第30話:その頃王都では。ユルゲンの「光る毒」で騎士団が崩壊寸前!?
極寒の北方ハーディン辺境伯領が、若き調合師エレナの合理的かつ温かな医療によって未曾有の活気と繁栄に沸き立っていた、まさにその同じ刻――。
遥か南方に位置する栄華の都、グランゼル帝国王都は、きらびやかな外観の裏側で、音を立てて内部から腐り落ちようとしていた。
王宮の西翼に広がる、帝国中央騎士団の大演習場および兵舎。
国を挙げた軍事パレードや観兵式が行われるその神聖なる広場は今、凄惨を極める阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
「――が、ふッ……!? あ、熱い……! 腹が……腹の奥が、燃えているぅぅっ!!」
ドシャァァッ! と重い金属音を立てて、模擬戦の最中だった重装歩兵が一騎、前のめりに石畳へと崩れ落ちた。
手にした白銀の槍が虚しく転がる。
倒れた男は、喉を掻きむしりながらエビのように体を丸め、両手で自らの鳩尾を骨が軋むほどの力で圧迫していた。
次の瞬間、ガボッ、ゴホッ! と激しい嘔吐の音とともに、男の口から噴き出したのは――胃液などではなかった。
酸化して黒ずんだ赤黒い血液の塊。それが石畳の隙間を埋め尽くし、鼻を突く強烈な生臭さと、焦げ付いたような異臭が立ち込める。
「た、隊長!? しっかりしてください!」
「おい、衛生兵を呼べ! まただ、また誰か倒れたぞ!」
悲鳴のような怒号が飛び交う。
だが、駆け寄ろうとした別の騎士までもが、突如として足を止め、自らの喉を抑えてその場に膝をついた。
「ひ……ヒューッ、ヒューッ……! い、息が……吸えん……! 喉が、喉が塞がる……! 目が見えん……目の前が、真っ赤に――ぎゃああああっ!!」
バタバタと痙攣し、白目を剥いて卒倒する巨漢の戦士たち。
一人ではない。
二人、五人、十人――演習場のあちこちで、連鎖的な爆発でも起きたかのように、帝国中から選び抜かれたはずの屈強な騎士たちが、次々と血の泡を吹いて倒れ伏していったのだ。
ある者は激しい腹痛に悶絶して自らの腹を殴りつけ、ある者は全身に浮かび上がった真っ赤な蕁麻疹を血が出るまで掻きむしり、ある者は呼吸停止に陥って唇をどす黒い紫色へと変色させていく。
その光景は、もはや訓練中の事故などという生ぬるいものではなかった。
目に見えぬ悪魔によって、軍団そのものが内側から無差別に虐殺されているかのような惨状だった。
「どけ! 道をあけろ! 重篤者を医務室へ運ぶのだ!」
担架が足りず、騎士たちが倒れた同胞を肩に担ぎ、中央兵舎の医務棟へと雪崩れ込んでいく。
しかし――運び込まれた先の医務大広間は、すでに収容の限界をとうに超え、足の踏み場もないほどの死屍累々が広がっていた。
◇
「……ひ、酷すぎる……! 一体何が起きているというのだ!?」
白衣を血と吐瀉物で汚した王宮筆頭軍医が、震える手で聴診器具を取り落とした。
長年、数々の戦場をくぐり抜けてきた老医師の顔は、完全な恐慌によって土気色に染まっていた。
ベッドの上に並べられた百名を超える騎士たちの姿。それは、いかなる既知の感染症とも、魔獣の猛毒とも異なる、異常極まりない生体破壊の様相を呈していた。
「先生! 第三小隊の騎士五名、意識レベル低下! 呼びかけに応じません!」
「脈拍が微弱! 血圧が測定不能です!」
「導尿カテーテルを挿入した兵の尿が……み、見てください、これはいったい何なのですか!?」
若い衛生兵が悲鳴を上げながら掲げたガラス製の蓄尿瓶。
それを見た老軍医は、息を呑んで後退った。
瓶の中に溜まっていたのは、黄色い尿などでは断じてなかった。
光を一切通さない、濁りきった――不気味な黒褐色。まるで濃厚なコーラか、煮詰めた醤油のような液体だった。
「こ、コーラ色の尿……!? 血尿か!? いや、赤血球の沈殿ではない……! これは……筋肉の……!?」
さらに恐ろしいのは、兵士たちの皮膚の色だった。
騎士たちの逞しい腕や胸元、そして白目の部分(眼瞼結膜)が、まるでペンキを塗りたくったかのように、異様な黄色――重度の黄疸によって染まり上がっていたのだ。
皮膚からはアンモニアに似た独特の刺激臭が漂い、昏睡状態に陥った兵士たちの指先は、羽ばたくように不規則にピクピクと痙攣(羽ばたき振戦)している。
「肝機能の完全停止……劇症肝炎の末期症状だ……! それに、この尿は筋肉が融解して腎臓を目詰まりさせている証拠……! 急性腎不全による尿毒症だ! 体内の解毒機能と排泄機能が、同時に完全に壊滅している……!」
「未知の呪いでしょうか!? 敵国の呪詛術師が、兵舎の水源に呪いを仕掛けたのでは……!?」
医師たちがパニックに陥り、神殿の司祭たちを呼んで聖水を撒き散らさせる。
だが、いくら祈りを捧げようと、聖別された光を当てようと、倒れた兵士たちの容態は悪化の一途をたどるばかりだった。
苦痛に満ちた呻き声と、荒い喘鳴が、重苦しい医務室の天井に反響し続ける。
そして――。
そんな地獄の底のような医務室の扉が、ドォン! と乱暴に蹴破られた。
「――ええい、騒々しい! 私の輝かしい研究の邪魔をするなと言ったはずだぞ!!」
現れたのは、金糸の刺繍が施された豪奢極まる純白の錬金術師ローブを纏った青年だった。
整えられた金髪に、傲慢さを隠そうともしない吊り上がった青い瞳。胸元には、王立薬草院筆頭錬金術師の証である黄金のメダルが誇らしげに揺れている。
ユルゲン・フォン・ブラント。
かつてエレナを「光らない薬しか作れぬ無能」と罵り、婚約破棄を突きつけて極寒の辺境へと追放した、張本人だった。
ユルゲンの後ろには、中央騎士団長ヴァルター卿が、苦虫を噛み潰したような険しい表情で追従していた。
「ユルゲン殿! 大広間を見ろ!」
ヴァルター卿が怒気を含んだ声で叫び、床に転がる兵士たちの群れを指し示した。
「今朝の演習中だけで、新たに四十名の精鋭が倒れた! これで今週に入ってから倒れた兵は、騎士団全体の二割を超える! 全員が激しい腹痛と吐血を訴え、意識を失っているのだ! 貴殿の納入した『ハイ・エーテルポーション』を配備してから、明らかに兵の身体がおかしくなっている! 一体どういうことだ、説明しろ!!」
中央騎士団長からの直接の追及。
並の調合師であれば、蒼白になって平伏し、即座に成分調査を開始する場面だった。
――しかし。
ユルゲンの反応は、常軌を逸していた。
「……は? 説明だと?」
ユルゲンはローブの裾を払い、倒れ伏す兵士の足元に広がる吐血痕を一瞥すると、心底鬱陶しそうに鼻を鳴らしたのだ。
「ヴァルター卿、貴殿は何を馬鹿な言いがかりをつけているのですか? 私の開発した『ハイ・エーテルポーション』は、従来のポーションの十倍を超える高濃度魔力を凝縮した、王立薬草院史上最高傑作の神薬ですよ? 国王陛下からも絶大なる賛辞を賜った奇跡の霊薬に、瑕疵などあろうはずがないでしょう!」
「だが、現に兵たちがこうして血を吐いて倒れているのだぞ!!」
「それは貴殿の部下どもの根性が足りんからだ!!」
ユルゲンは唾を飛ばして逆ギレし、床に倒れて苦悶の声を上げていた一人の若き騎士の胸元を、自らの豪奢な革靴の先で無造作に小突いた。
「おい、起きろ! 情けない声を出すな! 我がポーションの放つ至高の魔力光が、貴様らの軟弱な体内の不浄を焼き払い、急激に細胞を再構築してやっているのだ! 激痛が走るのは、魔力が全身の血管を駆け巡って傷を塞ごうとしている『効果の証』だ! 痛みに耐え、歯を食いしばって立ち上がることすらできんのか、この出来損ないどもが!」
「う……ぐ……っ、ゆ、ユルゲン様……お腹が……焼けて……息が……」
足元で懇願するように手を伸ばした騎士の手を、ユルゲンは汚らわしいものを見るようにバンと払いのけた。
「触るな無礼者! 魔力濃度の高さについてこれず、自らの器の小ささで自滅した愚鈍共が! 神薬の恩恵に感謝するどころか、文句を垂れるとは恩知らずにも程がある! ヴァルター卿、兵の選抜基準を見直したらいかがですか!? こんな貧弱な魔力耐性しか持たぬ腑抜けばかりを集めておいて、私のポーションのせいにするなど言語道断だ!!」
喚き散らすユルゲンの言葉に、医務室内の軍医や衛生兵たちは、怒りを通り越して戦慄していた。
目の前で、国の防壁たる兵士たちが内臓を破壊されて死にかけているのだ。
それに対し、一切の医学的検証も行わず、ただ自らのプライドと利権を守るためだけに、すべての責任を「兵士の根性不足」へとすり替える。
これほどまでに醜悪で、冷酷な自己保身がこの世にあろうか。
「ユルゲン殿……!」
ヴァルター卿の額に、太い青筋がピキピキと浮き上がった。
「言葉を慎め! 彼らは我が誇り高き騎士団の精鋭だ! それを腑抜け呼ばわりするとは何事か! 現に、尿が黒く濁り、皮膚が黄色く爛れているのだぞ! これが正常な薬効の範囲内だと本気で言うつもりか!?」
「あ、当たり前だ!」
ユルゲンは目を血走らせ、胸を張って言い放った。
だが――その青白い額には、隠しようもない冷たい脂汗が、タラリと頬を伝い落ちていた。
(……な、何なのだ、この症状は……!?)
傲慢な態度の裏側で、ユルゲンの心臓は、恐怖によって早鐘を打っていた。
錬金術師としての基礎知識すらろくに持たず、「魔力を高濃度で詰め込めば派手に光ってよく効く」という浅薄な思い込みだけで調合を続けてきたユルゲン。
彼には、目の前で起きている生化学的崩壊の機序など、何一つ理解できていなかったのだ。
――急性尿細管壊死。
――薬剤性急性腎障害(AKI)。
――劇症型薬剤性肝障害。
かつて、王立薬草院の調合室で、地味な作業着を着たエレナが、必死の形相で彼に突きつけたあの警告。
『ユルゲン様、その薬は魔力刺激が強すぎて血中濃度が危険域に達します! 高濃度の魔力は、細胞膜の浸透圧バランスを破壊し、筋線維を不可逆的に壊死させる猛毒になりかねません!』
『破壊された筋肉から流れ出た大量のミオグロビン蛋白が、腎臓のフィルターである糸球体を瞬時に目詰まりさせます! 急性腎不全で、服用者は確実に命を落とします! 今すぐ濃縮配合を中止してください!!』
(……っ!? ま、まさか……あ、あの女の言っていた戯言が……!?)
ゾワリ、と。
ユルゲンの背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
あの時、自分はエレナの言葉を一笑に付した。
「光らない薬しか作れぬ無能の嫉妬だ」「即効性こそが正義だ」と罵り、彼女の提出した詳細な安全性データと血中濃度モニタリング(TDM)のカルテを、ゴミ箱へと叩き捨てたのだ。
だが、今。
眼前に広がるこの地獄は――エレナが予言した通りの、寸分違わぬ生化学的破滅そのものだった。
過剰な魔力刺激によって全身の筋線維が強制収縮を強いられ、微小断裂を超えて大規模な融解(横紋筋融解症)を起こした。
血中に溢れ出した大量のミオグロビンが、腎臓の微細な尿細管にヘドロのように詰まり、腎機能を完全に停止させた。だからこそ、尿がコーラ色に変色し、老廃物が全身に回って尿毒症の痙攣を引き起こしているのだ。
さらに、過剰な薬物代謝を強いられた肝臓のグリコーゲンは枯渇し、肝細胞が広範囲に壊死したことで、ビリルビンが血中に漏れ出し、全身を黄色く染め上げる劇症黄疸を引き起こしている。
すべては――エレナの警告を無視し、己の功名心のために「光る毒」を大量生産して軍に売り捌いた、ユルゲン自身の無知と強欲が招いた人災だった。
(ち、違う……! 私のせいではない! 私の調合が間違っているはずがないのだ! 私は王都筆頭の天才錬金術師ユルゲン・フォン・ブラントだぞ! あの落ちこぼれの男爵令嬢ごときが、私より正しいはずが……あってたまるものかァッ!!)
突きつけられた残酷な現実から、ユルゲンの脆弱な精神は猛烈な勢いで逃走した。
現実を認めれば、待っているのは筆頭錬金術師の資格剥奪、爵位剥奪、そして軍への大量致死傷罪による処刑台だ。
保身。
己の地位と名誉を守るためなら、何千人の兵士が内臓を溶かして死のうと知ったことではない。
「ヴァルター卿、いいですか!」
ユルゲンは顔を歪め、引き攣った笑みを浮かべながら叫んだ。
「これは好転反応です! 体内の毒素が排出される過程で、一時的に魔力酔いが起きているだけに過ぎません! ここで投薬を止めれば、せっかくの強化が無駄になります! 追加の『ハイ・エーテルポーション』を全兵士にさらに二倍の用量で投与し、魔力の壁を力づくで突破させるのです! そうすれば、彼らは真の無敵の肉体を手に入れますぞ!!」
「な……に……!?」
ヴァルター卿が絶句した。
目の前で瀕死の重態に陥っている兵たちに、さらに倍の毒を流し込めという狂気の沙汰。
老軍医が「狂っている……! そんなことをすれば、今夜中に全員心不全で全滅しますぞ!」と悲鳴を上げる。
医務室の空気が、抜き身の刃のような緊迫感で張り詰めた――まさに、その刹那だった。
バァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
医務棟の重厚な鉄の扉が、外から凄まじい力で蹴破られた。
蝶番が悲鳴を上げ、金具が弾け飛ぶ。
「ヒャアッ!?」
衛生兵たちが飛び退く中、砂塵を巻き上げて部屋の中へと雪崩れ込んできたのは――。
異様な、あまりにも異様な人影だった。
豪奢なフリルとレースがあしらわれた、王都最高級の真紅のドレス。
だが、そのドレスは泥と汗で汚れ、ところどころ引き裂かれていた。
そして何より――その頭部全体は、まるで呪われた罪人のように、分厚い漆黒のシルクベールによって幾重にも覆い隠されていたのだ。
ベールの隙間から漏れ出てくるのは、腐りかけた肉と、刺激臭のする香油が混ざり合った、鼻を衝く強烈な悪臭。
女は肩を激しく上下させ、獣のような荒い息を吐きながら、血走った目で医務室の中を見渡した。
「……ゆ……る……げ……ん……」
地獄の底から響くような、掠れた金切り声。
その声を聞いた瞬間、ユルゲンの背筋が凍りついた。
「ミ……ミレーヌ……様……!?」
侯爵令嬢、ミレーヌ・フォン・サルム。
かつてエレナを嘲笑い、ユルゲンにすがりついて婚約者の座を奪い取った、社交界の華と謳われた令嬢。
「ユルゲン……! ここにいたのね……! 探したわよ……私の愛しい錬金術師様ァッ!!」
狂乱の叫びとともに、ミレーヌは泥まみれの靴で医務室の床を蹴立て、ユルゲン目掛けて一直線に突進してきた。
そして――。
部屋にいた全員が息を呑む中、ミレーヌは自らの頭部を覆っていた分厚い漆黒のベールを、両手で力任せに引き剥がしたのだ。
「――見てよ、ユルゲン!! 貴方の作った奇跡のポーションの、この素晴らしい成果をぉぉぉぉぉっっっっ!!!!」
ベールが宙を舞い、白日の下に晒されたその「素顔」を目にした瞬間。
医務室にいたすべての軍医、衛生兵、そして歴戦の騎士団長ヴァルター卿までもが――。
「「「ヒィィィィィィィィッッッッ!?!?!?」」」
この世のあらゆる怪異を目の当たりにしたかのような、絶叫を上げて後退った。
ユルゲンの青い瞳が、恐怖のあまり限界まで見開かれ、顎がガクガクと震えて外れそうになる。
そこに現れたのは――かつての社交界の美貌の面影など微塵も残っていない、完全に崩壊した「生ける死者」の顔面だった。
破滅のカウントダウンは、すでに最終局面へと突入していた。




