第37話:破滅への進軍要請。愚者たちが紡ぐ「反逆者討伐」の謀略
豪奢を極めたグランゼル帝国王宮の最奥、黄金と白大理石で彩られた「玉座の間」。
天井からは百合の紋章をあしらった巨大なクリスタルシャンデリアが幾重にも吊り下がり、豪奢な絨毯が敷き詰められている。しかし、その豪奢な広間を満たしていたのは、富の栄華などではなく――どこまでも淀み、饐えた、病魔と欺瞞の臭気だった。
「ゲホッ、ゴホッ……! う、うむ……それで、特使よ……北方は、如何であった……?」
玉座の上に浅く腰掛け、紫金色の天蓋に身を預けているのは、帝国の最高権力者たる老国王であった。
かつては英主と称えられた君主も、今や長年の内臓疾患と衰弱により、頬は削げ落ち、皮膚は土気色に変色している。その呼吸はゼイゼイと喘鳴を帯び、胸元を押さえる指先は枯れ枝のように震えていた。国王の傍らには、王立薬草院が連日献上している「発光ポーション」の金杯が置かれていたが、その表面にはギラギラとした魔力残渣が油膜のように浮き、飲むたびに胃壁を苛んでいることは、その苦悶に満ちた表情を見れば明白だった。
その玉座の階段の下、冷たい石畳に這いつくばっていたのは、北方から命からがら逃げ帰ってきた王室特使、ガルブレイス伯爵であった。
仕立ての良いはずの宮廷服は泥と雪解け水で汚れ、破れた裾からは青あざの残る手足が覗いている。
「へ、陛下……! あ、情けなや……! このガルブレイス、王命を伝える名代として北方のハーディン城へ赴きましたが……かの地の領主、ジルヴェスタ辺境伯は……人の皮を被った悪魔、王家に仇なす稀代の逆賊に成り果てておりましたぞッ!!」
ガルブレイスは額を床に擦り付け、大袈裟に両手を振り上げて慟哭してみせた。
「私が陛下の親書を読み上げるや否や、辺境伯は傲岸不遜にもそれを足蹴にし、あろうことか私に向けて抜剣いたしたのです! 『中央に渡す薬など一滴もない、王都の豚どもにくれてやる泥水はない』と公然と言い放ち、あまつさえ我が親衛隊の兵士たちを暴力で打ちのめし、私を雪山へと叩き出したのでございます!」
「な、何と……! ジルヴェスタ卿が……王命に、背いたと申すか……?」
老王が驚愕に目を見開き、胸をかきむしるようにして激しく咳き込んだ。
その瞬間を見逃さず、玉座の脇から一歩前へ進み出た影があった。
「陛下! もはや疑う余地などございますまい!」
芝居がかった悲痛な声を張り上げたのは、筆頭錬金術師ユルゲン・フォン・ブラントであった。
汚れの目立たぬよう真新しい純白のローブに着替え、胸の黄金メダルを指先で握りしめながら、さも国家の危機を憂う忠臣の面持ちで膝をつく。
「ハーディン辺境伯は、かねてより北方の軍事力を私物化し、中央の統制を逃れようと画策していた不穏分子! そして……我が王立薬草院から追放された男爵令嬢エレナ・ノール! かの毒婦こそが、この反逆劇の黒幕に他なりません!」
「エレナ……? 確か、其方の元婚約者であった、あの小娘か……?」
「左様にございます、陛下!」
ユルゲンは唾を飛ばし、懐から一枚の羊皮紙――自らが捏造した「偽りの成分鑑定書」を恭しく両手で掲げた。
「かの女は、己の無能ゆえに婚約破棄されたことを逆恨みし、追放される直前、王立薬草院の備蓄庫に保管されていた『ハイ・エーテルポーション』の基剤に、北方の遅効性猛毒を混入させていたのです! その毒が今まさに中央騎士団の兵たちの身体を蝕み、吐血と昏睡を引き起こしております! 中央軍の戦闘力を麻痺させた上で、北方の軍勢を率いて王都へ攻め上り、玉座を簒奪する……! これこそが、辺境伯とエレナが結託して描いた恐るべき国家転覆の謀略なのです!!」
澱みなく紡ぎ出される、あまりにも破廉恥で、あまりにも醜悪な大嘘。
自らの調合ミスによって兵士たちの腎臓と肝臓を破壊した事実を、そっくりそのまま「追放されたエレナの毒殺テロ」へとすり替える。
その場に居合わせた中央騎士団長ヴァルター卿もまた、重厚な軍靴を鳴らして前へ進み出ると、深々と頭を垂れて同調した。
「陛下。騎士団長たるこのヴァルター、ユルゲン殿の言に全面的に同意いたします。我が誇り高き部下たちが、何の理由もなく病に倒れるはずがございません。これは紛れもなく、敵の卑劣極まりない生物化学兵器による奇襲攻撃! 現に、辺境伯領では病人を一人も出さず、新薬を独占して軍備を急激に増強しているとの報告がございます! このまま座視すれば、王都は北方の鉄騎兵によって蹂躙され、帝国は瓦解いたしますぞ!」
「う、うむ……む……しかし、ジルヴェスタ卿は、長年北の防壁を守り抜いてきた功臣……。討伐となれば、国を揺るがす大戦となるぞ……」
病に冒され、思考力の低下した老王は、弱々しく首を横に振った。
だが、保身と権力欲に憑りつかれた二人のハイエナは、獲物を逃す気など毛頭なかった。
「陛下、今こそご決断を!」
ヴァルター卿が、獅子が吼えるような迫力で畳み掛ける。
「向こうから勅令を破棄し、王室特使に刃を向けたのです! これを見逃せば、王家の威信は地に堕ち、各地の諸侯が一斉に反旗を翻しましょう! 我が中央騎士団の精鋭一万に出陣を命じてくだされば、瞬く間に北方の反乱分子を鎮圧し、逆賊ジルヴェスタの首と、毒婦エレナの身柄をこの玉座の前に引きずり出してごらんに入れます!」
「さらに、陛下!」
ユルゲンがすかさず甘言を重ねた。
「エレナが北方の洞窟から不法に強奪したと目される幻の国宝生薬――『月光花』! かの奇跡の花の全備蓄を王都へ回収すれば、私の至高なる錬金術をもって、陛下のその御病を瞬時に完治せしめる『不老不死の霊薬』を調合することが可能となります! 反逆者を討ち、陛下の御代を永遠のものとするためにも……今こそ討伐の勅命を!!」
「不老不死の……霊薬とな……?」
死の恐怖に怯える老王の瞳に、濁った執着の光が灯った。
病魔に侵され、正常な判断力を奪われた君主にとって、「病が治る」という言葉ほど甘美な毒はなかった。
老王は震える手で羽根ペンを執ると、ヴァルター卿が差し出した羊皮紙――「ハーディン辺境伯討伐令」の決裁欄へと、歪な文字で署名を走らせ、重々しい国家の印章を押し当てたのだった。
「……相分かった。中央騎士団長ヴァルター卿を総司令官、筆頭錬金術師ユルゲンを従軍最高医療長に任じ……討伐軍一万の出陣を命ずる……! 反逆の芽を、根こそぎ摘み取って参れ……!」
「「ははぁっ! ありがたき幸せに存じますッ!!」」
平伏するヴァルターとユルゲン。
床に額を擦り付けた二人の口元には、暗がりの中で、醜悪極まりない三日月型の嘲笑が浮かび上がっていた。
◇
玉座の間を退出した二人は、人払いを命じた騎士団本部の作戦指令室へと足を踏み入れた。
重厚な樫の木の扉が閉ざされ、完全な密室となった瞬間、ヴァルター卿は佩剣を乱暴に円卓の上へと放り出し、フッと下品な笑い声を漏らした。
「ハハッ、うまくいったな、ユルゲン殿。あの老いぼれめ、不老不死という言葉を出した途端、涎を垂らしてサインしおったわ」
「ええ、まったく御しやすい豚骨董品です」
ユルゲンは優雅にワイングラスを傾け、深紅の酒を喉へと流し込んだ。
その表情には、先ほどまでの悲壮感など欠片も残っていない。
「これで、騎士団宿舎で吐血して倒れている兵どもの失態は、すべて『エレナの毒殺テロ』として処理されます。軍法会議で貴殿の責任が問われることは万に一つもございませんよ、ヴァルター卿」
「うむ。恩に着るぞ、ユルゲン殿。……だが、問題は前線の戦力だ」
ヴァルター卿は円卓の上に広げられた北方の軍事地図を指先で叩いた。
その眉間には、軍事指揮官としての現実的な懸念が刻まれている。
「いくら口先で誤魔化したところで、我が中央騎士団の一線級の兵士たちのうち、二割がすでに起き上がることすらできん状態だ。残りの兵たちも、度重なるポーションの服用で胃を痛め、顔色は悪く、足腰のふらつきを訴える者が続出している。この寒冷期に雪山を越えて、あの『氷血の狂犬』率いる北方守護騎士団と正面からぶつかるとなれば……戦力不足は否めんぞ」
「ククッ……何を弱気なことを仰るのですか、騎士団長閣下」
ユルゲンは嘲笑を浮かべ、懐から一本の硝子瓶を取り出した。
指先で弄ばれるその小瓶の中で揺らめいているのは――従来のハイ・エーテルポーションを遥かに凌駕する、毒々しいまでに激しく明滅する、青碧の魔力液体だった。
「これをご覧いただきましょう。我がブラント家の秘術の粋を集めて開発した、改良型『魔力活性・強壮ハイ・ポーション』です」
「改良型だと……? 何が違うのだ」
「簡単ですよ。有効魔力濃度をこれまでの二倍に引き上げ、さらに中枢神経を強制励起させる覚醒触媒を限界まで添加いたしました」
ユルゲンは目を細め、さも名案を語るかのように恍惚とした表情で語り始めた。
「これを兵たちに服用させれば、交感神経が一瞬にして限界突破し、体内の魔力回路が強制循環を始めます。いかなる疲労も、内臓の激痛も、骨の軋みも、脳が一切感知できなくなるのです! 恐怖を感じず、痛みに怯まず、雪山の極寒すら心地よい微風に感じられる……! 一昼夜を不眠不休で駆け抜け、魔獣すら素手で引き裂く『無敵の戦闘機械』が、一万人分完成するのですよ!」
「……何だと?」
ヴァルター卿が息を呑んだ。
歴戦の武人である彼にとっても、その提案の異常さは肌で感じ取れるものだった。
「痛みを一切感じぬだと……? しかしユルゲン殿、それは……単に痛覚を麻痺させ、身体を極限まで酷使しているだけではないのか? そのような無理を重ねれば、薬効が切れた瞬間に兵たちの肉体はどうなる……?」
「どうもこうもありませんよ、戦場で敵を殲滅してしまえばそれで終わりです」
事も無げに、虫螻芥の命を語るかのように言い放つユルゲン。
「使い捨てればいいのですよ。平民出身の兵卒など、いくらでも替えが利くではありませんか。重要なのは、北方の防壁を電光石火の勢いで蹂躙し、エレナを捕縛することです。あの女の首に鎖を繋ぎ、月光花の群生地を我が物とすれば、兵たちの内臓など後からいくらでも修復できます。……違いますかな?」
「…………」
ヴァルター卿は一瞬だけ躊躇いを見せたが、やがてその口元に、冷酷な野心の笑みが広がった。
兵士の命など、自分の出世と栄華に比べれば羽毛よりも軽い。
勝てば官軍。北方の広大な領地と、国宝級の薬草利権を手に入れれば、皇帝の座すら見えてくるのだ。
「フ……ハハハッ! 全くだ! 兵は勝つために死ぬのが本懐というものよ! 素晴らしいぞユルゲン殿! ただちに全軍へその新型ポーションを配備させよう!」
二人の愚者が、杯を打ち鳴らして醜い哄笑を響かせた。
それは――「医療」という行為が、人命を救うための慈愛から完全に切り離され、人間を壊れるまで使い倒すための「軍事ドーピング」へと堕落した、最も暗黒なる瞬間だった。
――だが。
その時、指令室の扉が激しく叩かれた。
「団長閣下! 軍医部のオズワルドです! 至急、お耳に入れたき儀がございますッ!」
押し入ってきたのは、先ほど医務棟で兵たちの治療に当たっていた老軍医オズワルドであった。
白衣を振り乱し、顔面を蒼白にした老人は、円卓の上の青白い薬瓶を見るなり、悲鳴のような声を上げた。
「か、閣下! 全軍への新型ポーション配備命令、聞き捨てなりませぬ! ただちに撤回してください! 兵たちの肝機能と腎機能は、すでに臨界限界を超えております! これ以上の魔力刺激と覚醒薬の強制投与を行えば……横紋筋融解症が劇症化し、戦場に到達する前に、全軍の半数が急性心不全とショック死で自滅いたしますぞッ!!」
現場の医師としての、魂からの警告。
人体の構造を知る者であれば、誰であっても理解できる明白な医学的事実。
しかし――。
「ええい、鬱陶しい老いぼれめが」
ユルゲンが冷ややかに舌打ちをした。
「オズワルド軍医、貴様は先ほどから私の調合に難癖ばかりつけているな。最高学府も出ておらん現場のヤブ医者風情が、王立薬草院筆頭の処方に口を挟むなど、身の程を弁えよ」
「身の程だと……!? 患者のバイタルが見えぬのか、貴様は! 尿がコーラ色に濁っておるのだぞ! ミオグロビンが尿細管を塞いでおるのだ! これは薬ではない、ただの毒だ!!」
「黙れッッッ!!!!」
ヴァルター卿の怒声が、指令室の壁を震わせた。
騎士団長は腰のサーベルを鞘ごと抜き放つと、老軍医の胸元を力任せに突き飛ばした。
「ぐはっ……!?」
石床に倒れ込む老軍医を見下ろし、ヴァルター卿は冷酷に言い放った。
「出陣を前にして軍の士気を乱すとは、貴様、さては北方のスパイか? 反逆者エレナに心を売り渡したか!?」
「な……何を仰いますか! 私はただ、兵たちの命を――」
「衛兵! この老いぼれを地下牢へ叩き込め! 軍医部の不穏分子は全員拘束し、出陣の邪魔をさせるな!」
「はっ!」
乱入してきた親衛隊の兵士たちによって、老軍医は腕をねじり上げられ、引きずられていく。
「やめろ……! 目を覚ませ、ヴァルター卿! ユルゲン! お前たちがやっていることは医療ではない! 悪魔の所業だ! 軍が……帝国軍が全滅するぞォォォッ!!」
老軍医の悲痛な絶叫が、廊下の奥へと消えていく。
邪魔者を排除したユルゲンは、服の埃を払うと、嘲笑を浮かべてワインの残りを飲み干した。
「ふん、愚かな老人め。医学の発展には常に犠牲がつきものだということも分からんとはな。……さあ、ヴァルター閣下、出陣の準備を整えましょう。我が至高のポーションで研ぎ澄まされた軍勢の力、世界に見せつけてやるのです」
「うむ。進軍ラッパを鳴らせ! 目標は北方のハーディン辺境伯城! 逆賊どもを皆殺しにせよ!!」
◇
王都の大演習場を取り囲む兵営。
冬の重く湿った鉛色の雲が垂れ込める中、整列させられた一万の中央騎士団の兵士たち。
その顔には、出陣を前にした戦士の覇気など微塵もなかった。
全員が土気色の肌をし、目の下には黒々とした隈が張り付き、寒風の中で肩を震わせている。胃の不快感に耐えかねて時折えずく者、手足の震えを隠すために必死に槍の柄を握りしめる者。すでに彼らの内臓は、度重なるポーション投与によって限界寸前の悲鳴を上げていた。
だが、そんな兵士たちの前に、ガラガラと重い荷馬車が何台も引き入れられた。
木箱の蓋が、次々とバールでこじ開けられていく。
パキリ、と音がして蓋が跳ね上がった瞬間――。
兵舎の薄暗がりを切り裂いて、異様な光景が広がった。
「な……んだ、あれは……?」
最前列にいた若い兵士が、息を呑んで後退った。
木箱の中に敷き詰められた藁の間から、数千、数万という単位で姿を現したのは――。
チカチカと、まるで神経を逆撫でするような、毒々しいまでに青く発光するガラス瓶の山だった。
不快なオゾンの臭気。
鼻腔を刺す薬品の刺激臭。
日光すら届かぬ鉛色の空の下で、その液体は不気味に泡立ち、飲む者の魂を内側から焼き尽くさんばかりの、狂気の輝きを放っていた。
「全軍に告ぐ!」
壇上に立ったヴァルター卿の、傲慢な号令が木霊する。
「王立薬草院筆頭ユルゲン殿が下賜された、奇跡の神薬を全兵士に配備する! 一滴残らず飲み干せ! 痛みを忘れ、疲労を忘れ、北方の反逆者どもを粉砕するのだッ!!」
無理やりに配られる、青白い瓶。
震える手でそれを受け取る兵士たち。
彼らはまだ知らなかった。
手渡されたその光り輝く小瓶が、名誉への鍵などではなく――己の肉体を内側から破壊し尽くす、死神の招待状であるということを。
破滅の毒を煽らされた一万の軍勢が、白銀の北方山脈目掛けて、ついにその重い足を踏み出したのだった。




