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第39話:山脈を揺るがす地鳴り! 想定外の大スタンピード発生

――ズ、ズズ……ズガガガガガッッッ!!!!


足元の石造りの見張り塔が、まるで巨人に足元を蹴り上げられたかのように激しく揺動した。

大気中に張り詰めていた冷涼な空気が、一瞬にして超低周波の振動によって震え、鼓膜の奥をビリビリと麻痺させる。

人間同士の戦争の喚声など、爪の先ほどにも及ばない。

地球の腹底から響き渡るような、圧倒的で無慈悲な自然の咆哮。


「な……何だ、この揺れは!? 地震か!?」

「足元が……馬が狂ったように暴れて止まらん!」


遥か谷底、白竜峡谷の入り口に布陣していた王都討伐軍の隊列から、狼狽と恐慌の叫びが連鎖的に噴き上がった。

先ほどまで「反逆者を討て」と抜剣し、雄叫びを上げていた兵士たちが、足元を取られて互いにぶつかり合い、隊列を乱していく。馬たちは前足を高く跳ね上げ、嘶きながら手綱を引きちぎらんばかりに狂乱していた。


だが――私たちが立つ防壁の見張り塔の空気は、まったく違っていた。


「……静かにしろ。風向きを読め」


ジルヴェスタ様の低く研ぎ澄まされた声音が、轟音を切り裂いて塔の上に響く。

男は漆黒の外套の襟元を片手で軽く引き締め、手すりに置いた左手の指先で、微かな空気の対流を捉えていた。

その紫の双眸は、吹雪の前の海のように深く、冷徹に北方霊峰の天蓋を射抜いている。


「わふッ……! グルルルルルッ!」


私の足元で、仔獣テオが銀色の毛を針のように総毛立たせ、小さな前足を石床に突き立てていた。

普段の甘えん坊な姿は微塵もない。

北方の霊獣としての本能が、迫り来る「破滅の気配」を誰よりも鋭敏に察知していたのだ。


「テオ……? 山から、何が来るの……?」


私が白衣の胸元を押さえ、首から下げた真鍮の遠眼鏡を構え直した、その刹那だった。


――ゴォォォォォォォォォォッッッッ!!!!


天を衝く白銀の山嶺――標高四千メートルを超える北方霊峰「ベルグシュタイン」の白い尾根から、信じられない光景が視界に飛び込んできた。

巨大な雪煙。

万年雪に閉ざされていたはずの氷壁が、何千トン、何万トンという規模で一気に崩落し、まるで白銀の大瀑布となって山肌を滑落していく。

しかし――その雪崩の先頭を走っていたのは、雪の塊などではなかった。


「……っ!? あ、あれは……!!」


私の息が、完全に止まった。

遠眼鏡の円形レンズを埋め尽くしたのは、地獄の蓋が開いたかのような光景だった。


黒。灰。白。

雪煙を突き破り、大地を蹴立てて怒涛の勢いで駆け下りてくる、無数の獣の群れ。

体長五メートルを超える、氷の牙を生やした巨熊「ギガントフロストベア」。

全身を硬質な樹氷の針で覆い、群れを成して疾走する「白銀牙狼(フロストダイアウルフ)」。

さらには、青白い冷気ブレスを空中に噴き上げながら地を這う、大蜥蜴の巨躯の群れ――。


十頭、百頭、千頭――いや、三千、五千を超える魔獣の大津波!

山肌を削り、巨大な針葉樹を爪楊枝のようにへし折りながら、二つの軍勢が対峙するこの白竜峡谷の谷底目掛けて、一直線に雪崩れ込んできていたのだ。


「……冬の大スタンピードだ」


副団長カイエンが、手帳を胸元へ滑り込ませながら、銀縁眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細めた。


「今冬の寒波は例年を遥かに超える異常気象でしたからね。越冬のために洞窟深くに籠もっていた大型魔獣たちが、飢餓と寒冷の急激な変化によって冬眠を破られ、パニックを起こして山脈から一斉に雪崩れ出てきたのでしょう。……最悪のタイミングですね」


「最悪だと? ハッ、笑わせるぜ眼鏡!」


ドォン! と大剣の石突きを床に叩きつけたのは、第一部隊長バルツだった。

金髪を風になびかせ、全身の筋線維をこれ見よがしに躍動させながら、野獣のような凶暴な笑みを浮かべる。


「あんな有象無象の毛皮ども、毎年の冬狩りで相手にしてる連中じゃねえか! エレナ様の湿布のおかげで、俺の僧帽筋と広背筋は今まさに絶好調だ! いくらでも叩き斬ってやるぜ!」


「相変わらず脳みそまで筋肉ですね、バルツ」


ロディンが冷ややかにため息をつきつつも、その両手にはすでに青碧の幾何学魔導陣が幾重にも展開されていた。


「しかし、あの数です。谷間に雪崩れ込めば、狭い地形のせいで人間側は身動きが取れなくなる。……迎撃の配置を誤れば、ひとたまりもありませんよ」


塔の上の騎士たちが瞬時に戦闘態勢へと移行する中、峡谷の反対側――王都討伐軍の陣営は、完全なパニックに陥っていた。


「ひ、ヒィィィッ!? な、何だあの化け物の群れはァッ!?」


馬上で悲鳴を上げたのは、筆頭錬金術師ユルゲンだった。

純白の豪奢なローブは風に乱れ、金髪を振り乱しながら、迫り来る白銀の津波を見て泡を吹きかけている。

王都の温室のような薬草院で、平民を見下しながら書類にハンコを押すだけの温室育ちの貴族にとって、本物の「大自然の殺意」など、生まれて初めて目にする悪夢そのものだった。


「ヴ、ヴァルター卿! 撤退だ! 一時撤退を命じてください! あんな化け物と戦うために王都を出たのではないぞ! 早く馬車を回せ!!」


「戯言を抜かすな、ユルゲン殿ッ!!」


総司令官ヴァルター卿の怒声が、ユルゲンの弱音を一刀両断した。

歴戦の騎士団長であるヴァルターは、青ざめながらも、自らの首元に浮き出た血管を怒張させて叫んだ。


「この狭隘な峡谷で一万の大軍が背を見せて逃げ出してみろ! 将棋倒しになって後方から魔獣に喰い散らかされ、全滅するに決まっておろうが! 前を向け! 迎撃するのだ!!」


ヴァルター卿は大剣を天へと掲げ、自軍の兵士たちに向けて怒鳴り散らした。


「全軍、迎撃態勢を取れ! 化け物どもめ、まとめて蹴散らしてやる! 怯むな! 貴様らには、ユルゲン殿が下賜された至高の神薬が流し込まれているのだぞ! 神薬の魔力をもって、獣の群れを踏み潰せェッ!!」


ヴァルターの号令に、王都軍の兵士たちが狂乱の雄叫びを返した。

劇薬ポーションによって交感神経を限界まで過熱させられた兵士たちは、瞳孔をカッと開き、恐怖心すら麻痺した状態で、槍を構えて魔獣の群れへと向き直る。


――しかし。

その光景を見下ろしていた私の全身を、氷水を浴びせられたかのような強烈な戦慄が貫いた。


(……ダメ……! あの状態で、迎撃なんて……絶対にダメよッ!!)


私の薬剤師としての脳内コンピューターが、恐るべき破滅のシミュレーションを瞬時に弾き出していた。


――極寒環境下における急激なストレス応答。

――寒冷昇圧反応と、心筋酸素消費量の爆発的増大。


今、峡谷を吹き抜けている風は、氷点下十五度を下回っている。

人間がこのような超低温環境に晒された瞬間、皮膚の冷感受容体が過敏に反応し、反射的に全身の交感神経を異常緊張させる。

末梢の細動脈は一気に収縮し、血管抵抗は跳ね上がり、血圧が急上昇する――いわゆる「寒冷昇圧反応」だ。


通常の人体であっても、冬場の寒冷刺激は脳卒中や心筋梗塞の最大の誘因となる。

それなのに――王都軍の兵士たちの体内には、すでにユルゲンの劇薬によって、致死量寸前のアドレナリンと覚醒成分が充満しているのだ!


「ジルヴェスタ様……! 王都軍の兵士たち、このまま魔獣と激突したら……全滅します!」


私はジルヴェスタ様の腕を掴み、必死の形相で訴えかけた。


「彼らの血管は、すでに劇薬によって限界まで締め上げられています! そこへ、この極寒の冷気刺激と、大スタンピードの襲来という生命の危機の『極度の精神的ストレス(Fight or Flight反応)』が同時に上乗せされたら……! 血管内皮細胞は過剰な血圧に耐えきれず、至る所で破綻します! 冠動脈の攣縮による急性心筋梗塞、大動脈解離、そして脳血管の破裂……! 運動負荷をかけた瞬間に、心臓が破裂して倒れます!!」


ただでさえ、横紋筋融解症によって血液はドロドロに濁り、腎臓は目詰まりを起こしかけているのだ。

酸欠に喘ぐ心筋に、これ以上の過負荷をかければどうなるか。

それは、壊れかけのエンジンにニトロを流し込み、極寒の雪道でアクセルを床まで踏み抜くようなもの。

魔獣の爪が届く前に、己の循環器系の崩壊によって、自爆するように心停止を起こす!


「……自業自得と言いたいところだがな」


ジルヴェスタ様は低く呟き、私の手を優しく包み込んで手すりから引き離した。

そして、男の紫の瞳が、要塞の全軍へと向けられる。


「全軍に告ぐ!!」


ゴォォォォンッ! と大気を震わせる、辺境伯の圧倒的な覇気の一喝。

見張り塔の兵も、防壁の上の騎士たちも、一瞬にして直立不動となった。


「迎撃陣形を取れ! 第一部隊は防壁前の中央ゲートを展開、重装盾列を組んで谷間の狭窄部を封鎖せよ! 第二部隊、第三部隊は左右の岩壁高台に登り、投射機と弩弓で魔獣の突進速度を削れ! 魔導部隊はロディンの指揮のもと、防壁前面に氷壁トラップを展開せよ!」


澱みなく、電光石火で下される的確な命令。

ジルヴェスタ様の眼差しには、王都軍に対する私怨など微塵もなかった。

あるのは――この過酷な北方の地を、民の命を守り抜いてきた絶対君主としての誇り。


「我らが相手にするのは、王都の愚者どもではない! 北の冬の荒れ狂う嵐そのものだ! 一頭たりとも、領民の住む地へ通すな! 我が背後にあるすべての生命を、この鉄壁をもって守り抜けッ!!」


「「「オオオオオオォォォォォッッッッ!!!!」」」


北方守護騎士団の雄叫びが、山脈の地鳴りを押し返すように響き渡った。

私怨のための戦争から、民を守るための崇高な防衛戦へ。

男たちの瞳に宿るのは、薬物による狂乱などではない。守るべきものを持つ者たちの、澄み渡る誇りと覚悟だった。


「エレナ!」


ジルヴェスタ様が私を振り返った。


「お前は直ちに塔を降り、防壁直下の後方司令室へ退避しろ。テオ、エレナから一歩も離れるな!」


「わふんっ!」


テオが力強く頷き、私の白衣の裾を守るように横につく。

だが、私は退避する前に、大声でカイエンとバルツを呼び止めた。


「カイエン副団長! バルツ隊長! 迎撃前に、全兵士に指示を出してください!」


私は白衣のポケットから、特製の補給ゼリーの包みを取り出して掲げた。


「激突の三十秒前に、腰のポーチにある『電解質・クエン酸ゼリー』を必ず一口、喉に流し込ませてください! 極寒下での急激な筋収縮は、マグネシウムとカリウムの局所欠乏を引き起こし、筋痙攣(こむら返り)を誘発します! 一口含むだけで、末梢神経の興奮性が安定し、筋肉の柔軟性が保たれます! それから、呼吸を止めて力んではいけません! 息を吐きながら大剣を振るよう、全兵士に徹底させてください!!」


「了解であります、エレナ様!」


バルツがニッと白い歯を見せて親指を立てた。


「息を吐いて、ゼリーを食う! 簡単明瞭だ! 野郎ども、エレナ様の言いつけ通りにすんぞ! 胃袋も筋肉も絶好調の俺たちの力、見せてやろうぜ!」


騎士たちが手際よく腰のポーチからゼリーを口に含む。

冷静だ。

慌てず、騒がず、己の生体バランスを科学的に整えながら、迫り来る魔獣の津波を迎え撃つ準備を整えていく。

私利私欲のために兵士を劇薬で使い潰す王都軍と、一人の薬剤師の知恵を信じ、自らの肉体を慈しみながら民のために戦う辺境伯軍。

二つの軍勢の「精神的強度」と「生命への敬意」の差は、戦う前から、あまりにも残酷なほどに開ききっていた。


そして――。


ズザザザザザザザッッッ!!!!


峡谷の出口から、ついに数千頭の魔獣の先頭集団が姿を現した。

地を揺るがす咆哮。

氷の牙を剥き出しにしたフロストダイアウルフの群れが、涎を撒き散らしながら雪原を蹴立てて迫る。

その距離、わずか三百メートル。


谷の入り口で、対峙する形となった王都軍。

先頭に立つヴァルター卿が、ギラついた目で大剣を振り下ろした。


「全軍、突撃ィィィッ! ポーションを呷り、魔獣どもを皆殺しにせよッ!!」


ヴァルターの号令とともに、王都軍の兵士たちが腰の青白い小瓶を一斉に煽り、抜剣して雪原を駆け出した――。


――その、直後だった。


「う……っ!?」

「が……はッ……!?」


戦場に響き渡ったのは、敵を威圧する勇壮な雄叫びなどでは断じてなかった。


ドシャッ! ドシャシャッ!

突撃を開始した瞬間、最前列を走っていた数十名の重装歩兵が、まるで目に見えない巨人に胸を撃ち抜かれたかのように、前のめりに雪泥へと崩れ落ちたのだ。


「え……?」


馬上のヴァルター卿が目を見張った。

倒れた兵士たちから上がったのは、敵を前にした叫びではなく――自らの胸と喉を掻きむしり、血の泡を噴き出しながら床を転げ回る、凄惨極まる「断末魔の呻き声」だった。


自滅の秒読みは、すでにゼロを刻んでいたのだ。

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