第43話:敵味方など関係ない! 薬剤師のトリアージ宣言
白竜峡谷の雪原を吹き抜ける風が、ピシリと凍りつくような冷たさで頬を刺した。
魔獣の大スタンピードを無傷で押し返した北方守護騎士団の勝鬨が、峡谷の岩壁に木霊している。
だが――その歓声の輪のすぐ足元、谷の入り口から雪原にかけて広がっていたのは、まさに現世に現出した無間地獄そのものの光景だった。
雪泥の上に折り重なり、倒れ伏す王都討伐軍の兵士たち。
その数は、千や二千にとどまらない。
数千人規模の兵士たちが、自らの飲んだユルゲンの「光る毒」――高濃度ポーションの激甚な副作用によって、雪原の至る所で悶絶していた。
ある者は気道浮腫によって喉を掻きむしり、ヒューヒューと笛のような悲鳴を上げながらチアノーゼで顔面を青黒く染め抜いている。
ある者は多発性の急性胃粘膜病変と消化管出血により、赤黒い血泡を口からとめどなく吐き散らし、エビのように体を折り曲げて雪を爪で引っ掻いていた。
さらに恐ろしいのは、薬物性血小板減少症(DITP)を引き起こした者たちだった。浅いかすり傷からすら血液の凝固が完全に破綻し、サラサラとした鮮血が雪の上に広がって、凍てつく大地を赤黒い氷の絨毯へと染め変えていく。
「さ、寒い……」「息が……吸えない……」「母さん……助けて……」
途絶え途絶えに漏れ出る、若き兵士たちの掠れた呻き声。
気温は氷点下十度を優に下回っている。
末梢血管の異常収縮と大量失血、そしてショックによる血圧低下。
このまま極寒の雪原に放置されれば、一刻と経たずに低体温症が心室細動を誘発し、彼らの生命の灯火は一人残らず吹き消される。
将であるヴァルター卿とユルゲンは、自軍の兵士たちを見捨てて後方の馬車へ逃げ惑い、救護に当たるべき軍医は王都で投獄されたまま、ここには一人もいない。
放置された数千の命が、ただ冷たく、孤独に死を待っていた。
「…………っ!」
私の足が、思考よりも先に大地を蹴っていた。
防壁の石段を、転がるような勢いで駆け下りる。
白衣の裾が風に翻り、ポケットの中の聴診筒と金属製の薬さじがカチャカチャと激しい金属音を立てた。
足元では、仔獣テオが銀色の毛を逆立てながら、私のすぐ横をピッタリと並走している。
「エレナッ!!」
背後から、雷鳴のような鋭い怒声が飛んできた。
疾風のように雪煙を巻き上げて間合いを詰め、私の右腕をガシッと力強く掴み取ったのは――漆黒の毛皮外套を羽織ったジルヴェスタ様だった。
「待て! 前へ出るな、エレナ!」
ジルヴェスタ様の紫の双眸には、戦場を統べる総長としての厳しい光と、何よりも私を失うことを恐れる切実な焦燥が渦巻いていた。
男の硬い革手袋が、私の細い手首を痛いほどの力で握りしめる。
「あそこはまだ敵陣の只中だ! 残余の魔獣が潜んでいるかもしれんし、錯乱した王都兵が武器を振り回すやもしれんのだぞ! 奴らは我が領を攻め滅ぼし、お前を逆賊として捕縛するために剣を抜いた侵略者だ! 自業自得の毒で自滅した連中のために、なぜお前が危険を冒してまで前に出なければならんのだ!」
合理的で、主君として、そして私を守ろうとする男として、あまりにも正当な言葉だった。
彼らは敵なのだ。
王都の権力を笠に着て、私たちの平和を暴力で踏みにじりに来た者たち。
彼らが自ら煽った毒で勝手に倒れたのだから、見殺しにしたところで、法にも神の掟にも問われる筋合いなどどこにもない。
背後からは、大剣を収めたバルツや、カイエン、ロディンたちも息を切らせて駆け寄ってきていた。
「そうだぜ、エレナ様! あんな恩知らずのモヤシども、放っておけばいいんです!」
「ええ、エレナ様。彼らの処遇は軍事捕虜としての枠組みで、後ほど協議すれば十分です。今あなたが飛び込む必要はありません」
仲間たちの制止の声。
だが――。
「――ジルヴェスタ様ッ!!」
私の喉から迸ったのは、これまで誰にも向けたことのない、烈火のごとき怒声だった。
凛として、高く、雪原の風を切り裂くような一喝。
ジルヴェスタ様の目が、驚愕に見開かれた。
「私を止めないでくださいッ!!」
私はジルヴェスタ様の手を、両手で力任せに押し戻した。
翡翠の瞳を血走らせ、至近距離から男の紫の瞳を真っ向から射抜く。
「敵だろうと味方だろうと、そんなことは関係ありません! 侵略者だろうと罪人だろうと、目の前に倒れているのは、今まさに息絶えようとしている生身の人間です! 苦しんでいる患者を目の前にして、国籍や立場を理由に見捨てるくらいなら――私は今ここで、薬剤師の看板を下ろして白衣を脱ぎ捨てます!!」
「エレナ……」
「医療は! 復讐の道具でも、国家の武器でもありません!」
私の胸の奥から、前世の激務病棟で、そしてこの異世界で培ってきた、医療従事者としての魂の叫びが溢れ出す。
「前世の医学の祖――ヒポクラテスは誓いました! 『我が能力と判断の及ぶ限り、患者の利益のために治療法を選び、決して害を加えない』と! ジュネーブ宣言は謳いました! 『私は、人種、宗教、国籍、政党政派、または社会的地位のいかんによって、私の患者に対する義務を左右させない』と! 医療とは、人が人を助けるための、この世界における最後の良心であり、絶対の防波堤なのです!」
私は雪原に転がる、血泡を吐く若い兵士の姿を指差した。
「あの子たちを見てください! 上に騙され、毒を薬と信じ込まされ、内臓を焼き尽くされて捨て駒にされた! 彼らの愚かさを罰するのは法の役目であって、医療の役目ではありません! 私の目の前で、救えるはずの命がこぼれ落ちていくのをただ見過ごすことなど、私の魂が絶対に許さない!!」
雪煙の中で叫ぶ私の姿。
それは、か弱い男爵令嬢などではなかった。
神話の戦場に降り立ち、命の尊厳を冒涜するあらゆる不条理に対して、たった一人で牙を剥いて立ち塞がる「医療の化身」そのものだった。
「…………っ」
ジルヴェスタ様は、息を呑んだ。
男の腕から、ふっと力が抜ける。
圧倒されていた。
帝国最強と恐れられ、数多の戦場で敵を震え上がらせてきた「氷血の辺境伯」が、目の前にいる小柄な少女の放つ、あまりにも純粋で、あまりにも気高い倫理の光の前に、魂の底から打ちのめされていたのだ。
沈黙が雪原を支配した。
やがて――。
ジルヴェスタ様の口元が、わずかに、誇らしげに緩んだ。
男は自らの額に手を当て、低く、喉を鳴らして笑い出したのだ。
「……フ……ハハッ……」
「ジルヴェスタ様……?」
「やはり……お前には、敵わんな、エレナ」
ジルヴェスタ様は顔を上げると、その紫の瞳に、国をも動かす絶対の覇気と、最愛の女性への無限の信頼を宿して私を見つめ返した。
「お前がそこまで言うのだ。……この私が、お前の信念を阻む理由など、どこにもあるまい」
ジルヴェスタ様は身を翻すと、背後に控えていた全軍に向けて、天地を揺るがすような号令を叩きつけた。
「全軍に告ぐッッッ!!!!」
ドォォォォンッ! と大気が震える。
「武器を収めよ! これより、我が北方守護騎士団は、調合師エレナの指揮下に入り、全力を挙げて王都兵の救護活動を支援する! 敵味方の区別を捨てろ! エレナの指示に従い、雪原のすべての命を拾い上げろッ!!」
主君の絶対の一喝。
その号令に、騎士団の男たちが一瞬にして呼応した。
「へっ、そうこなくっちゃ面白くねえ!」
バルツが大剣を背中の鞘へと豪快に叩き込み、腕まくりをした。
「野郎ども、エレナ様の号令だ! 力仕事なら俺たちの筋肉の出番だぞ! 一人残らず担ぎ上げてみせろ!」
「救護テントの設営資材を直ちに防壁倉庫から搬出させます!」
カイエンが手帳を広げ、電光石火の速度で事務指示を飛ばす。
「各部隊の通信網を救急ラインへ切り替え! 搬送動線を確保しなさい!」
「私も魔力をすべて温熱結界の維持に回しましょう」
ロディンが魔導杖を構え、艶やかな笑みを浮かべる。
「凍死寸前の患者たちの体温を、私の魔力で温めて差し上げますよ」
そして――。
「師匠ォォォッ! オットー、トランクを抱えて参上いたしましたぞッ!」
城内から息を切らして駆け下りてきた老侍医オットーが、両手に巨大な薬品トランクを抱えて雪原へと滑り込んできた。
全員が、私の背後に揃っていた。
誰一人として異論を挟む者はいない。
私を信じ、私の処方箋のもとで命を救うために、最強の戦士たちが「最強の救急チーム」へと変貌を遂げたのだ。
「皆様……! ありがとうございます!」
私は涙を拭う暇もなく、白衣の胸元から、あらかじめ準備していた四色の布切れ――赤、黄、緑、黒のリボンの束を鷲掴みにした。
翡翠の瞳を鋭く見開き、雪原を指差して高らかに叫ぶ。
「これより、災害緊急医療プロトコル――『START式トリアージ(傷病者重症度選別判定)』を開始します!!」
「「「トリアージ……!?」」」
オットーやロディン、騎士たちが目を丸くする。
私は四色の布を掲げ、凛とした通る声で、その絶対のルールを叩き込んだ。
「いいですか! 患者は数千人、それに対して医療資源と私たちの手手配は有限です! 感情に流されて手当たり次第に手当をしていては、助かるはずの命まで共倒れになります! 限られた時間の中で『最大多数の命を救う』ため、客観的バイタルサインに基づいて、機械的なまでの冷徹さで患者を四つの群に選別します!」
私は赤色の布を高く掲げた。
「第一優先――【赤(最重症・緊急治療群)】! 気道狭窄、アナフィラキシーによる呼吸困難、橈骨動脈の拍動が触れないショック状態、意識障害! 今すぐ気道確保と解毒処置を行わなければ、数分から数十分で死に至る患者です! 見つけ次第、最優先で救護テントへ搬送しなさい!」
続いて、黄色の布。
「第二優先――【黄(待機的治療群・中等症)】! 激しい腹痛や骨折、広範囲の出血はあるが、呼吸が保たれ、脈拍がしっかり触れ、意識が清明な者! 数時間の待機に耐えられる患者です! 赤の処置が一段落するまで、保温して待機させます!」
そして、緑と黒の布。
「第三優先――【緑(軽症・保留群)】! 『自力で立ち上がり、歩ける者』! 歩ける者は全員緑です! 誘導員の声に従わせて一箇所に集め、毛布を配って自分たちで保温させなさい! 治療は最後です!」
私の声が、わずかに低く、重くなった。
「そして……第四優先――【黒(不搬送群・死亡)】……。すでに呼吸が完全に停止し、気道確保を行っても自発呼吸が再開しない者、心停止に至った者……。助けたい気持ちは分かりますが、心肺蘇生を行っている時間はありません! 黒のリボンを結び、直ちに次の生きている患者へと移動しなさい!!」
冷酷なまでの合理性。
感情を排し、バイタルサインという絶対の客観基準だけで命の優先順位を決める、災害医療の究極のトリアージ。
オットーが、ロディンが、バルツが、その凄まじい論理の鋭さに息を呑んだ。
「選別基準は極めてシンプルです! 『歩けるか?』『呼吸をしているか?』『脈はあるか?』『簡単な呼びかけに応じるか?』――この四段階のフローチャートを、一人あたり三十秒以内で判定しなさい! オットー先生、ロディン、カイエンは私と共にトリアージオフィサー(選別官)を務めます! バルツ隊長率いる騎士団は、赤の患者を救護テントへリレー搬送しなさい!」
「「「了解ッッッ!!!!」」」
地鳴りのような返答とともに、前代未聞の救護活動が幕を開けた。
◇
私は白衣の裾を翻し、雪原の中央へと突撃した。
足元には、真っ青な顔をして倒れている王都の若い槍兵。
私は迷うことなく彼の胸元へ膝をつき、肩を強く叩いた。
「もしもし! 聞こえますか!?」
「あ……が……」
喉が詰まったような喘鳴。呼吸数は毎分三十回を超え、浅く速い頻呼吸。
すかさず右手の人差し指と中指を、彼の右手首――橈骨動脈へと沈める。
脈波が微弱で、糸のように細い。爪床を圧迫して離すと、白くなった爪の色が赤く戻るまでに三秒以上かかる(毛細血管再充満時間の延長)。
「重度の末梢循環不全、アナフィラキシーによる気道浮腫! ――判定、【赤】!!」
私は赤色のリボンを兵士の左手首に素早く巻きつけ、叫んだ。
「担架班、赤一名! 直ちに気道を確保しながらテントへ搬送! アドレナリン様生薬の皮下投与準備!」
「おうよッ!」
駆けつけた二名の辺境騎士が、手際よく即席担架に兵士を乗せ、疾風のように後方へと走り去る。
私は即座に立ち上がり、次の患者へと跳んだ。
隣で倒れていた重装歩兵。腹部を押さえて呻いている。
「動けますか!? 私の手を握り返してください!」
「う、うぐ……痛い……腹が……」
男は苦悶の表情を浮かべながらも、私の手をギュッと握り返してきた。
橈骨動脈の拍動は力強く、呼吸数毎分二十回。意識清明。
「急性胃炎による激痛、出血傾向はあるが循環動態は安定! ――判定、【黄】!」
黄色のリボンを巻き、保温用毛布を一枚被せる。
「横向きに寝て、膝を曲げてお腹を緩めなさい! 後で必ず胃薬を持ってきますから、今は動かないこと!」
「は、はい……!」
敵であるはずの私に命を救われ、兵士が涙目で頷いた。
さらに奥へ進む。
オットー先生が老眼鏡を光らせながら叫んでいた。
「歩ける者は儂の声の方へ集まりなさい! 自力で歩ける者は全員【緑】じゃ! そこの岩陰の焚き火へ行き、毛布を被って白湯を飲むのじゃ!」
「ロディン様、こちらの兵士、呼吸がありません!」
「待ちなさい、下顎挙上法で気道を確保します……っ、自発呼吸が再開しました! 呼吸数毎分八回、徐呼吸! 判定、【赤】です! 急ぎ酸素吸入と解毒を!」
阿鼻叫喚だった雪原が、エレナの導入したトリアージシステムによって、驚異的な速度で「秩序ある野戦トリアージエリア」へと整流されていく。
無駄な混乱は一切ない。
重篤な者が優先的に拾い上げられ、待てる者は安全に待機させられ、歩ける者は自立して低体温症を防ぐ。
かつて王都軍を恐怖に陥れた死の雪原が、生還へのベルトコンベアへと塗り替えられていく。
そして――。
ドォォォォンッ!
雪原の中央、風の遮られる巨大な岩壁の窪みに、巨大な天幕が立ち上がった。
辺境伯軍の輜重隊が全力を挙げて設えた、幅五十メートルを超える巨大な軍用テント。
ロディンの魔力によって内部には温風が吹き荒れ、オットーの弟子たちが運び込んだ大鍋からは、熱湯の湯気がもうもうと立ち上っている。
天幕の入り口には、白布に赤い十字の生薬葉を模した旗が掲げられていた。
雪原のど真ん中に誕生した、前代未聞の「野外緊急救護ステーション」。
敵味方の垣根を越え、ただ命を繋ぎ止めるためだけに稼働を始めたその奇跡の砦へ向けて、赤のリボンを巻かれた瀕死の王都兵たちが、次々と運び込まれようとしていた。




