第40話:自滅のカウントダウン。アナフィラキシーと悲鳴の戦場
白銀に閉ざされた白竜峡谷に響き渡ったのは、雄々しき突撃の号令ではなかった。
それは、生きたまま肉体を内側から煮え立たされた人間たちの、地獄の釜の底から湧き上がるような断末魔の絶叫だった。
「――が、ぎゃあああああああああっっっ!? は、腹が……腹が裂けるぅぅぅっ!!」
ドシャァァッ! ドシャッ! と重い金属音を乱打させ、突撃を開始したばかりの王都討伐軍の第一陣――百余名の重装歩兵が、一斉に雪泥の地面へと前のめりに崩れ落ちた。
魔獣の爪が届いたのではない。牙に裂かれたのでもない。
彼らは自らの胸甲を力任せに引きちぎらんばかりに爪を立て、胃袋のあるみぞおちを両手で圧迫しながら、エビのように背中を丸めて雪の上をのたうち回っていた。
「た、隊長!? どうされたのですか、しっかり――ひっ、ヒィィッ!?」
駆け寄ろうとした後続の兵士が、足をもつれさせてその場に凍りついた。
倒れた小隊長の口から、ドッと噴き出したのは――大量の暗赤色の血泡だった。
それだけではない。
小隊長の首筋から頬にかけて、見るも無残な異変が急速に広がっていた。
皮膚が目に見える速度で真っ赤に腫れ上がり、地図のような形をした巨大な膨疹――蕁麻疹が、全身の皮膚を隙間なく埋め尽くしていく。首は二倍近くに太く浮腫み、喉元を両手で掻きむしりながら、ヒューッ、ヒューッ、と笛の鳴るような凄惨な喘鳴を響かせていた。
「い、息が……喉が……塞がって……息が、吸え……ぎゃっ……!!」
眼球の結膜は真っ赤に充血して出血し、まぶたは肉片のように腫れ上がって視界を塞ぐ。
男は数回、虚空を掴むように指先を痙攣させた後、心臓を押さえて白目を剥き、そのまま雪泥の中に突っ伏して動かなくなった。
心停止。
薬を煽り、駆け出してから、わずか三十秒の出来事だった。
「な……何が起きている!? 敵の呪詛か!? 広域魔法の奇襲か!?」
第二陣の騎士たちが足を止め、混乱の怒号を張り上げる。
だが、恐るべき破滅の連鎖は、一人や二人の突発事故では決して終わらなかった。
二百人、五百人、千人――。
走るという激しい全身運動を行った兵士たちから順番に、まるで目に見えない死神の鎌で首を刈り取られたかのように、次から次へとバタバタと倒れ伏していったのだ。
「熱い! 全身が燃えている! 誰か水を、水をくれぇぇっ!」
「目が見えない! 真っ暗だ、息が……喉を切れ、息が通らんッ!!」
甲冑を脱ぎ捨てようと狂乱する者、激しい嘔吐で自らの吐瀉物と血をぶちまける者、血圧の急降下によってその場で意識を失い、後続の仲間に踏み躙られる者。
王都討伐軍一万の前線は、敵と刃を交える前に、自らの陣の内側から完全に崩壊を始めていた。
◇
「……っ……ああ、やはり……!」
防壁の見張り塔の上で、真鍮の遠眼鏡を握りしめていた私は、あまりの凄惨さに息を詰まらせた。
全身の血が凍りつくような感覚。
私の固有スキル「成分鑑定」が捉えたのは、王都兵たちの体内で荒れ狂う、生化学的な大虐殺の全貌だった。
「エレナ、あれは何が起きているのだ!?」
隣に立つジルヴェスタ様が、黒剣の鍔に手をかけたまま、鋭い声で尋ねてくる。
私は白衣の裾を握りしめ、震える唇から、冷徹な診断結果を紡ぎ出した。
「……急速投与、反復投与による――『劇症型アナフィラキシー様反応(Anaphylactoid Reaction)』です!」
「アナフィラキシー……!?」
「ええ! 彼らは極寒の中で、すでに疲弊しきっていた身体に、あの高濃度の魔力覚醒ポーションを一気に胃へと流し込みました。そして即座に『突撃』という激しい全身運動を開始した……! その結果、急激に上昇した心拍出量と血流によって、薬物の血中濃度が、肝臓の代謝能力を遥かに超えて垂直立ち上がりで急上昇したのです!」
私は防壁の下で倒れゆく兵士たちの首筋を指差した。
「通常のアレルギー反応(IgE抗体介在型)ではありません! あまりにも高濃度の異物魔力と化学アルカロイドが、全身の血管内に存在する『肥満細胞(マスト細胞)』や好塩基球の受容体を、物理的な力づくで直接破壊・刺激したのです! その結果、全身の細胞から、致死量のヒスタミン、セロトニン、ロイコトリエンといった強力な化学伝達物質が一斉に血管内へと大爆発を起こして放出されました!」
私の脳裏に、前世の救急医療で目にした最悪の症例が蘇る。
「ヒスタミンが全身のH1受容体に結合したことで、微小血管は限界まで弛緩して血圧が瞬時にゼロ近くまで急降下し、ショック状態に陥っているのです! 同時に、毛細血管の透過性が破綻して血漿成分が一気に組織へと漏れ出し、喉頭浮腫――喉の粘膜が風船のようにパンパンに膨れ上がり、気道を完全に塞いでいる! 彼らは……彼らは今、自分の喉の腫れによって、物理的に窒息させられているのです!!」
走るという運動負荷が、薬物血中濃度の上昇速度を跳ね上げ、アナフィラキシーの発症を決定的に加速させたのだ。
運動誘発性アナフィラキシーの最悪の劇症化。
ユルゲンの「走れば魔力が巡って強くなる」という浅薄な思い込みが、兵士たちの循環器系にトドメを刺したのだ。
――だが。
地獄は、それだけでは終わらなかった。
「うわああああっ! 化け物が……化け物が来たぞォッ!!」
前線が麻痺し、立ち尽くしていた王都軍の隊列へ、ついに大スタンピードの先頭集団が激突した。
雪煙を突き破り、飛び込んできたのは数十頭の「白銀牙狼」。
硬質な氷の牙が、パニックに陥っていた王都兵たちの肩や腕を容赦なく引き裂いた。
「ぎゃあああっ! 腕が! 傷口を塞げ!」
負傷した一人の重装騎士が、恐怖に駆られて叫んだ。
男は腰のホルダーから、ユルゲンから配られた予備の「ハイ・ポーション」を引き抜き、すがるようにその青白い液体を一気飲みしたのだ。
従来の王都の常識――「傷を負ったら、強いポーションを飲んで魔力で塞げ」という、呪われた教条に従って。
――しかし。
その瞬間、戦場にいた誰もが目を疑う、怪奇現象が起きた。
「え……? あ……?」
瓶を飲み干した騎士が、呆然と自らの傷口を見つめた。
傷が塞がらない。
それどころか――。
プシャァァァァァァッッッ!!!!
まるで水道の蛇口を力任せに破壊したかのように、狼の爪で裂かれただけの浅い切り傷から、鮮血が噴水のように勢いよく噴き出したのだ。
「ひ……っ!? な、何だこれは!? 血が……血が止まらん! ポーションを飲んだのに、なぜ血が噴き出すんだァッ!?」
騎士が傷口を必死に手で圧迫するが、指の隙間からサラサラとした赤い液体が奔流となって溢れ出る。
血液が、全く固まらない。
瘡蓋を作るための凝固反応が、一ミリたりとも起きていないのだ。
男は数十秒と経たずに顔面を蒼白にし、大量の失血によってその場に崩れ落ち、二度と動かなくなった。
同じ現象が、傷を負って追加のポーションを呷った兵士たちの間で、次々と多発し始めた。
かすり傷一つから血が止まらずに失血死する者。
口や鼻、果ては眼球の毛細血管から血が滲み出し、全身の皮下出血で赤黒く染まりながら絶命する者。
「バカな……! ポーションを飲んだ兵から順番に、血を噴き出して死んでいくぞ!?」
「呪いだ! この薬は呪われているッ!!」
阿鼻叫喚の叫びが雪原に木霊する。
その異様な光景に、見張り塔の上のバルツすらも「な、何なんだあれは……傷を治す薬を飲んで、血が止まらなくなるなんてあり得るのか!?」と戦慄の声を上げた。
「……あり得ます。生化学的には、あまりにも必然の結末です!」
私は奥歯を強く噛み締め、怒りで血が滲むほどに拳を握りしめた。
「『薬剤誘発性血小板減少症(DITP)』、そして――『播種性血管内凝固症候群(DIC)』です!」
私の専門的な解説が、凍りついた空気を切り裂く。
「ユルゲンのポーションに含まれる過剰な魔力刺激と不純物は、血小板の表面抗原に不可逆的に結合し、体内の免疫系に『自らの血小板を外敵と誤認させて破壊させる』という最悪の自己免疫反応を引き起こします! 血を止めるための主役である血小板が、瞬時に体中から枯渇してしまったのです!」
さらに私は、破綻した止血機構のメカニズムを叫んだ。
「それだけではありません! 広範囲の組織壊死とアナフィラキシーショックによって、全身の血管内で無秩序な微小血栓が多発しました! その結果、血液を固めるための『フィブリノーゲン』や凝固因子がすべて使い果たされてしまった……! 止血の材料が空っぽになった状態で、ポーションの強制血流促進作用が加わればどうなるか! 血管の破れ目から、サラサラになった血液が際限なく噴き出し続けるのは、自明の理です!!」
傷を治そうとポーションを飲めば飲むほど、止血機能が完全に破壊され、失血死の速度が何倍にも跳ね上がる。
治癒の奇跡を謳った薬が、完全なる「致死性の出血毒」へと変貌していたのだ。
◇
「ひ、ヒィィィィッ! 来るな! 化け物ども、あっちへ行けぇぇぇっ!!」
崩壊する前線の遥か後方で、みっともない悲鳴を上げていたのは、筆頭錬金術師ユルゲンだった。
白馬の手綱を滅茶苦茶に引き絞り、迫り来る魔獣の咆哮に怯えて腰を抜かしかけている。
その足元には、アナフィラキシーで泡を吹いて倒れた自軍の兵士たちが、折り重なるようにして転がっていた。
「ゆ、ユルゲン殿ッ!!」
返り血を浴びた中央騎士団長ヴァルター卿が、大剣の柄を握りしめ、血走った目で駆け戻ってきた。
その顔には、先ほどまでの傲慢な野心など微塵も残っていなかった。あるのは、理解の範疇を超えた大惨劇に対する、剥き出しの恐怖と錯乱。
「どういうことだ、説明しろユルゲン殿! 兵たちが魔獣と戦う前に、全員血を吐いて倒れていくぞ! ポーションを飲んだ部隊から全滅しているではないか! 貴様の薬は……貴様の神薬は、一体何なのだッ!?」
「わ、私は知らん! 私のせいではないッ!!」
ユルゲンは馬上で耳を塞ぎ、狂ったように喚き散らした。
自らの調合ミス、自らの薬理学的無知が引き起こした明白な薬害。
だが、この期に及んでもなお、男の精神は現実を受け入れることを拒絶していた。
「兵どもの魔力耐性が低すぎるのだ! 根性が足りんのだ! そうだ、寒さのせいだ! この北方の異常な寒気のせいで、ポーションの神聖なる魔力が変質させられたのだ! 私の調合は完璧だ! 私は王立薬草院の筆頭だぞ! 間違っているのはこの山だ! 間違っているのは貴様らだァッ!!」
「貴様ぁぁっ! この期に及んでまだ責任逃れをするかァッ!!」
ヴァルター卿が激昂し、ユルゲンの胸ぐらを掴み上げようとした、まさにその時だった。
グォォォォォォォンッッッッ!!!!
空気を震わせる巨大な咆哮とともに、体長五メートルを超える巨熊「ギガントフロストベア」の巨躯が、後方の防衛線を突き破って雪煙の中から姿を現した。
氷柱のような爪を振り上げ、本陣目掛けて一直線に突進してくる。
「ヒャアッ!?」
ユルゲンは馬から転がり落ちるようにして落馬した。
純白のローブを雪泥で汚し、四つん這いになりながら、背後の護衛兵の足を引っ張って盾にしようとする。
「た、助けてくれ! 私を守れ! 私は高貴な錬金術師だぞ! お前たちのような平民の兵が、私の盾となって死ぬのは当然の義務だ! 早くあの熊を殺せ! 私を王都へ逃がせぇぇぇっ!!」
「ええい、総員退却! 後方へ下がれッ!」
ヴァルター卿もまた、前線で苦悶の声を上げる数千人の兵士たちを一瞥することもなく、自らの親衛隊だけを呼び集めて、一目散に後方へと逃げ出し始めた。
指揮系統の完全なる崩壊。
将は逃げ惑い、医師は投獄され、残された兵士たちは自らの飲んだ毒に内臓を焼き尽くされ、動くこともできずに魔獣の群れの前に置き去りにされた。
一万の誇り高き中央騎士団。
その実態は、戦う前から、傲慢な権力者たちの手によって解体され、雪原の生贄として捧げられた哀れな羊の群れに過ぎなかったのだ。
ギガントフロストベアの巨大な前足が振り上げられる。
その足元には、呼吸困難で倒れ伏し、涙を流しながら「母さん……」と呟く、若き王都の歩兵の姿があった。
逃げ場はない。
巨爪が振り下ろされ、若者の頭蓋が粉々に粉砕されようとした――。
――その、刹那だった。
ドッッッッッッッッ!!!!
大気を引き裂く、鋭利極まる轟音が響き渡った。
雪煙を突き破り、戦場を斜めに両断するようにして突風が吹き抜ける。
次の瞬間――振り下ろされようとしていた巨熊の右前足が、肘の関節から先ごと、綺麗に宙を舞っていた。
「…………ガ!?」
何が起きたのか理解できず、巨熊が間抜けな声を漏らす。
切断面から噴き出す鮮血。
そして――巨熊の巨躯の横を、まるで一条の黒い稲妻のように、疾風の一団が駆け抜けていった。
「……遅えぞ、クソ熊野郎」
低く、獰猛な男の笑い声。
大剣を一閃させ、巨熊の巨躯をすれ違いざまに両断したのは――第一部隊長バルツだった。
その背中には、一切の疲労も強張りも感じさせない、完璧に整えられた筋肉の躍動。
そして、バルツの背後から雪煙を巻き上げて突進してきたのは――。
関節に伸縮テーピングを巻き、腰にクエン酸水筒を提げ、胸元に緑のお薬手帳を輝かせた、北方守護騎士団の精鋭部隊!
「全員、生きてるかァッ!?」
バルツの咆哮が、絶望に沈んでいた雪原を揺るがした。
「おい王都のモヤシども! くたばるのはまだ早いぜ! ……エレナ様の処方箋を持った、本物の『健康な軍隊』のお出ましだッッッ!!!!」
地獄の底のような戦場を、疾風のような一団が、怒涛の勢いで切り裂いていく。
それは――毒に侵された戦場に降り立った、唯一無二の希望の光だった。




