み続けたあの「魔力酔い」による激しい偏頭痛の兆候は欠片もなかった。
エレナ特製のカフェイン・鎮痛ハーブドロップを舌下で転がし、脳血管の過剰拡張を完全にコントロールしているロディンの魔力回路は、神話の泉のように澄み渡り、一点の淀みもなく巨大な防護結界を編み上げていく。
ドォォォォォンッ!
突進してきたギガントフロストベアの巨躯が、ロディンの展開した青碧の魔力障壁に激突し、火花を散らして弾き飛ばされた。
「ぐ、ぐおおぉぉぉん……!?」
巨熊が目を回してよろめいた、その隙を。
雪原を疾走する漆黒の影が、絶対に見逃すはずがなかった。
ザッ――。
雪を踏みしめる音すら置き去りにした踏み込み。
ジルヴェスタ様が、低く身を沈めながら巨熊の懐へと滑り込んだ。
大剣が、下から上へと、夜空を切り裂く三日月のような軌道を描く。
ズバァァァァァァッッッ!!!!
巨熊の分厚い胸板が、肋骨ごと両断された。
内臓をぶちまけ、巨獣が絶命の叫びを上げて崩れ落ちる。
返り血の一滴すら、ジルヴェスタ様の漆黒の毛皮外套を汚すことはなかった。
息の乱れ、ゼロ。
心拍数、最適域。
全身の血中酸素濃度は極限まで高く保たれ、男の紫の瞳は、まるで静止した世界を見下ろすかのように冷徹に冴え渡っていた。
「……掃討完了だ。残余の魔獣を谷の奥へと追い落とせ」
ジルヴェスタ様の静かな号令が響いた。
戦闘開始から、わずか数十分。
王都討伐軍一万が恐慌をきたし、自滅して壊滅しかけたあの数千頭の大スタンピードを――北方守護騎士団の精鋭わずか五百名が、一人の落伍者も出さず、完璧に押し返して見せたのだ。
「「「オオオオオオォォォォォッッッッ!!!!」」」
雪原に響き渡る、勝鬨の雄叫び。
男たちの顔には、勝利の興奮はあれど、消耗しきった疲弊の色はどこにもなかった。
「ハハッ! 隊長、すげえですぜ!」
前線で大剣を収めた若い騎士が、自らの腕をグルグルと回しながら叫んだ。
「大スタンピードのど真ん中で剣を百回以上振ったってのに……筋肉痛も息切れも、全くねえです! 腰の重だるさも消え失せてやがる!」
「全くだ!」
隣の古参騎士も、腰のポーチをポンと叩いて破顔した。
「昔の冬狩りなら、今頃ポーションの毒で胃液を吐きながら、血反吐を撒き散らして戦ってたってのによ! 胃の不快感がない戦場が、こんなに戦いやすいとはな! エレナ様のゼリーと湿布、マジで神の恵みだぜ!!」
笑いながら、互いの肩を叩き合う屈強な男たち。
その背中からは、心地よい汗の湯気が立ち上り、誰一人として膝をつく者はいなかった。
――その光景を。
雪泥にまみれ、自らの吐血とアナフィラキシーの激痛に悶絶しながら見上げていた王都討伐軍の兵士たちは。
「あ……あ……」
声にならない呻きを漏らし、ただ我が目を疑っていた。
自分たちは何だったのか。
王都で「奇跡の神薬」と騙され、光る劇薬を無理やり煽らされ、内臓を溶かし、血を噴き出して倒れ伏している自分たち。
それに対して、目の前にいる北方の騎士たちは――毒々しい光を放つポーションなど一滴も口にせず、ただ「冷たい布」を貼り、「酸っぱいゼリー」を一口啜り、正しく息を吐いて戦っただけで、あの凶暴な魔獣の津波を、傷一つ負わずに殲滅してしまったのだ。
どちらが、本物の医療なのか。
どちらが、真に命を慈しむ知性なのか。
泥水の中に倒れ伏す王都兵たちの心の中で、ユルゲンと王都上層部に対する盲信の呪縛が、音を立てて粉々に崩れ去ろうとしていた。




