第29話:月下の散歩と不整脈? 「鈍感なところも愛おしい」
新薬学研究室の奥にある螺旋階段を一段ずつ踏みしめながら、冷え切った外気がゆっくりと頬を撫でていくのを感じていた。
城の最上階、普段は哨戒の兵すら立ち入りを制限されている中央尖塔の展望テラス。
鉄の扉を押し開けた瞬間、視界を満たしたのは、息を呑むほどに純白で、静謐な銀世界だった。
「……わぁ……」
思わず、小さく感嘆の吐息が零れ落ちた。
昼間の吹雪が嘘のように鎮まり返った夜空には、雲一つなく、満天の星々がまるで手の届く場所にあるかのように鋭い光を瞬かせていた。
その天空の真ん中に浮かぶ銀色の満月が、青白い光のベールとなって降り注ぎ、見渡す限りの北方山脈の稜線を神々しく浮かび上がらせている。
風はほとんどない。
シン、と静まり返った大気の中を、風花のような粉雪が、きらきらと月光を乱反射させながら、ただゆっくりと、音もなく舞い落ちていた。
「寒いか」
横に並び立ったジルヴェスタ様の低い声が、静かな夜の空気に溶け込んでいく。
「いえ、空気が澄み切っていて、かえって頭がスッキリします。研究室の蒸留熱で少し火照っていましたから」
私が笑って答えた、その時だった。
ふわり、と。
信じられないほど分厚く、温かい重みが、私の両肩を優しく包み込んだ。
ジルヴェスタ様が、自らの肩から漆黒の毛皮外套を脱ぎ、私の華奢な身体をすっぽりと覆うように掛けてくれたのだ。
「あっ……ジルヴェスタ様!? これ、あなたの防寒具でしょう? いけません、夜風は想像以上に体表面の熱を奪います! 病み上がりの患者が身体を冷やしてどうするのですか!」
私が慌てて毛皮の襟元を押し戻そうとすると、ジルヴェスタ様の大きな手が、外套の上から私の両肩をトンと優しく押さえて制止した。
「構わん。私の平熱はお前のお粥と養生のおかげで、すでに以前の倍近く高い。この程度の寒気で風邪を引くほど、私の身体は脆く作られてはおらん」
「そうやって油断するのが一番危ないんですよ……」
口ではぷりぷりと文句を言いながらも、毛皮の内側から立ち上ってくる温もりに、私の身体は本能的に強張りを解いてしまっていた。
大人の男の体温。
そして――白檀の香木と、北方の冷たい風、そして先ほどまで調剤室で手伝ってくれていた月光花の清冽な香りが微かに混ざり合った、ジルヴェスタ様特有の匂い。
自分の身長の何倍も幅のある巨大な外套に包まれると、まるで彼の腕の中にすっぽりと閉じ込められているかのようで、胸の奥が不自然にトクンと小さく跳ねた。
ジルヴェスタ様は満足げに目を細めると、手すりへと歩み寄り、眼下に広がる城下町を見下ろした。
私もその隣に並び、手すりにそっと手を添える。
眼下に広がる城内の中庭、そして城壁の向こうに連なる城下町の家々には、あたたかなオレンジ色のランプの明かりが星屑のように灯っていた。
鍛錬場の宿舎の窓からは、非番の騎士たちが車座になって談笑している賑やかな笑い声が、微かに風に乗ってここまで届いてくる。
「……変わったな」
ジルヴェスタ様が、噛み締めるように呟いた。
その横顔を照らす月光は、彫刻のように整った美貌の陰影をひときわ際立たせている。
「お前がこの城に来る前……ここは、ただの墓場だった。北の防壁を守るためだけに兵が集まり、痛みに呻き、血を吐きながらポーションを煽り、明日の命も知れぬまま神経をすり減らしていた。私自身もそうだ。いつ内臓が焼き切れて死ぬか、いつ魔獣に食い殺されるか……それだけを考え、誰も笑わず、ただ死線を耐え忍ぶだけの冷たい石の檻だった」
ジルヴェスタ様の紫の瞳が、城下の街並みへと向けられる。
「だが、今を見ろ。お前が来てから、この城に……この領地に、笑い声が増えた。バルツも、カイエンも、兵たちも、町で暮らす名もなき民たちも……皆が痛みに怯えることなく、前を向いて、明日を信じて生きている」
男の言葉は、飾りのない、剥き出しの真情だった。
ジルヴェスタ様はゆっくりと振り返ると、その深い紫の双眸で、私を真っ直ぐに見つめてきた。
「エレナ。お前が私を救い、我が領の民を救ってくれた。……心から、感謝している」
真正面から注がれる、あまりにも重く、温かい敬意と感謝。
その眼差しの熱さに、私は気恥ずかしさで思わず視線を泳がせてしまった。
前世の記憶が、走馬灯のように頭の裏をよぎる。
あの頃の私は、朝から晩まで鳴り止まない電子カルテのアラームに追われ、処方箋の束をさばき、理不尽に怒鳴る医師の機嫌を取り、誰からも「ありがとう」の一言すら言われないまま、疲れ果てて倒れた。
死ぬ瞬間、私が最後に見たのは、薄暗い当直室の冷たい天井だけだった。
私の知識も、私の技術も、誰かの心に届いているのかすら分からず、ただすり減るように消費されていった前世。
そして今世でも、無能と罵られ、婚約破棄され、雪深い辺境へと投げ捨てられた。
けれど――今、私の目の前にいる人たちは、違う。
私の処方箋を信じ、用法用量を守り、痛みが消えたことを涙を流して喜び、こうして心からの感謝を伝えてくれる。
救われたのは、私の方なのだ。
「……ジルヴェスタ様。私、大層なことをしたわけではありませんよ」
私は手すりの上の雪を指先でそっと撫でながら、照れ隠しに小さく笑った。
「私はただの薬剤師です。目の前で苦しんでいる患者さんがいたら、バイタルを測り、原因を突き止め、一番負担の少ない薬を調合する……前世からずっとやってきた、当たり前の仕事をしただけです。感謝されるような特別な魔法を使ったわけではありませんよ」
「……当たり前、か」
ジルヴェスタ様がふっと息を漏らした。
そして――。
「誰にとっても当たり前ではなかったことを、当然のように成し遂げてみせる。……それがどれほど尊く、眩しいことか、お前自身だけが分かっていないのだな」
ザッ、と雪を踏む音がした。
ジルヴェスタ様が、私の真正面へと向き直ったのだ。
その距離、わずか半歩。
見上げる視線の先、男の表情には、先ほどの穏やかな微笑みは消え去っていた。
夜空の星をも呑み込むかのような、底知れぬ真剣さと、熱い光を宿した瞳が、私の顔をじっと見つめている。
「エレナ」
「は、はい……?」
「私の胸に、手を当ててみてくれ」
「……え?」
突拍子もない要求に、私の思考がピシリと止まった。
胸に、手を当てる?
怪訝そうに瞬きをする私に対し、ジルヴェスタ様は躊躇うことなく自らの右手を伸ばし、私の小さな右手を取った。
そして――自らの胸元、軍服のボタンの隙間――仕立てのいい上質な布地の上から、左胸のど真ん中へと、私の手のひらをぐっと押し当てたのだ。
「あ……」
手のひら越しに、直接伝わってきた。
鍛え抜かれた鋼のような大胸筋の弾力。
皮膚を隔てて伝わってくる、男の高い体温。
そして何より――。
ドクン! ドクン! ドクン! ドクン!
掌を突き破らんばかりの力強さで、猛烈なスピードで打ち鳴らされている、心臓の激しい鼓動。
「…………っ!?」
私の職業病レーダーが、けたたましい非常ベルを鳴り響かせた。
手のひらの感覚神経を総動員し、心拍の周波数を脳内で瞬時にカウントする。
一秒、二秒、三秒……。
「ト、トクン、トクンと……かなり拍動が速いですね……!? 毎分、九十五……いえ、百を超えています! 血圧も急激に上がっているのでは!?」
私は思わず息を呑み、ジルヴェスタ様の顔を見上げた。
耳元が微かに赤らんでいる。呼吸もわずかに浅く、瞳孔がわずかに散大しているように見える。
「……病気配分か?」
ジルヴェスタ様が、低くかすれた声で尋ねてくる。
その問いに、私の頭の中は一瞬にして「救急臨床モード」のパニックへと叩き落とされた。
「病気配分どころの騒ぎじゃありません! 氷点下のテラスで、会話をしているだけの安静時に、心拍数が百を超えるなど明らかに異常です! 重篤な洞性頻脈、あるいは発作性心房細動の前兆……!? まさか、先ほど採取した月光花の微量花粉に、未知の心筋刺激アルカロイドが含まれていたのですか!? それとも、過去の高濃度ポーションの心毒性が、寒冷刺激によって再燃したのですか!?」
私はジルヴェスタ様の胸元から手を離そうとした。
「いけません、すぐに研究室へ戻りましょう! 心電図……くっ、心電図がないのがもどかしい! 聴診筒で第一心音と第二心音の分裂を確認し、頸動脈洞マッサージで迷走神経を刺激して心拍数を強制的に落とさなければ! ジルヴェスタ様、今すぐ横になって休養を――」
焦りまくってカルテを取り出そうと身を翻しかけた、私の右手を。
ギュッ、と。
ジルヴェスタ様の大きな、熱い掌が、逃げ場を塞ぐようにしっかりと包み込んだ。
「え……?」
引き止められた手のひらが、再び彼の胸元へと引き戻される。
ドクン、ドクンと暴れる心臓の真上。
ジルヴェスタ様は、私の手を自らの胸板に押し当てたまま、逃がそうとしない。
男の長い指が、私の指の隙間へと滑り込み、ぎゅっと指を絡め合わせる――恋人同士が交わすような、深い指切り(恋人繋ぎ)の形で。
「ジルヴェスタ……様……?」
見上げた視線の先。
ジルヴェスタ様は、苦笑していた。
だが、その切れ長の目元に浮かんでいたのは、からかうような色では決してなかった。
狂おしいほどに甘く、切なく、そしてどこまでも愛おしげに細められた紫の瞳。
男は私の顔を至近距離から見つめ、吐息を雪の夜空へと白く零しながら、低く、蕩けるような声音で告げたのだ。
「……お前が触れているから、速くなるのだ」
「…………え?」
「毒のせいでも、寒さのせいでも、心筋の病のせいでもない。……お前が私の側に寄り添い、無防備に私を見上げ、その柔らかな手で触れてくるから……私の心臓が、跳ね上がっているのだ」
夜の静寂を切り裂いて、澄んだ男の声が鼓膜を震わせた。
ジルヴェスタ様の一歩が、雪を踏みしめて間合いを詰める。
私の背中が、テラスの石の手すりへとトンと触れた。
逃げ場はない。
ジルヴェスタ様の左手が、私の腰の後ろの手すりに置かれ、私は完全に、彼の上背と毛皮の外套の温もりの内側へと閉じ込められていた。
「ジ……ジルヴェスタ、様……?」
「これほど分かりやすく心臓を鳴らしているというのに……お前はどこまでも、病変と薬理学の引き出しばかりを開けようとするのだな」
ジルヴェスタ様がふっと自嘲するように口元を緩め、空いていた左手を持ち上げた。
手袋を外した素手の指先が、冷たい夜風に晒されていた私の頬へと、そっと触れる。
男の親指の腹が、私の下唇の端を優しく、慈しむように撫ぜた。
「……鈍感なところも、ひどく愛おしい」
「――――ッッッ!!!!」
その瞬間。
私の脳内メモリーが、過熱によって爆発四散した。
お前が、触れているから。
速くなる。
鈍感なところも、愛おしい。
(な……な、なななななななな――ッ!?)
理解した。
理解してしまった。
これは、頻脈性不整脈ではない。
副腎髄質からの褐色細胞腫による異常分泌でも、甲状腺クリーゼでもない。
目の前の男――帝国最強と恐れられ、氷血の狂犬と謳われたこの偉丈夫が、一人の生身の男として、私という一人の女に対して、理性を焼き切るほどの情熱を注ぎ込んでいる証拠。
純度百パーセントの、求愛のシグナル。
カアァァァァァァァッッッ!!!!
全身の血液という血液が、猛烈な水圧で私の頭頂部へと逆流した。
顔面が沸騰したやかんのように真っ赤に染まり上がる。
耳の奥がカッと熱を帯び、今度は私の心臓が、ジルヴェスタ様の鼓動を追い抜かんばかりの勢いで、ドックン! ドックン! と暴れ馬のように跳ね始めた。
「あ……っ、あの……! そ、それは……っ!」
「私の不整脈を治す薬は、お前の手帳のどこかに載っているのか? エレナ」
至近距離から囁かれる、低く甘い美声。
ジルヴェスタ様の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
整いすぎた鼻梁、吐き出される温かい息、そして熱烈な色を帯びた紫の双眸。
唇が触れ合うまで、あと数センチ。
逃げなければいけないのに、腰が抜けたように動けない。
私は両手で彼の胸板を押し返そうとしたが、その手のひらからは微塵も力が入らなかった。
「あ、あの……! ジルヴェスタ様……! そ、それは……!」
私は真っ赤になった顔を背け、裏返りそうな声を絞り出した。
「そ、それは……薬理作用の範囲外ですッッッ!!!!」
「……ふ」
私のあまりにも職業病全開の拒絶(?)に、ジルヴェスタ様は堪えきれなくなったように小さく吹き出した。
男の喉が低く震え、額が、私の肩の上へとコテンと預けられる。
「……範囲外か。そうだな、お前の調合書には、私のこの狂おしいほどの独占欲を鎮める処方箋など、どこにも書いてあるまい」
肩口から伝わってくる、男の切ない吐息。
ジルヴェスタ様は、私を抱きしめる腕の力をわずかに強めた。
壊れ物を慈しむように、けれど絶対に誰にも渡さないと誓う捕食者のように、強く、深く。
「だが、治す気など毛頭ない。……一生、この熱に浮かされたままで構わん。お前が私の側にいてくれるのならな」
「ジ、ジルヴェスタ様……」
耳元で囁かれる甘い誓いに、私の心臓はもはや収縮期血圧二百を突破しそうなほどのパニックを起こしていた。
大人の男の、甘く重い包囲網。
逃げ場など最初からどこにも用意されていなかったのだ。
粉雪が静かに舞い散る月下のテラスで、二人の体温が、毛皮の外套越しに溶け合っていく――。
まさに、世界が二人だけのものになろうとしていた、その刹那だった。
バァァァァァァァァァァンッッッッ!!!!
静寂を粉々に叩き割る、凄まじい衝撃音が夜空に木霊した。
テラスへと続く鉄の重厚な扉が、蹴破らんばかりの勢いで左右に撥ね上げられたのだ。
「ヒャアッ!?」
私が跳び退くのと同時に、ジルヴェスタ様が素早く身を翻し、私を完璧に背中に隠すようにして大剣の柄へと手をかけた。
紫の瞳に、瞬時に絶対零度の殺気が蘇る。
「……何事だ。誰の許可を得てここへ――」
ジルヴェスタ様の地を這うような怒声。
だが――扉の前に立っていた人物の姿を認めた瞬間、その殺気は凍りついた。
そこに立っていたのは、副団長カイエンだった。
いつもなら一糸乱れぬ完璧な身だしなみを保っている知性派美青年が、軍服のボタンを掛け違え、銀縁眼鏡を歪ませ、息を切らして肩を上下させていた。
その顔色は、かつて胃潰瘍で血を吐いて倒れた時以上に、真っ青に染まり上がっていた。
「か……閣下……! エレナ様……ッ!」
「カイエン? 貴様、その狼狽ぶりは何だ」
ジルヴェスタ様が眉をひそめる。
カイエンは震える手で、胸元から一通の書簡を取り出した。
その封筒は、泥と血飛沫に汚れ、王家の緊急最高機密を示す「黒い封蝋」が無残に引き裂かれていた。
「王都からの……緊急暗号早馬が、城門に飛び込んでまいりました……! 馬は門前で吐血して絶命……伝令の騎士も、意識不明の重体です……!」
「王都から……?」
私の胸の奥で、嫌な予感がドス黒く渦を巻き始めた。
カイエンは震える声で、その羊皮紙に記された「地獄の急報」を読み上げた。
「中央騎士団……壊滅の危機です……! 王立薬草院筆頭・ユルゲンの開発した新型『ハイ・エーテルポーション』を正式配備された中央騎士団宿舎において……原因不明の集団吐血、急性多臓器不全、意識不明の重篤者が……今朝の時点で、すでに百名を超過……!」
「な……ッ!?」
私の息が止まった。
「兵たちの皮膚は黄色く変色し、コーラ色の尿を垂れ流して痙攣……! 王都の医師たちも『未知の呪い』と恐慌をきたし、治療法が一切不明……! 王都は今、パニック状態に陥っております……!!」
冷たい夜風が、テラスを吹き抜けた。
月光に照らされたカイエンの青ざめた顔。
ついに――やってきたのだ。
私が追放される直前、ユルゲンに真摯に警告したあの言葉。
『その超高濃度ポーション、血中濃度が危険域に達します。服用者の腎臓と肝臓を破壊する猛毒になりかねません』
傲慢にもその警告を一蹴し、「光る即効性こそ正義」と嘯いた愚者たちが撒き散らした毒の種が。




