第36話:門前払いの処方箋。「用法用量を守れぬ者に渡す泥水はない」
大謁見の間に漂う空気は、完全に氷点下を下回っていた。
豪奢な大理石の床に這いつくばり、脂汗と屈辱で顔を歪めている王室特使、ガルブレイス伯爵。その周囲には、抜剣した北方守護騎士団の精鋭たちが鉄の壁となって取り囲み、一歩動けばその命を刈り取らんと、切っ先を突きつけていた。
親衛隊の騎士たちは腰を抜かしてサーベルを取り落とし、王宮魔導士たちは杖を握る手をガタガタと震わせている。
そんな惨めな特使を見下ろしながら、ジルヴェスタ様は私を引き寄せる左腕に、さらに確固たる力を込めた。
極光氷蚕とミスリルの糸で織られた純白の外套越しに、男の逞しい胸板の熱と、規則正しく力強い心音が伝わってくる。
「ガルブレイス。聞こえなかったのか」
ジルヴェスタ様の低い声が、静まり返った広間に冷ややかに落ちた。
黒剣はすでに鞘へと納められている。だが、その背後に渦巻く圧倒的な覇気は、抜剣時よりも遥かに重く、特使の肩にのしかかっていた。
「我が領の薬は、己の肉体を慈しみ、用法と用量を守る者のためにある。……ただ派手に光らせ、即効性という甘い毒に溺れ、兵の内臓を焼き尽くすような無能どものためにあるのではない。そんな連中に、この北方の清らかな雪を溶かして分かち与える泥水など、一滴たりとも存在せん」
「ひ……っ、ひぃぃ……!」
ガルブレイスは喉をひきつらせ、脂ぎった手で床を擦りながら後ずさった。
だが、みっともなく尻餅をついたまま、男の豚のような目が赤く血走り、醜い逆上を見せる。
王都で権勢を誇ってきた特使としてのプライドが、恐怖の底から這い上がってきたのだ。
「へ、辺境伯……! 貴様、本気で言っているのか……!? これは国王陛下の玉璽が押された直々の勅令なのだぞ! 薬草の供出を拒み、男爵令嬢の身柄引き渡しを拒絶する……! それが何を意味するか、貴様ほどの男が分からぬはずがあるまい!」
ガルブレイスは震える人差し指を、ジルヴェスタ様へ、そして彼の腕の中にいる私へと突きつけた。
「国家反逆罪だッ!! 中央の命に背き、王家の権威を踏みにじったのだ! この小娘一人のために、ハーディン家は逆賊の汚名を着ることになるぞ! 王都へ戻り、ありのままを奏上してやる! 近いうちに、中央騎士団の総力を挙げた十万の討伐軍がこの城を包囲し、貴様らの首を城門に晒すことになるだろう! 後悔しても知らんぞォッ!!」
喚き散らす特使。
だが、その脅迫に対して動じる者など、この広間には誰一人として存在しなかった。
「へっ、十万の大軍だぁ?」
鼻でせせら笑ったのは、大剣を肩に担いだ第一部隊長バルツだった。
野獣のような金髪を揺らし、獰猛な笑みを浮かべて特使の鼻先へとずいと踏み出す。
「おいおい、寝言はベッドの中で垂れ流しな、王都の豚野郎。十万だろうが百万だろうが、連れてこれるもんなら連れてきてみやがれ! てめえらの自慢の兵隊は、今頃ユルゲンとかいうペテン師の毒ポーションを煽って、全員胃袋ひっくり返して泡吹いてんだろ? 歩くこともできねえ腑抜けの大軍が、この北の雪山を越えられるわけねえだろうがよ!」
「な……ッ!?」
「バルツの言う通りですね」
冷ややかな美声を響かせたのは、治癒魔術師ロディンだった。
優雅に銀糸のローブを揺らし、指先にバチバチと青白い電撃を踊らせながら、蔑みの視線を投げかける。
「討伐軍が来る前に、あなた方のその腐った身体を心配なさったらいかがですか? 顔色がひどく浅黒く、唇が紫色に変色していますよ。長旅の寒さに耐えかねて、王都の高濃度ポーションでも煽ってきたのでしょう? ……エレナ様の解毒薬を乞い願う立場でありながら、その恩人に縄をかけようなどと、哀れを通り越して喜劇ですね」
「ぐ、ぐぬぬ……ッ!」
さらに、副団長カイエンが眼鏡のブリッジをクイと押し上げ、手に持った懐中時計の蓋をパチンと鳴らした。
「ガルブレイス卿。我が領の防衛境界線まで、馬車を急がせても半日はかかります。……今すぐその無様な部隊をまとめ、城外へ立ち去らぬのであれば、不法侵入および領主に対する公然侮辱罪を適用し、この場で全員の四肢を叩き折って地下牢へ叩き込みますが? 猶予は三分です」
「「「ヒィィィッ!!」」」
親衛隊の兵士たちが悲鳴を上げ、倒れていた同僚を慌てて担ぎ上げた。
魔導士たちも杖を放り出す勢いで扉へと殺到する。
「お、覚えていろ……! ハーディン辺境伯、エレナ・ノール! 必ず、必ず後悔させてやるからなァッ!!」
ガルブレイスは転がるように立ち上がると、泥に汚れた宮廷服の裾を両手でたくし上げ、脱兎のごとく大広間から逃げ出していった。
ドタバタと無様な足音を立てて逃げ惑う親衛隊の背中。
やがて、城門の跳ね橋がガラガラと上がり、王都の紋章を掲げた馬車が、まるで火のついた車輪のように雪煙を巻き上げて南の街道へと逃げ去っていくのが、謁見の間の高窓からも見えた。
◇
重厚な扉が再び閉ざされ、広間にシンとした静寂が戻った。
騎士たちが整然と剣を鞘へと収め、周囲の張り詰めた魔力がゆっくりと霧散していく。
だが――私を抱き寄せていたジルヴェスタ様の腕から、その温もりが離れた瞬間。
私の胸の奥に、鉛を飲み込んだような重苦しい冷たさが、急速に広がっていった。
「…………」
私は、純白の新しい外套の袖口を、両手でギュッと強く握りしめた。
特使の投げ捨てていった、あの言葉。
『国家反逆罪だ! この小娘一人のために、ハーディン家は逆賊の汚名を着ることになるぞ!』
『十万の討伐軍がこの城を包囲する!』
私が、原因なのだ。
私が王都でユルゲンに追放され、この北方の地にやって来なければ。
私が湿布を作り、消化薬を調合し、月光花を発見しなければ。
このハーディン辺境伯領が、王都の最高権力から「反逆者」として目をつけられ、戦争の危機に晒されることなどなかったはずなのだ。
(私のせいで……この人たちを、戦火に巻き込んでしまう……?)
前世の記憶が、黒い影となって蘇る。
病院で、私が医師の過剰投与に口を挟んだことで、薬局と医局の関係が悪化し、「余計なことをするな」と周囲から孤立していった、あの居たたまれない空気。
自分の正しさが、結果として周囲の人々をトラブルに巻き込み、迷惑をかけてしまうのではないかという、拭い去れないトラウマ。
「……ジルヴェスタ様」
私の唇から、微かに震える声が漏れた。
俯いたまま、男の足元に広がる大理石を見つめる。
「……申し訳、ありません……」
「何がだ」
ジルヴェスタ様の、静かな問い。
「私のせいです……。私が、王都の薬の危険性を指摘し、彼らのプライドを逆撫でするような新薬を作り続けたから……。私がここに来たせいで、ハーディン辺境伯領は、王家との決定的な破滅の危機を迎えてしまったのではありませんか……? 私さえ……私さえ王都へ出頭していれば、領民や騎士の皆さんが、戦争に怯えることなんて――」
「エレナ」
私の言葉は、低く、だが鋼よりも確固たる響きによって遮られた。
「え……?」
ハッと顔を上げた瞬間――。
視界が、漆黒の毛皮の温もりによって埋め尽くされた。
ガシッ、と。
ジルヴェスタ様の逞しい両腕が、私の華奢な肩を包み込み、そのまま力強く自らの胸元へと抱き寄せたのだ。
耳元で、男の心臓が力強く脈打っている。
ドクン、ドクン、ドクン――それは、先ほどのテラスで見せた不整脈のような乱れではなく、大地を揺るがす軍神の、揺るぎない覚悟を刻む鼓動だった。
「ジルヴェスタ……様……?」
「莫迦を言うな」
男の唇が、私の頭頂部、髪の生え際をかすめるほどの至近距離で動いた。
その吐息は熱く、震える私の心を芯から溶かすように温かい。
「お前のせいだと? なぜお前が謝る必要がある。……お前が何をしたというのだ。瀕死の私を救い、痛みに泣く兵を癒やし、苦しむ領民に笑顔を取り戻させ、安全に生きるための知恵を授けてくれた。お前がやったことのどこに、一片の罪があるというのだ」
「で、でも……王都軍が攻めてきたら……!」
「王都の腐敗という膿が、噴き出しただけの話だ」
ジルヴェスタ様は私の肩から手を離すと、自らの両手で、私の両頬をそっと包み込んだ。
大きな、硬いタコのある手。だが、その触れ方は、世界に一つしかないガラスの細工物を扱うかのように、どこまでも繊細だった。
至近距離で見つめ合う。
その紫の双眸には、暗雲など微塵もなかった。
澄み渡る北方冬空のような絶対の静謐と、私に対する――狂おしいほどの、深く熱い情愛の炎。
「あいつらは最初から、己の保身のために誰かをスケープゴートに仕立て上げる気だったのだ。お前が作った薬草を奪い、自らの医療過誤を隠蔽し、北方の軍権を奪う……あいつらの強欲と腐敗は、お前がいようがいまいが、いずれこの領地へと牙を剥いていた。お前はその歪みを、正しい光で白日の下に晒してくれただけに過ぎん」
ジルヴェスタ様の親指が、私の目尻に浮かびかけていた涙の雫を、そっと拭った。
「エレナ。お前はかつて、私に言ったな。『治療は戦いではない』と。『身体を休め、命を慈しむことこそが医療だ』と。……お前が創り出したその正しい医療を、お前の居場所を、この私が命に代えても守り抜く。誰一人として、お前の髪の毛一本に触れさせはせん」
「ジルヴェスタ様……」
「安心しろ。お前の処方箋通り、私は今、かつてないほど万全だ。……我が騎士団も、領民も、全員が万全の肉体でお前の背後に立っている。十万の大軍が来ようと、十日も持たずに返り討ちにしてくれるわ」
不敵に、獰猛に笑う男の顔。
その力強い笑みを見た瞬間、私の胸の奥を締め付けていた冷たい鉛の塊が、ふわりと温かい蒸気となって消え去っていった。
そうだ。
私はもう、前世の孤独な調剤室に一人で閉じこもっているわけではない。
私の薬を信じ、私の言葉に耳を傾け、命を預け合える仲間たちが、こうして私を囲んでくれているのだ。
「そうですぜ、エレナ様!」
後ろから、バルツが豪快に胸板を叩く音が響いた。
「俺たちの背中に湿布を貼ってくれたのは誰ですか! 腰の痛みを消してくれたのは誰ですか! エレナ様がくれたこの絶好調の身体を、今使わねえでいつ使うってんですかい! 王都の温室育ちの軟弱者どもが攻めてきたら、俺が先頭に立って全員雪だるまにしてやりますよ!」
「ふふ、バルツ隊長にしては良いことを言いますね」
ロディンが妖艶に微笑み、私の元へ歩み寄って優雅に一礼した。
「エレナ様。あなたのおかげで、私の頭の霧は晴れ、魔力回路はかつてない純度で満ちています。王都軍が来るというのなら、私の全魔力を込めた広域支援結界で、城全体を神話の城塞へと変えて差し上げましょう。……あなたを奪おうとする不届き者には、脳が焼き切れる悪夢をプレゼントしてあげますから」
「物騒な発言は控えなさい、ロディン」
カイエンが呆れたようにため息をつきつつも、その眼鏡の奥の瞳には、冷徹な戦意がみなぎっていた。
「すでに近隣七諸侯の軍事同盟の締結書面を作成いたしました。兵站、食糧備蓄、医薬品の流通ルート……すべてにおいて、我がハーディン領を中心とする北方連合は、王都軍を遥かに凌駕しております。……エレナ様。事務方としても、あなたをお渡しする気は爪の先ほどもございません。安心して、あなたの研究を続けてください」
「みんな……」
私は胸元に手を当て、込み上げてくる熱い思いに唇を噛み締めた。
誰も、私を道具として見ていない。
「薬を作れる便利な女」として囲い込んでいるのではない。
一人の人間として、愛すべき仲間として、命をかけて守るべき「至宝」として、私を受け入れてくれているのだ。
私は深く息を吸い込み、涙を拭って顔を上げた。
瞳に宿るのは、迷いをかなぐり捨てた、臨床薬剤師としての誇りと闘志。
「……はい! ありがとうございます、皆様! ……私も、逃げたり隠れたりしません!」
私は白衣の裾をパッと翻し、広間の中心へと歩み出た。
「敵が攻めてくるというのなら、受けて立ちましょう! ただし、私たちの戦いは、毒や暴力で人を殺すためのものではありません! 怪我人を一人も出さず、疲労を限界まで抑え、全員が健康なまま生き残るための――『医療と生化学の完全勝利』を成し遂げてみせます!」
「「「オオォォォッッッ!!!!」」」
騎士たちの雄叫びが、謁見の間の天井をビリビリと震わせた。
王都の権力に対する、北方の完全なる反旗。
それは破壊のための戦争ではなく、正しい生命の理を守り抜くための、至高の防衛戦の始まりだった。
◇
――そして、数日後。
遥か南方の帝国王都、グランゼル城・玉座の間。
「――な、何だとッ!? ハーディン辺境伯が、勅令を破棄しただと!?」
玉座に座る病弱な老皇帝の御前で、割れんばかりの怒号が響き渡った。
叫んだのは、中央騎士団長ヴァルター卿だった。
その眼前には、北方の泥に塗れ、衣服を引き裂かれ、命からがら逃げ帰ってきた特使ガルブレイスが、床に這いつくばってガタガタと震えていた。
「は、はいぃぃっ! 辺境伯は……ジルヴェスタ卿は、王命を伝えるこの私に抜剣し、鼻先に切っ先を突きつけて脅迫したのです! 『用法用量を守れぬ者に渡す泥水はない』と……! 新薬の供出も、男爵令嬢エレナの引き渡しも、断固として拒絶いたしました!」
「おのれ……! なんという不敬! なんという傲慢!」
玉座の脇に控えていた筆頭錬金術師ユルゲンが、待ってましたとばかりに前に進み出た。
その顔には、狂気じみた歪んだ歓喜が貼り付いている。
「陛下! ヴァルター卿! お聞きになりましたか! これこそ、ハーディン辺境伯が王家に弓を引く明白なる証拠です! かの地で独自に軍を強化し、新薬を独占し、中央騎士団を毒で無力化して反逆を企てているのです! もはや一刻の猶予もございません! ただちに『反逆者討伐令』を発布し、大軍をもって北方を焦土に変えるべきです!!」
ユルゲンの言葉に、ヴァルター卿もまた、瞳の奥にどす黒い野心をギラつかせながら、玉座に向かって深々と片膝をついた。
「陛下。中央騎士団の名誉、そして王家の威信にかけて、この反逆を座視するわけにはまいりません。我が中央騎士団の総力を結集し、ユルゲン殿の至高なる『ハイ・エーテルポーション』を全軍に配備して出陣すれば、北方の狂犬など瞬時に踏み潰してみせましょう! どうか、討伐軍の出撃をご決断ください!」
自らの医療過誤と失態を覆い隠すため。
そして、北方の豊かな資源と、エレナの持つ奇跡の技術を暴力で強奪するため。
私利私欲に塗れた二人の愚者の謀略が、病床の皇帝を巧みに言いくるめていく。
やがて、老いた皇帝の口から、重々しく、破滅を告げる勅命が下された。
「……相分かった。ハーディン辺境伯を反逆者と認定する。……中央騎士団長ヴァルター卿を総司令官とし、討伐軍一万の出陣を命ずる」
「ははぁっ! ありがたき幸せにございます!!」
平伏するヴァルターとユルゲンの口元に、醜悪極まりない嘲笑が浮かんだ。
軍営へと戻る廊下で、ユルゲンは懐の中の青白く光る薬品の束を握りしめ、低く嗤った。
「フハハ……ハハハハハ! 待っていろよエレナ! 貴様の首に鎖を巻きつけ、私の足元に這いつくばらせてやる! 私のハイ・エーテルポーションで極限までドーピングされた無敵の軍団が、貴様の小細工ごと、すべてを踏み潰してくれるわ!!」
自らの飲ませる「光る毒」によって、兵士たちの内臓がすでに崩壊寸前の悲鳴を上げていることなど、狂気に憑りつかれた男の耳には、もはや一欠片も届いていなかった。
破滅への進軍ラッパが、王都の空にけたたましく吹き鳴らされる。
愚者たちの紡ぐ狂気の軍勢が、白銀の北方大地目掛けて――今まさに、動き出そうとしていた。




