第38話:光る劇薬ドーピング。空元気の王都軍と、限界寸前の臓器たち
寒風吹きすさぶ王都北門の広野。
鉛色の雲が低く垂れ込め、凍てつく冬の突風が吹き抜ける中、中央騎士団長ヴァルター卿が率いる一万の討伐軍が、地響きを立てて布陣していた。
白銀の甲冑を纏った騎兵隊、重装歩兵、槍兵、そして後方に控える輜重隊。かつては帝国の誇りと謳われた大軍勢。
しかし、その整列した兵士たちの顔色には、生気というものが決定的に欠落していた。
誰もが青白く、土気色の肌を晒し、目の下にはまるで炭を塗りつけたかのような濃紫色の隈が張り付いている。
ガタガタと歯の根を鳴らす兵士たち。寒さのせいだけではない。度重なる旧型ポーションの服用によって胃壁は爛れ、肝臓は疲弊し、全身の筋肉が慢性的な虚血と電解質異常で痙攣を起こしていたのだ。
列のあちこちから、耐えかねたような咳き込みと、酸っぱい胃液を吐き戻す微かな音が漏れていた。
そんな瀕死の軍列の前へ、豪奢な白馬に跨がった筆頭錬金術師ユルゲンが進み出た。
その白馬の鞍の両脇には、特注の革袋が何十個も括り付けられ、後方の荷馬車十数台にも同じ木箱が山積みにされている。
ユルゲンは真新しい純白のローブを風に翻し、狂気じみた歓喜に満ちた笑みを浮かべて、高らかに右手を掲げた。
「全軍、よく聞け! 我が王立薬草院が、陛下の直々の勅許のもとで完成させた究極の秘薬――改良型『魔力活性・強壮ハイ・ポーション』をこれより全兵士に配備する!」
号令とともに、下級錬金術師たちが木箱の蓋を次々とバールで跳ね上げた。
ガラガラと音を立てて配給される硝子瓶。
その瓶の中で波打っているのは――曇天の空の下ですら、狂おしいほどに青白く発光し、ジクジクと不気味な気泡を噴き上げる濃厚な液体だった。
ツン、と鼻腔を焼き焦がすような強烈なオゾン臭と、薬品の刺激臭が陣中に充満する。
「この霊薬を口にした瞬間、貴様らの中の軟弱な肉体は死に絶え、神のごとき無限の力とスタミナが覚醒する! 寒さも、疲労も、傷の痛みすらも、すべては我が至高の魔力光の前に消え去るのだ! さあ、一滴残らず飲み干せ! そして、北方の逆賊どもをその足で踏み潰して参れッ!!」
兵士たちは恐る恐る、手渡された青白い瓶を見つめた。
過去にポーションを煽った時の、あの胸を焼くような激痛と吐血の記憶が脳裏をよぎる。躊躇い、手を震わせる若き兵士たち。
だが、壇上のヴァルター卿が抜剣し、雷鳴のような怒声を浴びせた。
「何を躊躇っている! 王命にして軍命である! 飲まぬ者は敵前逃亡、反逆者とみなしてその場で斬首に処す! 一気呵成に煽れッ!!」
退路は塞がれていた。
最前列の小隊長が、覚悟を決めたように震える手で栓を引き抜き、瓶を口元へと運んだ。
ゴクリ、と喉を鳴らして青白い液体を流し込む。
「――っ……ぐ、がぁぁぁぁぁッッッ!?」
男の喉から、窒息しかけたような呻きが漏れた。
喉が、食道が、胃袋が、まるで沸騰した油を流し込まれたかのように焼け爛れる激痛。
しかし――その激痛が全身を貫いた、次の刹那だった。
ドクンッッッ!!!!
男の心臓が、破裂せんばかりの勢いで大きく跳ね上がった。
バチバチと、目に見えるほどの青白い魔力火花が、男の皮膚の表面を走り抜ける。
瞳孔がカッと見開かれ、黒目が限界まで散大した。
先ほどまで寒さに震え、鉛のように重かった四肢の感覚が、嘘のように一瞬で消え去る。
「あ……あぁ……? す、すごい……! 痛みが……消えた……!?」
男は自らの両手を見つめ、信じられないものを見るように震えた。
続いて、背中を丸めていた隣の重装歩兵も、その隣の槍兵も、次々と瓶を飲み干していく。
瞬く間に、一万の兵士たちの間に、劇薬の生化学的連鎖が爆発的に広がっていった。
「おおおおおおっ! 身体が……身体が軽い!」
「寒くない! 風がちっとも寒くないぞ!」
「力が……指先から爪の先まで、力がみなぎってくるぅぅぅっ!!」
歓喜と興奮の絶叫が、軍勢の隅々までこだました。
兵士たちは血走った目を剥き出しにし、狂ったように槍や剣を天へと突き上げて雄叫びを上げる。
足踏みの振動が大地を揺るがし、先ほどまでの死にかけの敗残兵のような気配は完全に消え失せ、まるで恐れを知らぬ狂戦士の軍団へと変貌していた。
「ハハハハハ! 見ろ、ヴァルター閣下!」
ユルゲンが馬上で胸を反らせ、勝ち誇った哄笑を響かせた。
「これが私の理論の正しさだ! 即効性! 圧倒的な魔力による強制励起! これほどの軍勢を前にして、あの男爵令嬢の地味な泥水薬草茶に何ができる!? 踏み潰してくれるわ! 我がポーションこそが、世界を支配するのだ!!」
「うむ! 見事だ、ユルゲン殿! 全軍、前進! 北方のハーディン城へ向け、進軍を開始せよッ!!」
ヴァルター卿の号令のもと、一万の軍勢が雪煙を巻き上げて進軍を開始した。
兵士たちは異常な速度で足を動かし、重い甲冑を着込んでいることすら忘れたかのように、狂乱の笑みを浮かべながら行軍していく。
――しかし。
彼らは、何一つ知らなかったのだ。
自らの体内で、今まさにどのような「不可逆的な破滅のカウントダウン」が始まっているのかを。
ユルゲンが調合した改良型ポーションの正体。
それは、近代薬理学において最も忌むべき禁忌――「高用量アンフェタミン類似物質と過剰魔力による、中枢神経の強制興奮と疲労マスキング」の悪魔の合剤だった。
薬液に含まれる過剰な興奮性アルカロイドは、脳の視床下部および中枢神経系を直接バチバチと鞭打ち、アドレナリンとドーパミンを大量に放出させていた。
その結果、脳は一時的な「極度の多幸感と万能感(躁状態)」に包まれる。
しかし、それはエネルギーが生み出されたのではない。
生体が本来、命を守るために発している「疲労」「飢餓」「激痛」「寒冷」という生命維持のアラームシグナルを、中枢神経の受容体を無理やり塞ぐことで、力尽くで「マスキング(覆い隠蔽)」しているだけに過ぎなかった。
痛みを感じないからといって、傷が治ったわけではない。
疲労を感じないからといって、筋肉が回復したわけではない。
兵士たちの体内では、暴走した交感神経によって末梢血管が極限まで収縮し、血圧は収縮期二百ミリ水銀柱を超えて急上昇していた。
寒さを感じないのは、末梢の毛細血管が完全に収縮して血流が途絶え、知覚神経が凍結麻痺を起こしているからに他ならない。体幹の深部体温は、急激な熱産生の代償として、急速に乱高下を始めていた。
さらに恐ろしいのは、消化管と内臓の崩壊だった。
アドレナリンの過剰分泌により胃粘膜の血流はゼロになり、胃壁を守る粘液のバリアは完全に死滅。そこへ、ポーション自体の強烈な酸性と魔力残渣が降り注ぎ、多発性の急性胃潰瘍が猛烈なスピードで胃壁を穿ち始めていた。
痛覚が麻痺しているため、兵士たちは自分の胃袋が溶けて出血していることすら気づかず、笑顔で足を動かし続けているのだ。
そして――骨格筋の断末魔。
魔力による強制収縮を強いられた筋線維は、酸素の供給が追いつかず、細胞膜が次々と破裂して大規模な融解(横紋筋融解症)を起こしていた。
壊死した筋肉から血中に溢れ出た大量のミオグロビン蛋白、カリウム、乳酸の濁流。
それらは、すでに過去の投薬で傷つき、弱り果てていた腎臓の糸球体と微小尿細管へと雪崩れ込み、細いフィルターを目詰まりさせ、セメントのように固まりつつあった。
尿の生成は完全に停止し、体内に蓄積していく致死性の毒素。
心筋の刺激伝導系は、急激に跳ね上がった血中カリウム濃度によって狂い始め、いつ致死性の心室細動を起こしてもおかしくない臨界点に達していた。
空元気。
熱狂の雄叫び。
その実態は――自らの生命のロウソクを両端からバーナーで焼き尽くしながら進む、一万人もの「歩く時限爆弾」の群れそのものだった。
◇
同刻。
北方ハーディン辺境伯領と王都領を隔てる、険しき「白竜峡谷」の防壁見張り塔。
ピキピキと凍てつく風が吹き抜ける展望テラスで、私は首から下げた真鍮製の遠眼鏡(望遠鏡)を目元に当て、雪煙を上げて谷間へと侵入してくる王都軍の姿をじっと見つめていた。
私の身を包むのは、先日ジルヴェスタ様から贈られたばかりの、極光氷蚕の生糸とミスリルで織り上げられた純白の外套。
羽のように軽く、けれど冷気と悪意を完全に遮断するその「白い鎧」のポケットには、特製カルテと聴診筒、そして調合用のピンセットが収められている。
足元では、聖獣の仔テオが、風に向かって銀色の毛を逆立て、「グルルル……」と低く警戒の唸り声を上げていた。
「……っ!」
遠眼鏡のレンズ越しに、先頭を行く王都軍の兵士たちの顔面を拡大して捉えた瞬間――私の息が、凍りついた。
視界の奥底で、私の固有スキル「成分鑑定」が、彼らから立ち上る異常な魔力の波長を捉えて、警告音のように激しく点滅する。
「……ひどい……。なんて、なんて酷いことを……!」
私の指先が、遠眼鏡の筒をミシリときしむほどに強く握りしめた。
怒りと、医療従事者としての耐え難い悲痛が、胸の奥からマグマのようにせり上がってくる。
「エレナ。何が見える」
隣に並び立つジルヴェスタ様の、低く落ち着いた声が響いた。
黒鉄の甲冑の上に漆黒の毛皮外套を羽織り、腰に黒剣を帯びた辺境伯。その紫の双眸は、吹雪の前の夜空のように静まり返り、冷徹に眼下の敵軍を見据えている。
その後ろには、大剣を地面に突き立てて待機する第一部隊長バルツ、銀糸のローブを翻す治癒魔術師ロディン、そして軍用望遠鏡で敵の隊列を分析していた副団長カイエンが控えていた。
「……あれは、元気なのではありません」
私は遠眼鏡を目元から離さず、震える声を絞り出した。
言葉の一つ一つが、生化学的な診断書となって紡ぎ出される。
「全員の瞳孔が限界まで散大しています。過剰なアドレナリンと中枢刺激薬による、急性の中毒症状です。……見てください、あの皮膚の色を。顔は土気色を通り越して鉛色、唇はチアノーゼで紫色に変色しています。末梢血管が異常収縮を起こし、組織が完全に酸欠状態に陥っている証拠です!」
「何だと……? だがエレナ様、あいつら、まるで獣みたいに雄叫びを上げて、すげえ勢いで走ってきてますぜ?」
バルツが怪訝そうに眉をひそめた。
「空元気です、バルツ隊長! 薬によって脳の痛覚神経と疲労知覚が無理やり麻痺させられ、一時的な躁状態に陥っているだけなのです! 足取りをごらんなさい、力強く踏み込んでいるように見えて、重心が定まらず、微妙にふらついています。小脳の協調運動障害と、筋肉の微小断裂による機能不全がすでに始まっているのです!」
私の専門的な解説に、カイエンが眼鏡の奥の瞳を険しく細めた。
「……なるほど。疲労を忘れさせて無理やり進軍させているというわけですか。王都からこの峡谷まで、通常の三倍の強行軍で到達した理由が分かりましたよ。……愚劣極まりない。兵を人間ではなく、ただの使い捨ての薪としか見ていない証拠ですね」
「それだけではありません……!」
私は遠眼鏡を下ろし、白衣の胸元を強く押さえた。
目に焼き付いた兵士たちの姿が、私の心を激しく締め付ける。
「彼らの胃壁は、過剰な胃酸と血流不全で、今まさに穴が開く寸前まで爛れています。そして何より……骨格筋が急速に融解し、大量のミオグロビン蛋白が腎臓の尿細管をヘドロのように塞ぎ始めている……! 急性腎不全による高カリウム血症、劇症肝炎、そして播種性血管内凝固症候群(DIC)……! いつ心停止を起こしても、いつ全身から血を吹いて倒れてもおかしくない、動く時限爆弾の群れです!」
「……自滅のカウントダウン、というわけか」
ロディンが冷ややかに呟いた。
「哀れですね。ユルゲンのあの無知な男は、自分が兵を強化したと本気で信じ込んでいるのでしょう。……敵とはいえ、あのような毒を飲まされて前線に駆り出される兵士たちは、ただの犠牲者だ」
「ええ……!」
私の翡翠の瞳から、悔し涙が零れ落ちそうになるのを必死に堪えた。
敵だ。
彼らは、このハーディン辺境伯領を侵略し、ジルヴェスタ様を討伐し、私を罪人として捕縛するために、抜き身の刃を持って進軍してきている敵軍なのだ。
憎むべき侵略者であるはずだった。
――それなのに。
(……患者に、見えてしまう……)
前世で、無茶な過労や悪質な民間療法に騙され、ボロボロになって救急搬送されてきた無数の患者たちの顔が、眼下を行進する兵士たちと重なり合ってしまう。
彼らは、上層部の保身と、ユルゲンの傲慢な実験の犠牲者なのだ。
医療を名乗る悪魔によって内臓を破壊され、痛みを叫ぶことすら許されずに、死の淵へと行進させられている。
その残酷な現実を前にして、薬剤師としての私の魂が、悲鳴を上げていた。
「エレナ」
不意に、大きな、温かい手が私の肩を抱き寄せた。
振り返ると、ジルヴェスタ様が至近距離から、深く、慈愛に満ちた紫の瞳で私を見つめていた。
男の手袋越しではない、素手の温もりが、私の震える肩を優しく包み込む。
「ジルヴェスタ……様……」
「お前の苦悩は痛いほど分かる。……お前は、敵であろうと苦しむ者を前にすれば、医療従事者として心を痛めずにはいられない。その気高く、優しい魂こそが、私を救い、この領地を救ってくれたのだからな」
ジルヴェスタ様は私の後れ毛をそっと払うと、眼下の敵軍へと視線を向けた。
その横顔には、冷徹な軍神としての決意と、主君としての絶対の覚悟が宿っていた。
「だが、エレナ。奴らは今、理性を失った狂気の刃となって我が領の防壁を打ち破ろうとしている。領民を守るため、そしてお前を守るため、私は一歩も退く気はない。……だが、安心しろ」
ジルヴェスタ様は私を抱き寄せる腕に、グッと力を込めた。
「無駄な殺戮はさせん。奴らが薬の毒で自滅する前に、我が騎士団の圧倒的な力をもって包囲し、無力化してみせる。……その後の治療は、すべてお前に任せる。お前の処方箋で、あの哀れな者たちを救ってやってくれ」
「……っ、はい……! ありがとうございます、ジルヴェスタ様……!」
胸の奥のつかえが、すっと消え去った。
殺すための戦いではない。
理不尽な暴力をねじ伏せ、毒に冒された命を救い出すための戦い。
私のやるべきことは、最初から決まっていたのだ。
見渡せば、防壁の上に並び立つ北方守護騎士団の戦士たちは、王都軍とは完全に別世界の「圧倒的な健康」を誇っていた。
全員の関節や腱には、エレナが考案した伸縮テーピングが巻かれ、首元や腰には疲労をためない特製湿布。
腰のポーチには、手作りの電解質・水分補給ゼリーと、クエン酸を黄金比で配合した滋養水筒が完備されている。
そして何より、一人ひとりの胸ポケットには、アレルギー歴と体調管理メモが記された、あの緑色の「お薬手帳」。
ドーピングによる一時的な興奮などではない。
日々の休養、適切な栄養、そして科学的な身体マネジメントによって極限まで高められた「健康な人体の本来の力」。
世界最強のヘルスケア軍団が、静かに、だが揺るぎない闘志を秘めて敵を待ち受けていた。
やがて――。
白竜峡谷の狭まり部に、王都軍一万の先頭が到達した。
前線に立つヴァルター卿が、大剣を天へと抜いた。
その隣で、ユルゲンが口元を歪め、勝ち誇ったように見張り塔の私を指差す。
「全軍、突撃ィィィッ! 反逆者を一人残らず切り捨てろォッ!!」
両軍が前線で対峙し、まさに激突の火蓋が切られようとした――その、刹那だった。
――ズズズズズズズズズズズズッッッッ!!!!
「「「…………ッ!?」」」
突如として。
峡谷全体を、いや、北方山脈の根底そのものを揺るがすような、不気味極まりない重低音の地鳴りが、大地の底から轟き始めた。
人間同士の戦争の喚声など一瞬で呑み込んでしまうほどの、圧倒的な自然の咆哮。
「な……何だ!? 地震か!?」
ヴァルター卿が狼狽して馬の手綱を引く。
だが、見張り塔の上のジルヴェスタ様は、瞬時にその異変の本質を察知し、紫の双眸を鋭く見開いた。
見上げる北方霊峰の稜線――万年雪に閉ざされていた白い頂から、モクモクと巨大な雪煙が立ち上り、山が丸ごと崩落するかのような地響きが、急速に谷間へと近づいていたのだ。
「……大スタンピードだ」
ジルヴェスタ様の冷徹な呟きが、風に乗って響いた。
寒冷期の異常気象によって冬眠を妨げられた、数千頭の凶暴な北方魔獣の津波。
人間同士の争いを嘲笑うかのように、白銀の悪夢が、二つの軍勢が対峙する谷間へと――今まさに、雪崩れ込もうとしていた。




